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Vtuberと葬送(Vtuberと引退と死)

 Vtuberに対する「葬送」はあるのか、可能なのかという事をたまに考える。Vの引退と死はイコールではない。例えば企業Vにおいて運営企業の判断によりVの活動が停止して「引退」し、今後活動が再開される見込みは一切無いとしてもそれはある意味で死ではない。個人Vに関してはVとして存在する為の権限を本人が所有しているので、引退/休止後にひょっこり復活したり別のVの所で顔を見せてくれたりする例もちょこちょこある。超嬉しい。個人Vに関してはそういった事例を見ているので、本稿は主にVtuberとしての活動権限を企業が保有する種のVtuberの引退をイメージして書かれています。

Vtuberの構成要素/Vtuberの引退

 Vtuberの主流な様式における最低限の構成要素は大まかに[2D/3Dモデル・設定・魂]である。異論はありそう。設定は無くても一見成立するような気がするけど、そこが無ければただの「アバターを被った人」じゃないかという気がする。やはり設定、あるいは世界観やポリシーが無ければVtuberではない……気がする。何せVには明確な定義が無いので「気がする」としか言えない。
 さて、上に挙げた企業Vの引退を考えると、それは「魂は生きている(ので転生先や別の形で出会う可能性がある)」けど「(その権限を企業が保有する為)現行のモデルと設定は死ぬ」という状態の開始である。つまりある側面での生が明らかなまま、ある側面での死を受け入れるという半端な状態になる。ここで問題になるのが「葬送」である。

葬送/有機体としてのVtuberと死

 人や生き物や、あるいは愛着のある物でも良いけど、そこに一つの有機体としての死が訪れれば、残された人々は葬送を執り行う事が出来る。葬送の機能の一つは「諦めを付ける機会になる事」だと思う。悔いや無念が残る事はあっても「死者に対してこれ以上何も出来ない」という諦めは受け入れざるを得ない。その事を実感させる為の儀式である。
 では、去り行くVtuberへの葬送は可能か。それは不可能である。上では一つの有機体の死と表現したのだけど、有機体とは様々な器官を統合した個体である。Vtuberで言えば最初に挙げた[2D/3Dモデル・設定・魂]という器官が統合されて初めて「Vtuber」という一個の有機体になる。普通の生物の死は、一個の有機体の全き死として完了する。ところがVtuberが引退するという時、先に述べたように「モデル・設定」は死ぬが、「魂」は生き残る。困った事に、Vtuberは引退して尚「有機体としての全き死」を迎えられないのだ。

Vtuberと葬送

 人は葬送によって諦めの機会が得られる。しかしVの引退は「まだ生きてる部分があるじゃないか」という事実と共に訪れる部分的な死である。全き死を迎えていない者に葬送は行えない。葬送という明確な区切りと諦めの機会を設けられない事は人の心に複雑な気持ちを残す。何と言ってもそんな死の形はVtuber以前には恐らく存在しなかった、新し過ぎる死の形式だからである。それは「実在する人物の死」とも、「キャラクターの死」とも、「作品の終了(中断)」とも、「俳優やタレントの引退」とも、「友人との離別」とも少しずつ違う。また、かつて引退を見送ったVとの再会のようにも思える「転生先や別の形で出会う」事象についても、それが一つの有機体としての構成要素を別にしているならば、(当然だけど)それは別のVtuber等との「出会い」である。ただ、どこか懐かしい気持ちになるし、部分的な再会であれば部分的な喜びがあるその裏表には部分的な悲しみもあるでしょう。

おわりに

 ここまで書いて、じゃあVtuberの引退とは何なんだと言われると何なのか分かりません。ただ要点を整理したかった。これまで後姿を見送った、もしくは見送る事が出来なかったVtuber達を思う時に感じる寂しさや空虚さやモヤモヤを一度出来る限り言語化したかった。自分の中で。自分の為に。という文章です。Vのオタクを長い事やっていると概ね楽しい事ばかりですが、別れは本当にいつも不意に来ます。別れへの心の持ちようは「少しずつ受け入れる」以外のやり方は未だに分かりません。でもVのオタクは辞められないんだ、これが。結局良く分からないけど、これで本稿はおわり。

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