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言語化された思考を知人に公開するリスク

いつもお世話になってます。本音組、そんな内々のグループを勝手に作っておいて、無責任にも、見るなら自己責任でと突き放す僕ですが、そもそもこれが続くかという問題がありますね。はい。今のところただのマウント取りにしかならない予定ですが、それでも覗いてみたければ、本当に自己責任で、どうぞ。




「思考」とはそもそも、他の誰にもみられない脳内で完結するものであって、このように敢えて言語化するのもどうかと思いますが、なんか単純にやってみたくなったので、やってみます。無理やり目的意識を持つなら、これによって周りからどんな反応が得られるか、楽しみにな部分があるのでしょう。

その日起こったことやそこから感じたことなど、ひどく私的なアウトプットを投稿するブログというシステムは、それが私的であるという点に魅力があるのだと思います。多くの場合、それが(もともとは)どこの誰だか知らないような相手でもなんだか気になってつい読み進めてしまうものらしい。それは彼の人となりについての情報が0から始まるものであって、どういった人がどういう感情を抱くのか、というパズルを埋めるような作業が楽しめるからではないかと考えています。それはさておき、僕のことをある程度でも知っている人にとって、誤解を招きかねない文字情報だけで何かを訴えかけるのはいささかリスキーだと考えます。もちろん、インスタのストーリーでお見せした人について少なからず僕からは心を開いていて、何がしかの誤解を受けても構わないと考えているようです。叶うのであれば、僕を毛嫌いしたタイミングでその報告お願いしオハナシをしてみたいものですね。

と、これを踏まえた上で見てみたい人だけ見てください、と言いたいわけなのですが、一つ勧告するとしたら、精神状態のいい時にしてください、ということです。基本僕のマウント取りを綴るだけなので、疲れてる時にでも読まれるとお互いにいいことないと思います。



違った角度から話してみましょう。人は普段、インプットされたありとあらゆる情報を脳が処理し、感情や言いたいことといったプロダクトが出来上がり、それをどこまでアウトプットしていいかを意識/無意識ー的に判断しながらコミュニケーションを取っています。いわば、脳内で綴られたブログの一部分だけを切り取って発しているわけです。それが一部分であるおかげで、不必要な誤解が生まれず、軋轢も生まれず、一応は円滑なやり取りになります。その多寡は人によって違えど、そのブログが瞬時に言語化されてはいない上に一瞬で読み飛ばされてしまう以上、その内容の全てをアウトプットすることはそもそも不可能なのです。

人類は文字に起こして記録するという行為を発明しました。こちらの場合も脳内で綴られたブログの一部分ではあるものの、対面では言わないような角に私的な内容、感情が動いたこと、特定の相手を不快にさせる内容、について述べることができます。特に、それを対面で受け取って不快に思うかどうかは相手に強く依存するため、コミュニケーションの難しさを痛感するとともに、ある程度は運ゲーになるのも受け入れる必要があります。これを私は受け手の自己肯定感に結びつけてひたすら無視(しようと)しているのですが、そろそろ「自己責任」という言葉の意図を汲んでくれるでしょう。つまり、不快になるリスクを覚悟したのはあなただということです。不快になるなとは言いません。不快になることを受け入れてください。そしてゆくゆくはその不快感を愉しめるようになるとよいですね。それはつまり、自己の至らない部分を受け入れることであり、つくづく私の言う自己肯定感につながるのです(持論です)。ちなみに、嫌なことを受け止めて脳内で対処する力のことを、社会一般にはストレス耐性と呼ぶらしいです。

タイトルに挙げた「リスク」とは受け手に依るという不確実性を意味します。同じ情報を目にして同じ行動を取らない、同じ感情を抱かないというのが人間の面白いところですね。

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