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ガクチカの自己目的化

本音組、そんな内々のグループを勝手に作っておいて、無責任にも、見るなら自己責任でと突き放す僕ですが、そもそもこれが続くかという問題がありますね。はい。
noteの更新も何回か頑張ってみはしたのですが、10記事も数えずに間が空き、より優先したいことなどという言い訳に近い何かを理由に、頭の片隅に飼い続けてきたわけです。
目的意識の重要性を学んだ(?)今、愚かにもまた挑戦してみようなどとしているのですが、これについてはまたいつか。

ここで書くのは、分かるようでなんか分からない、掴めるようでどこか掴みきれないもどかしさを楽しんでもらうお話。




さて、自己目的化の概念を理解している前提で話しますが、ガクチカがこれにあたるのではないかと勘付いてしまったわけなのです。

先日、同年の友人と再会した時の話。「ガクチカを積む」という言葉選びがやけに気になりながら、彼のガクチカ話を聞いておりました。大学で頑張っていることやら、バイトの経験やら。彼が言うには、「ガクチカ積んでるから、就活は怖くないけど、なんかだるいわー」と。それが軽微なマウントであることは構わないのだが、ガクチカを積んでいるから就活に強いのかと言われれば、それはまた違うのではと、思ったわけです。

就活とは、今後の人生を、あるいは少なくとも卒業後の数年の扱い方を決めるものであり、その時期に対する当事者意識が自然と自分を動かしてくれるものであるべきでしょう。まあ、それが理想論でしかないことは、就活が始まりつつある我々も感じていることですが、改めて考えてみると、大事な期間が始まるのだと痛感します。

今回は自己目的化の話なので本題に戻します。大学入学当初から、就活ではガクチカが大事、とやんわり刷り込まれてきた中で、なんとなーくやったほうがいいかな、頑張ったほうがいいかな、といういわば就活に対する損失回避心的なものが働いてここまできたように思います。僕のような一部の人間にというわけではなく、バイト選びや所属団体、交友関係に至るまで、潜在的にそういった思考回路がありましたよね、という、言われてみればそんな気がしないでもない次元の話。

個人差はあれど、就活を意識し出した頃から、何かに力を入れてみたほうが良いのではと気づき、先に挙げた諸活動を頑張ってみるようになる。友人の「ガクチカを積む」という表現で、それが無意識的にガクチカとして話すネタが必要だからそれらに打ち込んできているような感覚にとらわれるようになりました。要するに、それをガクチカにするために取り組んでいるのか、本当に心からやりたくてやっているのかを断言出来なくなったのです。もちろん、きっかけは本心でやりたいと思ったのでしょう。そして現在も、他にやってみたいことを生み出しながらも、これを続けた先のワクワクを期待して打ち込み続ける。続けたいと思えることに出会えたことは素晴らしいし、それを共に楽しんでくれる仲間がいるのもありがたいことです。ですが、そこに「ガクチカ」という、漠然とした不安の隣にいる視点が加わることで、なんだか緊迫感を感じてしまうような気がします。

メタ的に捉えれば、それでもやっぱり「やりたい」という本心に立ち返ってきて、就活の話を一旦おいておいた状態で再度楽しみ始められる。そう、つまりは目的意識の問題だったのです(ここでやっと冒頭の伏線回収)。ガクチカとして話すことが目的なら、そうと割り切って望めばいい。きっかけが自分でやりたいと思ったことであり、今もそれを楽しみたいと思えるのなら(嫌なことがあったとしても)、続けるべきでしょう。それが結果的にガクチカのネタになるとしても、打ち込む瞬間とは別の話。

しかし、ガクチカのネタを用意する目的は何であろうか。いうまでもなく、採用面接で語るためだろう。そのためには、どういう語り方をするかまで含めて検討する必要があり、はなから就活用に取り組むのなら、自分がどんな人間であることを訴えるべきかを意識しながら取り組むべきでしょう。リーダーシップを発揮できる人間なのか、大胆な決断ができる人間なのか。それは取り組む内容によっても変わるが、エピソードとは、自分の述べたアピールポイントを例示するためのものでしかない。その点で言えば、ガクチカがあることが良いのではなく、ガクチカを通して語れる自分がいることが重要なのだと思います。「積む」という表現からは、どこかガクチカの絶対量を信仰しているような思想が感じ受けられました。

もちろん、リーダーシップを発揮できる人間なのかどうかを探るためにリーダーに挑戦してみるという気の持ち方もあるし、大半は最初なんてそんなもんだろう。もしかしたら彼も、取り組む中で目的を見失ってしまい、ガクチカになることだけが目的になってしまったのかもしれない。それならそれで全く問題はなく、そう認識した上で語りたい自分を用意すればいい話なのです。

そして、実際にリーダーを経験してみると、リーダーシップの全くない人間なんていなくて、リーダーシップという抽象的な表現から、どんなリーダーシップなのか具体化されていくのです。大勢を扇動して何かを成し遂げるタイプ、少数に自分と同じ熱意を持たせて彼らにそれぞれの役割を持たせるタイプ、皆の様子を気にかけて皆が取り組みやすいようにフォローするタイプ、責任は俺が取るからやってみようぜと挑戦するハードルを下げれるタイプ、さっと上げるだけでもいろんなリーダー像が浮かぶ。出来事や状況などによって発揮される力は異なり、複数の力を発揮することもある。そう考えると、リーダーという経験から、他者にどう働きかける人間なのかが垣間見えるということになる。そうするとやはり、それをガクチカとするならそのエピソードを通してどんな自分を語ることができるのかをまとめる必要があるだろう。そしてそれは面接前の準備の話。まだまだ先のおはなし。

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