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書籍『みんなの建築コンペ論ーー新国立競技場問題をこえて』より、序文を公開


『みんなの建築コンペ論ーー新国立競技場問題をこえて』を刊行しました。2013年から2015年にかけて、社会的な大問題となった新国立競技場コンペをめぐる論争は、建築界と社会のあいだに以前より横たわっていた大きな亀裂(ディスコミュニケーション)を露わにするきっかけとなりました。建築家の山本想太郎さんと建築史家の倉方俊輔さんは、その亀裂に橋を架けるべく、足掛け5年にわたって議論に議論を重ね本書を書き上げました。①新国立競技場コンペをめぐる問題を時系列に検証し、➁歴史にさかのぼって古今東西の建築コンペを例になぜコンペが社会に資する建物をつくることができたのかを解説し、③翻って、日本のコンペ・公共事業をめぐる現状・仕組みを分析し、④今後のコンペの新しいモデルを提案しています。本書のタイトルに「みんなの」とあるように、コンペを専門家のみに閉じず、それぞれの立場の「みんな」に価値のある1冊に仕上がっていれば嬉しいです。ぜひ、ご覧ください。


序 誰がためにコンペはあるのか


コンペとは何か

二〇二〇年三月、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を受けて、当年七月に予定されていた東京オリンピック/パラリンピックの開催延期が決定された。オリンピック史上初の延期という事態となったが、この東京オリンピックはそれ以前にも多くの苦難に晒されてきた。主会場となる《新国立競技場》の建設問題もその一つであった。二〇一三年から二〇一五年にかけて、この建設プロジェクトにおける環境影響や費用超過、そしてその経緯の不透明さなどが大きな社会問題となったのである。その報道の中で、「コンペ」という言葉も毎日のように見出しにあがった。それは《新国立競技場》の設計者を選定するコンペの正当性を問うものであった。

しかしそのとき、そのコンペの良し悪し以前の問題として、そもそも「コンペ」とは何か、何のために行われているのかということは、はたして一般社会に理解されていたのだろうか。いやそれどころか、建築界でも、いつもコンペを実施している国や自治体でも、いつもコンペに参加している建築家たちでも、「コンペは何のためにやっているか」と問われて即答できる人はあまりいないのではないか。そして仮にその答えを挙げられたとして、現在行われているコンペは、その目的のために最も優れた方法となっているといえるのだろうか。コンペというものの意義ややり方について当事者も社会もきちんと合意できていないようでは、新国立競技場コンペが良い結末とならなかったのも当然のことといえるだろう。
 
さてそれでは、建築の「コンペ」とは何だろうか。それは狭義には「建築設計競技」、すなわち、ある建築計画の設計者を、その建築の設計提案を競わせて選定するという方法を意味する。その意味を拡大して「設計者を競わせて選定する発注方法」と捉えるならば、公共工事の大半はコンペで設計者を選んでいることになる(第3章で詳述)。しかし、たとえば設計料を入札して設計者を決める設計入札などをそこに含めることには違和感を覚える人も多いだろう。やはり建築そのものの文化的な質にかかわる「提案」を競うことが、通念的には「コンペ」といえるのではないか。「コンペ」という言葉は、このようにやや曖昧な意味のまま広く使われている。
 
本書のタイトルにある「建築コンペ」という言い方は、実は建築業界ではほぼ用いられない。通常は単に「コンペ」、あるいは「設計コンペ」というように呼ばれ、冠さなくても当然わかる「建築」は省略されがちである。たしかに業界人同士で話すならそれでいいだろう。本書があえて「建築コンペ」と題したのは、これからのコンペを建築界に閉じたものとはせず、社会全体でその意義と概念が共有されながらつくられていくものとしたいからである。それゆえ本書では、「コンペ」という言葉の厳密な定義などは行わない。むしろその言葉の意味を拡張することで、社会や計画の状況に柔軟に寄り添える「みんなの建築コンペ」に変革していくことを目標とする。

そして、「コンペは何のためにやっているか」。ただ「品質の高い建築をつくるため」という理由だけなら、すでに最高の実力を認められている世界的な建築家、つまりそのコンペの審査委員長のような人に設計を依頼すればいいともいえるだろう。そうではなく、多くの建築提案を競わせ、それらの中から一つを選択するというようなイベントが、なぜ必要なのだろうか。


コンペから、私たちは何を得るのか

新国立競技場問題の後を追うように、東京都江東区豊洲に建設中であった東京都中央卸売市場のプロジェクトも大きな社会問題となった。こちらの問題の中心は建設地の土壌汚染問題であったが、その騒ぎもなんとか乗り越えて、二〇一八年一〇月に以前の築地市場から新しい豊洲市場への大移転は果たされ、開場した。この《豊洲市場》も、〝プロポーザル〞(この〝  〞付きのプロポーザルについては第3章で詳述する)という疑似コンペ方式で設計者が選定されたものである。一応、一般公募の形式はとられたが、「五万㎡以上の卸売市場の設計実績のある者」という参加条件が付されたため、応募はわずか二社のみであった。
 
強い移転反対運動があったことからもわかるように、この市場移転がどうしても必要であったかどうかはいまだに意見の分かれるところである。情報技術の進化による流通革命が次々と起こっている現代において、今後一〇〇年、中央卸売市場はどのような役割を持ち、どのような建築であるべきなのか。そのような社会的検証の痕跡は、プロポーザルからも、そして完成した建物からもあまり感じることはできなかった。それにもかかわらず、《新国立競技場》をはるかに上回る総事業費のこのプロジェクトは成し遂げられたのである。「ビルの中に収められた、動線部分が広くなった旧築地市場」とでもいうべきこの施設を見るにつけても、私たちの社会は、「なぜ建築をつくるのか」を十分に思考することなくなんとなくつくる、ということに慣れてしまっているのではないだろうか、と考えさせられた。
 
建築コンペの実施には、多くの費用と手間がかかる。そして、コンペ時点における限定的な情報のみによって設計者を選定するということは当然リスクも伴う。だから実は、世の中で行われているコンペのほとんどは公共建築についてのものであり、民間ではあまり実施されていない。つまり、コンペはその手間とリスクが大きいため経済的実益性は乏しいと考えられがちな一方で、公益性の観点から見ればやる意味がある――はずである。そして、その公益性につながるコンペの最たる特質は、社会が、その建築をつくるというプロセスを共有し、検証できるということである。もちろんそれ以外にもコンペはいろいろな意義を持ち、それは本書で論じていきたいが、社会的プロセス共有という点でいえば、《新国立競技場》のコンペは、それが社会問題となったことによってはからずもその特質を発揮したといえるのではないか。かなり遅いタイミングにはなってしまったのだが、その議論は本来最も共有されなければいけなかった問題にまで遡行するものとなった。「なぜこの建築をつくるのか」という議論である。

《新国立競技場》でも、《豊洲市場》でも、なぜこのように本質的な議論が抜け落ちてしまったのか。実はコンペには大きな弱点もあるのである。コンペを実施するときには「はじめに設計条件を提示して」設計提案や技術提案を求めることになる。あたりまえのことなのだが、この「設計条件」を変更するような提案は認められないし、コンペ後に設計条件を大きく変更するようなことをすればコンペ自体の正当性が失われる。民間の建築計画では、設計作業を進めることによって検証しながら、設計条件の前提となる計画のプログラムそのものを大きく修正していくようなことがよくあるのだが、そのようなプロジェクト進行が非常にやりにくいのがコンペ方式の最大の弱点なのである。社会的なプロセス共有というコンペの意義は、コンペの前提条件となる計画プログラムが不透明なプロセスで決められてしまった途端に失われる。建築そのものの必要性がきちんと合意されていないなどというのは論外としても、計画をとりまく状況が非常に複雑であったり、その施設への要求内容が詳細に決められなかったりするなど、設計しながら前提条件を練り上げなければならないような計画では、必ずしもいまの形のコンペが適切な設計発注方法とはいえないのである。
 
さらにいえば、この「コンペ」という言葉(近年では「〝プロポーザル〞」という言葉も多用される)を用いることによって、不透明なプロセスで計画決定され、条件設定された公共事業を、あたかも透明性のあるプロセスであるかのように粉飾しようとしているのではないかと思えることすらある。《新国立競技場》のやり直しプロポーザルで、たった二案しか応募のなかった設計案が公開され、テレビなどで「A案B案のどちらがいいと思うか?」と盛んに議論されていた様子は、コンペの意義と危険性を同時に示しているように思われた。


そもそも「いい建築」とは何か

このように、コンペさえすれば公正で透明性のある計画プロセスになるなどということはないし、結果として理想的な建築ができるともかぎらない。コンペはあくまで方法論の一つであり、重要なのは、「いい建築」が生みだされるために、その状況に応じた最も適切な設計発注が行われることである。よって、「いいコンペ」とは何かを論じるためには、「いい建築」とは何かを論じなければならないだろう。

《新国立競技場》のコンペが社会問題になったとき、それが露わにしたものは、建築界と一般社会の絶望的なまでのコミュニケーション不全であった。たとえば問題となった設計案が当初予算を大きくオーバーしていることは盛んに議論されたが、その予算が何に対する対価であるかという共通認識はそこにあっただろうか。設計されていた建築がどのくらい「いい建築」であって、それに対して工事額は高いのか、安いのか。それをしっかりと話し合い、社会と建築界が考えを共有することは残念ながらできなかった。世界でトップクラスのデザイン力を持つと建築界で評価されていた建築家による設計の価値は、社会にまるで伝わっていないように見えた。それどころか、政治も、市民も、マスコミも、そして建築の専門家たちも、そこで一緒に議論し、考えるための共通の言葉すら持ってはいなかった。だからこそ「白紙撤回」という手段以外の対処ができなかったのではないか。
 
建築設計者たちは、熱心に建築の「質」を高める努力を続けてきた。業界内での議論は多くの新しい表現の可能性を生みだし、それぞれの可能性を熟成させてきた。しかし、ひとたびそれが社会と真剣に対峙する局面となれば、そこで最終的に求められるのは「質」ではなく「価値」なのである。「価値」は、売り手と買い手の合意があって初めて成立する。実用芸術である建築においては、そのような「価値」こそが表現の「質」の基盤であることを、建築界にいる専門家たちはいつしか失念してしまっていたのかもしれない。
 
では、このような現状で「いい建築」を語り合うことはできるのだろうか。建築界という「専門性」からの発信ではそのコミュニケーションが生まれないとするならば、一般社会の普通の感覚で語ればいいのだろうか。たとえば、新国立競技場コンペの選考を一般国民投票によって行えば「いい建築」が選ばれることになっただろうか。おそらく、そうはならなかっただろう。
 
これは建築にかぎった話ではなく、「専門性」に依存した近代社会の本質的な問題なのである。急激に進化しつづける高度な科学技術の恩恵を受けるために、一部の専門家以外はその詳細を理解できないような技術であっても、社会の基盤として受けいれることを良しとする感性。その「専門性」への盲目的な全権委任こそが近代社会の基本システムであり、それは多大な利便性とともに、多くの歪みもまた生みだしてきた。環境問題、格差問題、経済戦争などの多くの社会問題は、「専門性」の持つ視野の狭さによってもたらされたものであるともいえるだろう。「専門性」の各分野は大きく進歩してきたが、その一方でその無数にある文脈が錯綜し、論理的に一つの正解に像を結ぶことができないような複雑すぎる社会全体を俯瞰するような判断力――「総合性」は、社会からしだいに失われてしまっているように思える。
 
新国立競技場コンペが露わにした建築界と社会とのコミュニケーション不全は、すなわち建築表現から「総合性」が失われていることを意味している。この「総合性」を建築と社会が共有できなければ、建築表現の「質」も共有されることはないだろう。そして、建築コンペが適切に作用するように実施されるならば、それこそが、この「総合性」を社会にもたらす母胎ともなりうるものであると本書は考える。ただしそれはもしかしたら、柔軟に形を変えた多様なコンペの形、あるいは既存のコンペという概念とはまったく異なった形となるのかもしれない。
 
本書は、新国立競技場問題を入り口として古今の日本や海外のコンペ事例を見ながら、建築をつくるというプロセスにおける「コンペ」の意味、そして、日本の公共建築における設計発注のシステムを検証していく。そしてそこから、社会が共有しうる「みんなの建築コンペ」の可能性と具体的な方法論を導きだしていきたい。

『みんなの建築コンペ論』目 次

序 誰がためにコンペはあるのか

第1章 傷だらけのコンペ――新国立競技場コンペをめぐって

1 「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」
2 専門家の異議から、白紙撤回へ
3 やり直しコンペの開催
4 社会はコンペで何を得たのか  

第2章 コンペの歴史が語ること
1 便益への欲望――便利で利益のあるものをつくりたい
2 美麗への欲望――美しいものをつくりたい
3 継承への欲望――新人に機会を与えたい
4 似姿への欲望――「われわれ」にカタチを与えたい
5 調和への欲望――すでにある環境に合うものをつくりたい
6 公平への欲望――つくるものを公平に選びたい
7 破壊への欲望――いままでにないものをつくりたい
8 みんなの欲望をカタチにする装置としてのコンペ

第3章 日本のコンペの仕組みはどうなっているのか――設計発注方式の変遷
1 日本のコンペのいま
2 設計発注方式の種類
3 入札と随意契約
4 特命から〝プロポーザル〞へ
5 品確法とコンペの消滅
6 建築の専門家はどのように発言してきたのか
7 コンペを継承していくために

第4章 「いい建築」を合意するプロセスへ――ポスト新国立競技場の建築コンペ像
1 「善きもの」としてのコンペ
2 現代社会におけるコンペの弱点
3 コンペという概念を更新する
4 これからのコンペのための三つの提言
5 コンペの再構築に向かって
終 章 コンペがつくる「いい建築」






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