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私の「文章を書ける」はどこからきているのか

正直なところ、”調子が良ければ”「息を吸うように」文章が書ける。あくまでも「調子が良ければ」の話で、メンタルがぐちゃるとあっさり何も書けなくなるという0か100な性能をしている。脳内でずっと何かを「書いてる」ので、可能であればそれをスキャンしてほしい。ぽちぽちキーボードを叩いてアウトプットするのが面倒なので。

……という話をすると、大変に驚かれる。おやおや、自分が特異なのか、と目をクルクルと動かしてしまう。

じゃあなんでこんなに書くのに苦労しないのか、を考えてみたので発表しようと思う。

①10年以上続く日記

社会人になってから今年で11年、ほぼ毎日手書きの日記を書いている。社会人1年目の何もわからない状態で、教えてもらったこと、学んだことを忘れないように書き始めた。それが自然と、日常の出来事を記録する日記へと変容していった。病みすぎた社会人2~3年の間はポカっと空いているのだけど、それ以外は毎日埋めている。日記と言っても3行程度の、出来事のメモのようなものだ。「こんなことがあった」「楽しかった」「超良かった」「むかつく」「泣いた」、1分ぐらいで書き上げられる。

大学生の頃は、mixiで日記(という名のポエム)を書いていた。黒歴史。怖くて見返せない。

②ドラマやお笑いライブのログ

高校生の頃はずっとドラマの感想をアメブロに書きなぐっていた。感想と言っても「○○くんちょ~~~かっこよかった~~~!」という感じの、ヲタク特有の語彙力消失ブログだった記憶がある。

大学生の頃はお笑いライブの鑑賞レポを事細かに記載していた。なんのネタをやったとか、どんなトーク内容だったかとか、ネタバレギリギリのところまで書いていたと思う。

この「ログ」に関しては、自分の記憶力に自信がないので、徹底的にアウトプットしているという感じだった。
忘れたくないのかもしれない。日々の、自分を作り上げる、出来事や感情の動きを。

③2ちゃんねらー

高2でずぶずぶの2ちゃんねらーだった。とあるドラマにドはまりし、ドラマ板と実況板に常駐する女子高生だった。2ちゃんねるって治安が悪いイメージあると思うが、そのドラマがあまりにも神作だったがために、その掲示板は全然荒れていなかった。そのドラマの良さを語り合い、笑い、泣き、最終回を迎えた後もしばらくその掲示板に居座っていた。 

実況板の、みんなの感想が飛び交う感じが大好きだった。みんなで円になって、ぶわーっと語り合う感じ。ドラマは家で一人で見ているのだけど、全然一人で見ている感じじゃなかった。

多分、ここが原点なんだじゃないかと思う。「感じたことをすぐに文字にする」ことによって、自分の感情を無視しないようになった。「文字(言葉)を共有しあう喜び」を知って、躊躇いなく言語化するようになった。

ちなみに大学生はニコ厨(ニコニコ動画の中毒者)だった。感想をだらだら垂れ流すあのスタイルは最高だった。今でもYouTubeのコメント欄を読みながら動画を見るので、誰かの感想を見て共感したいんだと思う。

まとめ

私にとって、文字を紡いで発信して共有することは「楽しいこと」であり、「誰かとつながる手段」でもあった。そして、「思いついたことは文字にするのがあたりまえ」が自然になっていったんだと思う。頭の中のぼやっとした感情や思い出を、縁取ってかたちにしたい。そして、いつでも見返せる状態にしたい。
というのが、私の書く理由だと思う。

そういえば、小学校の頃作文大好きだったな。そういえば、小説を書いていた時期もあったな。漫画家になりたかったけど絵が上達しなかったから、小説に転向したんだ。まあ小説もうまく書けなくてやめたんだけどね。

エッセイも、よく書けるね!と言われることがあるけど、日記の上位互換みたいなものだから書けるのかもしれない。あと、自分の気持ちを吐き出さないとどうしようもないから書いている節もある。誰かを前にして弱音を吐露するのが苦手なので、文章にして壁打ちしている感覚。

ここからが実験である

ここまでお読みいただきありがとうございました。実はここからが本編です。

「自分の脳内にある書きたいことを書きまくっていた私が、クライアントワークをこなせるのか」

インタビュー原稿だったり、WEB原稿だったり、これらは「自分の言葉」ではないわけで。多分今までのnoteに書いていたように、するする~とはかけないと思う。もしもそういう仕事を受けるようになったら、私の「書く」に対する姿勢はどうかわるのか、実験である。

ちなみに、ライター講座の課題でインタビューもあったけど、書くこと自体は苦ではなかった気がするんだよなあ。構成がうまくいかなくて、頭ぐしゃぐしゃに抱えたけど。


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