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自分自身のケアと、書くことについて、そしてその検証について

先月、幼少期から大切にしていたぬいぐるみを失くした。出張先のホテルのベッドの上に置いたままチェックアウトをしてしまい、その後気づいてすぐに連絡したが、「ありません」と答えをもらった。「見つかったら連絡します」と言われ、もう1ヵ月が経とうとしている。忘れた私が悪いけど、ぬいぐるみが見つからないってどういうこと?普通に腹が立つんだけど、忘れた私も悪いので、責め立てたい言葉をこらえて今日まできた。
その子は30年近く共に過ごした親友のような存在だった。最近は語りかけるようなことは減ったけど、本当にたくさん私の話を聞いてもらった。私のことを誰よりも知っている子だった。家族のようなものだった。

「トイ・ストーリー4」のような出来事が起きたんだと思うようにした。私に降りかかる悪いことを持ってってくれたんだと思うようにした。ぬいぐるみがないと寝れない、というわけでもないし、いやまあ、いてくれたほうが安心するんだけど、うん、一応夜は寝れてるから大丈夫。

けど、やっぱり喪失感という負荷が精神を侵しているのは事実のようで、ここ1ヵ月は日々をただただ受け流していたように思う。限りなく無気力で、予定はこなすけど、こなすだけの日々だった。時に私の感情を揺り動かす出来事やコンテンツもあったけど、ただただ受け取るばかりだった。そういえば本も、1ページも読んでない。そして、日記を書くことも、止めてしまった。

社会人になってから始まった日記の習慣は、今年で11年目に突入した。忙しすぎた社会人2~3年目の時は全く書けなかったけど、それ以降欠かしたことがほぼない。けど、この1ヵ月、真っ白だった。

あの子がいない日々の記録が残るのが嫌だった。自分の感情と、向き合うのが怖かった。傷ついていることは自覚しているものの、それと向き合いたくないと無視を続けることにした。
文字にするというのは、自分の思考を縁取って表層化させる行為で、それは自分と向き合う行為でもある。だから私は自分自身のことを、書くことを止めた。

ただ、気づいてしまったのが、自分自身の中にある言葉を上手に掬い取れないと、その他の文章も書きづらくなってしまうということだった。映画を観た時の感想だったり、レビューだったり、あれ私あの時何考えてたんだっけとなる。ううん、言葉が紡げない。そんな状態で書いた文章は、本当に酷かった。

書くことが私のバイタルチェックになっていた。書けるときは精神が落ち着いていて、書けないと完全に地の底まで落ちている状態。(精神が荒れてても書けるのであれば、それは”落ちてはいない”証拠)だったら、無理やり書けば回復するのではないか?

私は検証することにした。
空白だった日記を全部埋めた。1ヵ月分。2時間ぐらいかかったけど、全部書いた。少しだけ、ほっとした。できるじゃん、と思った。
noteも書いた。思うままに書いた。誰にどう見られるとか関係なく、書きたいことを書いた。満足した。そして今、この検証の締めとして、この文章を書いている。私の大切な子をより多くの方に知ってもらうためにも、自分自身のけじめのためにも。

日記帳だったり、noteだったり、これからは落ち込む前に書こうと思う。というか、書き続けてれば精神が落ち着くのではないか?面白い、ちょっと検証してみようと思う。ガンガン書いてみようじゃないの。


余談だけど、私は喪失感を覚えると、それを埋めるかのように何かに急にハマる傾向にある。高校時代の失恋で若手俳優、大学時代の失恋でボカロ、人生で一番楽しかったサークルの引退後にお笑い、仕事で異動させられた時の東方神起とSuperjunior、推しが事故を起こした時のSEVENTEEN、そして、今回の喪失で出会ったのが、SixTONESである。失うばかりでない。

こういうバランスの中で、なんとか私は生きています。


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