見出し画像

インド旅行記⑤(ガート散策と憧れのサンカト・モーチャン寺院)

2023インド旅行記:目次はこちら


この日もまた朝食を探して大通りまで出て、今日は親子でやっている屋台のサモサチャートを食べることにする。
注文していると急に腕をガッ!と掴まれ、何事かと見ると、昨日の朝食時にしつこく話し掛けてきた日本語が達者な兄ちゃん、ムケシュだった。

親子でやってたみたい

日本語はものすごく堪能だが、結局は土産物屋で何か買わせたいらしく、私が昨日熱意のあるミシン兄ちゃんから買った服を着ていたので、なんで別のとこで服買ってんねん!ということらしい。知らんがな。適当に話していると他にも人が集まって来て、やれツアーに行かないか、やれリクシャーに乗らないかと集中砲火を浴びる。

サモサチャートの調理の様子を動画で撮っていたので、そのままスマホを前に掲げて客引き達に囲まれた形だが、動画を撮られていることを察した長身の兄ちゃんが、避けるように私の後ろに回った。何かバッグを漁ったりという気配はなかったが、何か後ろ暗いことをしようとしているのか、と思う。その後の動きを見ていると、その長身の兄ちゃんは日本語が上手いムケシュとコンビになって、観光客を見つけては絡んでいるらしかった。客引き達は私が何にも乗って来なそうだなと判断するとすぐにはけていったが、ムケシュだけが何だかんだと最後まで傍に居て喋っていた。

むちゃくちゃ囲まれた

朝食後は通り沿いの適当な露店のチャイ屋へ。このおじさんがやってるチャイ屋は、前の客からは10ルピーしか取ってなかったのに、自分には20ルピーだという。そもそも最初に「いくら?」と聞いた時点で無言でチャイを作り始めて、こういうのは大体既成事実を作ってからふっかけようというパターン。たかだか10ルピー、18円とかそれくらいなのだが、何だか張り合ってしまい、結局10ルピーにまけさせてしまう。この人にとっての10ルピーと自分にとっての10ルピーはその大切さが全く異なるだろうし、10ルピーくらいで張り合うことなかったな、と後で思った。

サモサチャート。むちゃくちゃ話しかけられながら食べたので、味をあまり覚えてない。

私は基本的に多く持つ方が少ない方に分け与えるのは当然だと思っているが、インドにいる間、ここはお金をあげるべきか、あげるならいくらくらいが自分にとっても無理のない範囲か、ということを考える機会がとても多かった。
道を歩けば子供達が「お金をくれ」とよく縋ってくるが、少しあげても「足りない、100ルピーくれ」ということになってしまう。私もそんなに潤沢な資金を持っているわけではないので、そんなペースでお金をあげていたら私の懐がもたなくなってしまう。それに道端に立っている人達全員にお金をあげることもできない。自然とインド滞在の間に、「誰にいくらお金をあげて、誰にあげないのか」という残酷な判断をできるようになってしまった。
しかしこれは、私が片足突っ込んでいる国際援助の場においてもきっと必要な視点で、誰のニーズが相対的に深刻で、誰がそうでないのか、という判断は、どの世界でも日常的に行われていることなんだと思う。

15分後に戻ってきたらここにでっかいウ〇チがありました

それと難しいのは、貰う側のスタンスにもあって、今回の滞在中にはこんなこともあった。
インドの貨幣は原則持ち出し禁止のため、最後に残った100ルピーほどを空港で使ってしまう必要があった時のこと。空港の比較的パリッとした店舗でお菓子を買って、お釣りの数十ルピーを取っといて、とレジのお兄ちゃんに伝えると、馬鹿にするな、という感じで断られたことがあった。その数十ルピーは結局、トイレを清掃してたおじさんが私の為に紙を取って「これで洗った手を拭け」と渡してくれたのでお礼に渡すと、ものすごく喜んでくれた。私としてはどちらもただただ感謝の気持ちだったのだが、相手が欲しいと思っているかどうかを見極めることも、とても大切なのだと思った。
私だったらどうだろうか?レジ打ちのバイトをしていて、「お釣りはとっときな」と言われたらどうだろうか。まぁ締めの時に金額が合わなくなるとそっちの処理がめんどくさいから返すだろうが、懐に入れていいのであれば、案外素直に「ありがとう」と貰ってしまうような気がする。いや、この感覚こそが、そもそも生活にゆとりがあることの証左に他ならないのだろうか。「私は貰う人間ではない」という矜持は、喜捨や施しが一般的な社会だからこそ育まれるものなのかもしれない。幸か不幸か、私はその感覚を知らなかった。

路地には子ヤギもいました

朝食の後はガンガー沿いに90以上も点在しているというガート(沐浴場)のうち、私のゲストハウスからもほど近い、最大のダシャーシュワメード・ガートをブラブラする。
特にすることもなくボーっとガンガーまで観光に来たインドの人々を見ていると、ふと後ろから、日本語ガイドブックの文章丸覚えみたいな、ですます調でガートの説明をしてくれる兄ちゃんがついてくる。「ここは沢山あるガートの中でも最大の、ダシャーシュワメード・ガートです。あの白いマークは〇〇と言って、〇〇を示したものです。このバラナシには、ガンジス川を見るために年間◯万人が訪れます。」云々。
「ガイド料は払えないよ」と言うと、「ガイド料なんていらない、ただ日本語の練習のために話したいだけだ」とのこと。あまり信用せずにまた最低限の受け答えをしていると、やはり「土産物屋に行かないか」という話になる。まぁ予想した通りで、「土産物はいらない」「ちょっとはいるでしょ?」「いやほんとに全然いらない」「それじゃここに何しに来たの」「いや特に何も」といったやり取りをしていると、その兄ちゃんはしばらく逡巡した後で「ではガイドをしてやろうか」と言い出した。

この手前の緑のシャツの兄ちゃん。日本語も結構上手かったし結局色々と教えてもらってしまった。

いいなぁ。この自分が言った「ガイド料はいらない」の前提を覆して、あくまで何とかお金を得る方法を探すハングリーなスタンス。ちょっと好意を覚えたのだが申し訳ない、本当に私には今必要のないことだったので、全て丁重に断ると「僕が行っても、別のインド人が来てアナタ高い所に連れて行かれちゃうよ」と言い残して去っていった。捨て台詞まですごく人間的な、自分としてはすごく好きな兄ちゃんだった。この後日本へ発つ最終日には、もう一度このガート周りを歩いて、こうやって客引きとはいえ顔見知りになった人達に日本からのお土産や幾ばくかのお礼を渡したのだが、このお兄ちゃんには結局会えなかった。今度またバラナシを訪れることがあれば、またこのお兄ちゃんに会いたいなと思う。

自分が行った時(9月)はやや水位が上がっていたらしい

半日くらいはガート周りをブラブラしていただろうか。いつの間にか日も高くなっていて、お腹も空いてきた。適当なお店に入って、チョウミンを食べる。これはインド風中華料理における焼きそばで、前情報で聞いていたような雑なカレー味ではなく、結構ちゃんとダシと醤油の味がきいていておいしかった。麺はビーフンみたいな細くて白い麺で、後日別の店でもう一度チョウミンを食べた時も同じ感じだった。インドのチョウミンってどこもこんなビーフンみたいな感じなんだろうか。

ミックスチョウミン:200ルピー(≒340円)也

食後は宿近くの有名な「ババラッシー」へ。ここはバックパッカー系のYouTubeなどでもよく紹介されていたラッシー店。パイナップルラッシーを頼むと、刻んだパイナップルが大量に入ったラッシーが素焼きのカップに入れて出てきて、大変においしかった。

パイナップルラッシー:150ルピー(≒280円)也

ラッシー屋を出て路地を少し行くと、ヒンズーの神々やサンスクリット文字のステッカーを売っている露店を見つける。帰国時のお土産も見越して20枚ほど買った。しかしこれは出入国手続き関係書類のバックアップ用ファイルに入れて持ち帰ろうとしたのだが、帰りの空港で手続きをしている間にファイルごと紛失してしまった。残念。

午後は訪れてみたかった「サンカト・モーチャン寺院」に向かう。これもランカのあたりらしく、リクシャーで三度目のランカへ。リクシャーを降りて10分ほど歩くと目当ての寺院に到着。
ここはハヌマーンという猿の神様を祀る寺院で、毎年4月頃にオールナイトの音楽イベントを開催することで有名。私もタブラの名演奏者達がここサンカト・モーチャン寺院で演奏している様子をYouTubeで何度も何度も見てきた。私にとっては聖地巡礼のようなもの。

サンカト・モーチャンの門前にて

それにハヌマーンは、ヒンズー教にあまり詳しくない私が少しく思い入れを持っている神様でもあり、それもあってここは是非訪れてみたかった場所。ハヌマーンって何か楠木正成みたいな感じですよね。決して主人公ではないのだけれど、忠誠心と暴力ならピカイチみたいな。

サンカト・モーチャン寺院は入り口でスマホを預ける仕組みになっており、やや不安に思いながらもむき出しのスマホをスマホ番?所謂昔の下足番のようなおじさんに渡すと、おじさんが後ろのロッカーに入れて、そこを閉めた鍵を渡してくれるシステム。その後、念入りなバッグチェックもあった。

やはり写真に取られると魂が抜かれる、という話もあるし、写真を取ること、コピーを取ることで固有のアウラのようなものが失われてしまう、と考えるのは世界のどこでも共通の考えなのかもしれない。私の日本のタブラの先生のお師匠さんも、演奏を録音することを固く禁じていたと聞く。演奏を聴きに来た人達と演奏をする人、その出会いの1回性を純粋に保つためには、やはりその場を再現できないようにしてしまうことが一番効果的なのかもしれない。
一方で我々の意識はもう既に、リピートを前提とした薄まった意識の時間を生きてしまってはいないだろうか?データのバックアップが基本の世界の中で、忘れてしまうことを厭わない程に、自分の中にその思い出がしっかりと刻まれていることを果たして本当に信じられるだろうか。私はちょっと自信がないが、これこそがアウラを失ってしまった生の在り方なのか?何が我々の一回きりの人生にとって最も有効なのか、私にはまだそれが分からない。そういえば、岡崎京子の短編小説集のタイトルは『僕たちは何だかすべて忘れてしまうね』でしたね。

こうしてバラナシに来たことも、少しずつ忘れてしまうんだと思う。

寺院の中に入ると参道のようなものが続いていて、参道沿いでは捧げものにするであろう花や餅のようなものを売っている。
少し奥に目をやると、何やら盛り上がっているようだ。いかにも御神体が納められていそうなお堂のエリア前に人が集まって、皆で熱心にお経を唱えている。やはりここでも私はインドの人々のヒンズー教に対する信心深さに驚くばかりだったが、しかし肝心の御神体はどこにあるのか?構造的には中心のあの辺りにハヌマーンの像なんかがあってもおかしくないし、皆もそこに向かってお経を唱えているのだが、そこはまっさらな空虚。只の布が掛かった壁。はて…と訝しげつつも皆にまじって何となく手拍子などしていると、お経と皆のグルーヴが極限まで高まった瞬間、お坊さんの一人がおもむろに空虚の奥の壁にかかっている布に手を掛け、シャッ!!と引いた。すると壁の奥に隠れていた凹みのスペースからオレンジ色のハヌマーン像?が現れ、観衆から地響きのような歓声が上がった!!

ハヌマーン!!(現地で買ったステッカーは無くしたので、日本のインド雑貨店で買い直しました)

なるほど、こうやって劇場的に顕現の瞬間をメイクアップして、信者の皆さんとの連帯感を高めているのかもしれない。つい部外者の私は冷静にそう思ったのだが、いざ現れたハヌマーン像も、どこかまだまだ本当の御姿からは隠されているようで、そこのところが部外者の私にはよく分からない。顔の位置するあたりにはまだオレンジのカバーのようなものがかかっていて、だからこそ神秘性が増すのだろうか?歓声を上げる人達にはこの極一部の顕現で有り難いものなのか?ご神体とはやはり信仰の思いを寄せる依り代であり、空虚であったり不明瞭な方がその役割には適しているのかもしれない。

ハヌマーン(小)!!これも買い直したステッカー

信仰の熱い列を離れると、寺院の境内の中でも途端にフリーでリラックスな感じが漂う。私はYouTubeで観てたあの場所に座ってみたい、と思って周囲を見渡すと、ある。
白い大理石造りで少し高台になっていて、おじさん達が適度な距離を保って座ったり寝転んだり、思い思いに過ごしている。私もおじさん達に混じって柱の根本に腰掛け、しばらくぼーっとして過ごす。やはり何度も何度も見ていたあの空間、舞台にこうして座れているという状況は、個人的に非常に感慨深い。その一角は空気感もとても良く、天井がなく開かれた空からは暖かい日光が降り注ぎ、時間の流れがとてもゆっくりに感じられる。座ったり横になったりしながら、何だかんだ夕方頃までその寺院の境内に留まってしまう。本当に良いお寺だった。

ここ‼この左側手前の柱のとこに座ってたんですよ‼

そう言えばそうやって境内に腰掛けていると、若いインドの人に何度か声を掛けられた。
1度目は中学生か高校生くらいの女の子グループで、おずおずと「韓国から来たんですか?」と話しかけられた。「ごめんなさい、日本です」と言うとそれきりだったが、精一杯の勇気を出して話し掛けた雰囲気が感じられて、インドでもK-POPなんかが人気なのかな?と思わされた。
その後は男子高校生みたいな3人組で、「どこから来たの?」と聞かれ「日本だよ」と答えると「ウェーーイ!!」、「日本から何時間かかるの?」と聞かれ「飛行機で8時間半くらいかな」でまた「ウェーーイ!!!!」みたいなノリで、私の回答一つ一つにひどく盛り上がっていた。その後「インスタかフェイスブックやってないの?」「フェイスブックならやってるよ」「友達になってよ!」「いいけどスマホはロッカーだから外に出てからね。」「OK!!外で待ってる!」といった次第で、彼らが出ていった後に売店を少しだけ見てから表に出てみると、彼らの姿はもうなかった。
一体なんだったのか。あのまま外で合流してたら、また土産物屋とかに連れて行かれてたんだろうか。それとも、ハヌマーンの眷属のお猿さんにイタズラで騙されたのだろうか。

ガンガー沿いの土産物屋さんで買った小さいハヌマーン像。170ルピー(≒300円)だったと思う。

夜はまた知人にお誘い頂き、北東のビハール州の名物?だというリッティー・チョーカーなるものを食べに行く。
目当てのレストランの方面にタブラ工房もあるということで寄らせて頂くが、横に長い両面太鼓のボディを踏み台にして高いところのものを取ったり、原付バイクの股の間にいくつかむき出しのタブラを重ねて運搬していたりと、扱いのフランクさに衝撃を受ける。結局そこでも、これは、というタブラには会えなかった。
リッティー・チョーカー、あるいはバッティー・チョーカーとは、全粒粉のコチコチのパンを焼いたり揚げたりしたものをカレーと食べる料理のようで、結構しっかりとお腹にたまる。おいしい。案内してくれた人は「ネットに載ってる店の様子と全然違う!」と憤慨していたが、見てみると確かに銀座のバーと赤羽の立ち呑み屋くらい違った。

ダル(豆)カレーと酸っぱいカレーで食べました

帰りは同行者に手慣れた様子でリクシャーと交渉して頂き、私が帰るゴドーリヤまで20ルピーで話をつけてもらう。知人達はまた別方面へ帰るのだが、運転手のお兄ちゃんは全員が乗るものと思っていたようだ。私一人を乗せて不満気に走るリクシャー。途中で相乗りする人を探して声を掛けていたが、とうとう私一人で目的地まで来てしまった。これはモメるかなと思いつつ、前述の勘違いもあったので10〜20ルピーは多く払うべきかなと思いながらも少額紙幣の持ち合わせがなく、50ルピーを出すと、10ルピーだけ返して「何か文句あるんかい」とばかりにギロッと睨まれる。こう来るとこちらも売り言葉に買い言葉というか、「20ルピーって言ってたよね?」と言い返してしまう。しばらく睨み合った挙げ句、相手が折れてくれて「この20ルピーは俺からのプレゼントだと思え」と言われ、追加で20ルピー返してくれた。そうなるとこちらも先述の申し訳なさもあるので、最初にもらった10ルピーを返すと、彼はパッと満面の笑みを浮かべて「サンキュー!!」と去っていった。

夜はメインストリートにオートリクシャーでは入ってこれないので、手前で降ろしてもらいました

この屈託のなさは、本当に素敵だなと思った。最初から10ルピーのお釣りで納得していれば良かったのだが、そうなると今度はギロッと睨まれただけになってしまう。このあたりの塩梅はとても難しいし、後から思い返せばどんな可能性だってあり得たことになってしまうだろう。とりあえずのところは、お互いに笑って別れられたからいいのかな、と納得するより他なかった。

ネットで見るとゴージャスな内装だったリッティー・チョーカー店

リクシャーから降りて繁華街をホテルに向けて歩いていると、ホテルまであと5分というところで強い雨に降られてしまい、近くのビルの路地にあった庇の下で雨宿りせざるを得なくなってしまう。バラナシにいる間に何度か雨に降られたが、大抵はザッと降ってすぐに晴れてしまい、周りにも雨具を持っている人はあまりおらず、多くの人達が思い思いの場所で雨宿りをして凌いでいた。
しかし今回の雨は雨脚も強く、なかなか止まない。路地で雨宿りしたまま、かれこれ20分くらいは経っただろうか。周りで一緒に雨宿りしてたインドの人達も、痺れを切らしてどんどん駆け出していってしまった。私は特に用事もないのでもうしばらく待つかなぁ、とボーっとしていると(この日はやたらボーっとしているな)、奥から何やらコツンコツンと音がする。
見ると何やらサドゥー(修行者)のような半ば浮浪者のようなおじさんが座っていて、何をしているのかコツコツ音を鳴らしている。暗く誰もいない路地でコツコツおじさんと2人きり。やや不穏なものを感じ、そろそろ出ようかな、と足を踏み出そうとしたところで「こっちに来いよ」と声を掛けられる。「こっちなら座れるし雨もかからないよ」とのこと。恐る恐る横に腰掛けると、何やかやと話しかけてはくるが、特に悪い人ではなさそうだった。私が咳き込んだ時なんかは背中をさすってくれたし。しばらく話していると雨も弱まってきたので、礼を言って別れた。

夜の繁華街に立つサドゥー(修行者)の皆さん

ビルの合間の路地を出て、雨で泥もゴミも牛糞もすべてが一緒くたになった水たまりにおそるおそる足を浸しながら、今日出会った人懐っこい人達のことを思い出して何となくハッピーな心持ちで、ゲストハウスに戻った。

(インド旅行記⑥に続く)


ガートのボート。これで朝日を見に行ったりするんだろうか。自分は見に行きませんでした。
うっかり後先考えずに飛び込んじゃった人用に、替えパンツも売ってた。手前に掛かってるのはガンガーの聖水お持ち帰り容器。
繁華街を歩いてて急に空いたな、と思ったら牛が座り込んでた
雨が降ったら雨宿り…あっ!手前のおっさん立ちションしてるやん‼

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?