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休憩

 大庭要助は、フライパンに水を張りコンロの火をつけた。パスタを茹でようというのである。要助は、朝から水以外口にしておらず、腹が減っているはずだった。しかし、火をつけてから気がついた。腹が減っていない。それでもパスタは食べよう、そう思った。
 火に掛けたフライパンの水面を眺めながら、要助は、大杉城公園について考え始めていた。大杉城公園は、今は跡形もない大杉城址に造られた公園である。なぜ、城は無くなってしまったのだろうか。戦国時代あたりに焼失したのか。老朽化して、しかし修繕する予算が出ずに壊されたのか。城よりも公園のほうが街にとっては必要であったのか。少なくとも「城が無い」ということは、「平和である」ということかもしれない。守ることも攻めることもないからである。
 要助は笑顔を作ってみた。笑顔というのは攻守どちらにもなりうるだろう。要助は笑顔を備蓄し自身を養い、笑顔を動員して敵を自分に近づけないようにしてきた。したがって無為に笑顔を作ったりはしなかった。しかし、人はあるとき不意に笑顔を向けられることがある。

 職場の上司の柳さんは、身長が180センチを超えるくらいで、筋肉質で、おそらく50代後半であるのにいかにも健康的である。そして、いつも笑っている。笑うのが柳さんの仕事だからだと、要助は思っていた。柳さんは、笑顔で職場の皆に話しかけている。要助に対してもそれは変わらなかった。本当に笑っているように見えて、要助は口角が引き攣った。どうして柳さんは、笑顔の備蓄が不足しないのか不思議だった。
 会社内の自販機の前に、ちょっとした休憩スペースがある。二人がけの革張りのソファがひとつと、それと同じくらいの長さの長方形のテーブルがひとつ。ソファは座面が劣化して、乾燥した田んぼのようになっている。要助は、缶コーヒーを買ってそこに座り、缶を開けもせずに机の角の毛羽立ちを眺めていた。別段何かを考えているわけではなかった。
 ガコン、と自販機から飲み物が出てくる音がして、そちらを見ると柳さんが缶コーヒーを自販機から取り出してこちらを見た。笑っていなかった。
 柳さんは、ゆっくりと大きな歩幅でこちらに歩み寄ってきた。柳さんのような体格の男が近づいてくれば怖いものだと思うが、不思議と威圧感はなかった。柳さんはその勢いのまま、要助の隣に腰掛けた。柳さんの膝が要助の膝に当たった。要助は体を縮ませ、怪訝な顔で隣の柳さんを見た。
「笑ってないですね」
要助は、そう言ってから自分の言葉に動揺した。言ってしまってから後悔した。
「いつも、笑ってなきゃいけないのか?」
柳さんはそう言い、足を組んだ。
 要助は、再び机の毛羽立ちを、今度は急速に頭脳を回転させながら、見た。柳さんは足を組みかえて、そのまま黙った。
「柳さんは」
要助は半ば自暴自棄になって口を開いた。
「柳さんは、なんでいつも笑っているんですか?」すると柳さんがこちらを向いて、答えた。
「ただ単純に、俺に笑いかけてくれる人がいるからだよ」
柳さんは、そう言って笑い、恥ずかしそうに俯いて、缶コーヒーを開けた。

 要助は茹で上がったパスタに、市販のミートソースと冷蔵庫にあった中華だしのペーストを混ぜ合わせた。麺は茹で過ぎて、伸びていた。「食べられるだけ食べて、あとは次に食べよう」と要助は思った。
 胃袋が少し、活動を始めた。


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