見出し画像

『物語 メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』大垣貴志郎(評論 2008)

メキシコの歴史を解説した本。
古代文明の時代から、コロンブスのアメリカ大陸到達、独立と革命の近代を経て、発展と不十分な改革の現代まで。
副題に「太陽の国の英傑たち」とあるように、各時代を象徴する政治家や活動家を取り上げていて、読み物としておもしろい。

国民性

1911年に革命勢力によって打倒されるまで、30年以上に渡って事実上の独裁政治を行ったポルフィリオ・ディアス大統領。彼の言葉として、フランシスコ・ブルネスの『ディアス将軍への追想』から次のように引用されている。

「メキシコ人は郷土料理をたらふく食べて惰眠をむさぼり、権威をふるうパドリーノ(英語ではゴッドファザー)の使用人になり、仕事場に遅れて行き、病気がちでわずかばかりの給料と休暇をもらい、闘牛を欠かさず見物に行き、遊興にふけり、パーティーにはいつも飾り立てた身なりで出席し、若くして結婚し子供をたくさん作り、給料を使い果たし、祭祀や守護聖人のお祭りの前にはあちらこちらで借金をつくりそれで満足している。子だくさんの親は政府に絶対服従である。その理由は貧乏が怖いからである。社会で指導的な立場に立つメキシコ人からしてそうである。専制主義、抑圧、圧政が恐ろしいのではない。貧困が怖いからである。パン、住まい、服がないこと、ひもじい思いに耐えられないのである。」

メキシコ人の知人たちが貯金をしないことが不思議だった。
私の同僚は、「1ヶ月に一度の給与支給では生活費が苦しい」と言った。2週間ごとにしてほしい、と言うのだ。私は、「もらう額は同じなのに、どうして?」と思った。余るほどもらえていないということはあるだろうが、その金額は、彼が採用面接で「これくらいの給与を希望する」と伝えた額だ。しかも、彼の経験を考慮した職位で、社内の最低金額ではない。なぜ足りなくなるんだろう。

メキシコの人々は、目の前の貧乏に耐えられない。
耐え難いものを遠ざけるために、お金があれば使ってしまう。そういうことだろうか。
「メキシコ人は」と一括りに言うのは嫌だが、ディアスという、メキシコの内側からの視点として、覚えておこうと思った。

カトリック教会

スペインによる植民地支配にあたって、カトリック教会の布教活動が担った役割は大きい。今も、多くの街の旧市街で、一番大きく立派な建物は教会だ。

画像1

私は信徒ではないが、そういった教会を見つけると素通りできない。中に入って、壁に沿って並ぶ、聖書の場面を再現した像を順番に眺める。材質などはよくわからないけれど、肌に艶があったり、目に光があったりして、時にグロテスクなほど生き生きしている。
なんだろう、スペイン・カトリック系の教会の装飾からは、温度の高い力を感じる。宗教・宗派に、関わらず、教会や寺院に行くと、厳かな気持ちになる。ただ、あの立像たちは他と違って、体温を持っているように思う。そして、「温か」というより、「熱い」。

本書においては、カトリック教会が土地や金品の富を蓄え、政治的影響力も持っていた(ある程度は、今も持っているのかも)ことや、保守勢力の後ろ盾として独立戦争やメキシコ革命にも関係していたことが説明されているが、私の中では、あの「熱さ」と結びついて容易にイメージできた。

さて、以上のほかに、印象に残った記述は2点。

民主主義の欠如

メキシコに民主主義が定着しなかった原因として、著者は3点を挙げている。
1. 教会と保守主義者の改革精神への抵抗
2. 自由主義に立脚した政策を支える中間層の欠如
3. フアレスとディアスの2人の偉大な大統領が、見せかけの民主主義のもと、実質的には独裁政治を行ったこと

循環史観

メキシコにはアステカ時代の循環史観が存在する。メキシコの歴史というのは、複雑な概念が入り組みあって進展している。単に自由主義思想の方向に向かおうとするばかりではない。あらゆる社会階層の要求に応じて、過去からの離脱と、未来にかけた解放感が相乗効果を出して、根強い緊張感として循環している。

線的な発展ではなく、環状にめぐり続けるものとしての歴史。これは、メキシコの現代政治に関しても言えるのかもしれない。
「過去からの離脱と、未来にかけた解放感」がポイントだというのが、印象に残る。ロペスオブラドール現大統領の勝利による政権交代も、繰り返される活動の1つだろうか。

タイトル画像は、ホセ・グアダルーペ・ポサダの版画。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?