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恥を知る、つまり自分の弱点に向き合うこと 『飛ぶ教室』エーリヒ・ケストナー(児童書 原著1933)

10歳の娘は、本を読むのが大好き。
ただ、私が子ども時代に読んだお気に入りの本を勧めても、「ふぅん」で終わることも多い。ピンと来る、来ないは人それぞれか……、と思いつつ、懲りずにまた勧める。
でもこの本は、彼女も手にとって、いつの間にか読み終えていた。まだ感想は聞いていないけれど、私は心の中でうれしかった。我が子と読書体験を共有できる日が来るなんて、うれしいなぁ。

『飛ぶ教室』は、いろいろなところで引用される。随所にきらめく、著者ケストナーの人生に対する洞察が、読む人の心に残るのだと思う。
主人公は、ドイツの寄宿学校に通う男の子たち。クリスマス前のどことなく浮き足立った雰囲気の中、いくつかの事件とそれを取り巻く人々の人間模様を描く。ケストナー自身の子ども時代をベースに書かれている。

私が一番心を動かされたのは、ウリーという少年が高いはしごの上から飛び降りる場面。彼は、臆病者呼ばわりされたことが悔しくて、勇気を示そうとそんなことをした。

実は私も、ウリーと同じような年頃に、動機は違えど似たようなことをした。
家の2階の屋根から、下の道路に飛び降りたのだ。腰と右かかとをひどく捻挫して、しばらく布団に寝たきりだった。
私は結局、母に私を見てほしかったのだと思う。私はその頃、部活動に関して悩んでいた。学校も嫌いだった。そんな自分に対して母は無関心だ、と感じていた。2才年上の姉への嫉妬もあった。
だからと言って、あんなパフォーマンスに走るのは子どもっぽい考えだ。私自身、飛んだ瞬間に後悔した。なにより、とても痛かった。でも、「私を見て」という欲求が、幼稚さに立ち返ってしまうほど強かったのだろう。

ウリーに話を戻すと、その事件の後、ゼバスチアンという生徒が宿舎の仲間にこう言う。

「ちがいは、ウリーがほかの臆病ものより以上に恥を知るという点だ。(略)勇気の欠けている点が彼自身を何よりもなやましたんだ!(略)きみたちは、ぼくに勇気があるかどうか、いつか考えてみたことがあるかい?ぼくが小心だということに気づいたことがあるかい?きみたちはぜんぜん気づいたことがない!だからないしょでうちあけるが、ぼくはなみはずれて小心なんだ。だが、ぼくはりこう者だから、それを気づかせないのだ。」

りこうなゼバスチアンが、「恥を知る」、つまり自分の弱点に向き合うことについて考える場面である。また、彼の孤独に周囲が気づく場面でもある。

他に、印象に残ったところは、「第二のまえがき」の作者の言葉。以下のとおり。

つまり、人形をこわしたからといって泣くか、少し大きくなってから友達をなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題でなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。

「なんで悲しむか」ではなく「どんなに悲しむか」。つまり、当人がどれほどの衝撃を受けたかが問題。客観的に見てどれくらいの損失か、ということは尺度にならないのだ。
悲しみは個人的なものだから、他人が「その程度」と笑うことはできない。

それからもう1つ。
長い別離を経て再会した“禁煙先生”と“正義先生”が、旧交を温める舞台にも興味をひかれた。
その名も、料理店「されこうべ」。メキシコに住むようになってから、なんとなく骸骨に親近感を覚える。
しかも、店の入り口には「音楽、ダンスあり、ぶどう酒を飲む義務なし」と書いてあるという。私自身はビールよりワインが好きだけど、その間口の広い感じがとても気持ちがいい。この本の中で、“禁煙先生”の客車ハウスの次に行ってみたい場所。

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