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出自は選べないことについて 『人生の親戚』/『燕は戻って来ない』

先日、大江健三郎の『人生の親戚』を読んで、気になったことが一つある。それは、主人公のまり恵が裕福な家の出であること。
息子2人を自殺で失うという、言葉に余る悲劇を経験したまり恵は、さまよえる魂に導かれるようにアメリカやメキシコに渡り、その時々でさまざまな活動に熱意を傾ける。それはフィリピンの劇団の招聘であったり、宗教活動であったり、農村の生活改善であったりする。それを可能にしたのは、彼女の意志と行動力はもちろんだが、財産があったことも大きい。親族が経営する会社の株式の配当で生活が成り立ち、都内の戸建の他に伊豆に別荘も持っているような彼女だからこそ、目の前の暮らしにあくせくすることなく、ひたすら悲しみに向き合うことができたとも言えるのではないか。
お金持ちの生活には本質がない、と言いたいのではない。『人生の親戚』はもっと根源的なテーマを提示している。私が気になるのは、主人公の資本について作者はどう考えていただろうか、ということだ。小説中には、彼女が生活に困らない立場であることが示されてはいるが、客観的な事実以上の言及はない。

『人生の親戚』の後に読んだのが、桐野夏生『燕は戻って来ない』。こちらの主人公リキは、なにも持っていない。北海道から上京したものの、学歴も技能もなく、生活に困窮している。特に美しくもなく、すでに29歳で若くもない(ちなみに、まり恵は美人である)。そんなリキが打開策として賭けに出たのが、代理母になることだった。
金といえば、代理母の依頼人である草桶が、病院経営者の知人が定職を持たない親族を養っていることについて、「万事、金があるからだよ」と言う場面がある。そして、その彼自身、不妊治療と代理母出産には財産家である親の援助を受けている。
もちろん、大江健三郎の小説と共通点があるとは言えず、私が同じ時期に読んだというだけだが。

『燕は…』の作品そのものについては、とても興味深いテーマを扱っており、考えさせられるところは多々あった。
ただ、代理母の協力を得て出産された子供の視点が不十分に思われた。赤ん坊なので意思を表明することはないけれど、もう少し子どもの立場で考えてもよいのでは。つまり、その子どもをめぐる登場人物たちが、考える必要がある。代理母に依頼してでも子供を望む夫婦の友人が、「子供は子供のものだよ」と言うセリフはある。けれど、それは前提だと思う。
子供の立場ということでいうと、代理母のリキが双子を産み、そのうち1人を自分の子として育てるべく連れ去るという展開は悲しいと思う。連れて行かれなかったほうの子供としては、大きくなってからその事実を知れば、「自分は実母に置き去りにされた」と感じるのではないだろうか。たとえ、育ての親が最高の環境で育んでくれたとしても。その「選別」の場面が、決意と希望に満ちた感じで描かれていることに、私は違和感を覚えた。
この小説の登場人物たちは、自分の都合で行動している。とは言え、人間はそもそも自己中心的であり、子供を産むという行為はその典型だと思う。子どもは産んでほしいとは一言も言っていないのに、この世に出現させられる。子を切望する夫婦がおり、貧窮を脱したい女がいて、双子の赤ん坊が生まれる。女がその双子のうち1人だけを連れていくという行為は、彼女が自分の意思で運命に抵抗し始めたということかも知れないが、子どもたちからすればありがたくもないと思う。子どもは出自を選べない。ただ、親もどんな子どもが産まれてくるかは選べない。その一定のバランスを崩して選別を行うのは、少なくとも希望ではないだろう。

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