声を失って気がついたこと

私は、昨日から扁桃腺が腫れていて、声が出せないくらい悪化してしまいました。声という当たり前に持っているもの。一時的にではありますが、それを失ってみて思ったことを話そうかなと思います。

今日はまず病院に行きました。60歳くらいのおじいちゃんって感じの先生でした。Iphoneのメモを使って症状を伝えました。相槌を打つときは、思いっきり頭を縦に振りました。しかし、最低限の会話しかできません。もはや会話と呼んでいいのかすらわかりません。病院に来ているのだから、症状を伝えて、処方箋をもらうことができたなら充分です。しかし私の心はなにか物足りなさを感じていました。

帰りにコンビニに寄りました。袋はいるか聞かれたとき、私は困った。 「はい。お願いします。」と、普段なら簡単に言えるのに言えない。病院のときのように文字でつて得ようかと思ったが、事情を知らない相手からしたら、質問されているのに答えずに携帯を触りだす無礼な人になってしまう。そして僕は、黙ったままうなずいた。一応私の要望は伝わった。しかし、私の気持ちまでは伝わった気がしなかった。店員さんに一目惚れしたとかそういう話ではない笑                          私はわりと他人からの印象を気にするタイプだ。いや、かなり気にするタイプだ。そんな自分が嫌になることもある。しかし、考えてみれば他人からよく見られるに越したことはない。あ、話が脱線しそうだ。このことはまた今度書こうかな。                           そう、そんな私は、嫌な客だなと思われたくないな。ということしか考えていなかった。

『昨日までの私が店員なら、「何だこいつ。」と思ってしまうだろう。』        

これがコミュニケーションなのかと考えた。

人と人が情報を共有するだけならば、言葉は要らない。しかし、言葉とは、声や、表情から成るもの。声のトーン、強弱、表情。そういったものが合わさって、一つの言葉になり、それを誰かと交わすことによって会話と成る。それがコミュニケーションだ。

情報交換という、必要最低限なものにプラスでくっついてくるもの。今日の私には、コミュニケーションとは、少し贅沢なもののような気がした。

私達は普段から、最低限+αを普通としてしまっていることが多いのではないか。例えば、ものを返すとき、ありがとうなどと言いながら返すのが普通だ。しかし、期限を守って約束通り返したのなら、それで充分ではないのか?ここで、ありがとうといった言葉を添えることによって、互いの心は、清々しく次に進める。

ああ、ここまでダラダラ話を続かせて、なにが言いたいかというと、心には贅沢が必要なんだなってことだ。心という素晴らしいものを持って生まれた人類だからこそ、その心には、贅沢という名の栄養を与えてあげなければならないのかもしれない。

あ、でも僕はもっと完璧な人間を目指したい。だから、

『明日からの自分が店員なら、嫌な客が来たとしても、「なにか事情があるんだろうな。」それを察してあげられるような人間になれたらいいな。』