1


「ハロー元気?俺はフーリッシュ」

とある先輩が残したこの一節を、俺は一時期軽い挨拶でよく使っていた。この言葉は、みんなとりあえずポカンとしたり、知っている人は笑ってくれたりする。
それで良かった。本当に大丈夫なやつは具体的に楽しいことも嫌なことも話す。そうじゃない奴らはみんな“元気だよ”とか“大丈夫だよ”って言うから、そんなことなら笑ってくれた方がいい。
もう一つ、この詩にまつわるエピソードをしておくと、俺は最初
“ハロー元気?俺らフーリッシュ”
と思い込んでいた。
正直、そっちの方が一緒に笑ってくれている感じで好きだったが。
そんな気の利いた皮肉と優しいユーモアを教えてくれた先輩、まあ、本当は俺の直の先輩じゃないのだが、彼についてはもう一つ置いて行った有名な一節に倣って、3年後の今頃、向日葵が咲くころ娑婆にて待とうと思う。
俺が知っている限り、強かな彼のことだから、本人も嫌がるだろうしあまり心配する必要はないだろう。

自然はたくさんある俺の住処だが、向日葵だけは探さないと見つからない。
これをみんなが読んでいる頃、ちょうど咲き始める頃だから、明日のバイト帰りにでも探しに行ってみよう。

今日は朝にバイトが終わると特に急ぎの予定もなかったから、カフェインもブラウンノイズも無しで1日を過ごしてみることにした。最近はちょっと鈍すぎる気もするが、ゆっくりとした脳の回転を焦ることなく受け入れる時間を作ってみようと最近意識的に取り入れている。

俺は少し前から瞑想に興味を持っている。ケンドリック・ラマーが生活に取り入れていると聞いてから、俺も是非とも取り入れたいと思っているが、忙しい日々の中で試せずじまいのある日、仕事中にSNSやらニコチンやら鼻から吸ったカフェインやらで速まりすぎて機能なんてしていない頭に彼のインタビューが飛び込んで来た。
「じっと座って目を閉じて、自分の空間や起こっている事を理解する必要があるんだ。そうでないと、あっという間すぎるんだ。その瞬間を逃して、入り込みすぎてしまう」
正直、ケンドリックの言葉は横にいる禿頭に白いモジャモジャ髭のリック・ルービンより遥かに印象的だった。勝手に瞑想はアイデアを探す積み重ねだと思っていたが、少なくとも彼にとっては削ぎ落とす作業らしい。

同時に、俺にはまだ早いなと気付かされた。だって、生活費に苦しむ俺ですら金と時間を惜しんでやっておきたいことが二つほどあって、その二つは俺にとってそう言う時間だから、俯瞰的に自分の人生を見るのはなんとか時間を作ってもっとそいつらに没頭する必要がある。ケンドリックに倣うのはもう少し後にしよう。
その代わり、一旦頭の回転を落としてフラットにする時間を作ることにした。

ハロー元気?俺はフーリッシュ。
大丈夫かって言われると、正直大丈夫だし、全然大丈夫じゃない。
最近はやりたい事とやらなくてはいけない事のバランスを失って没頭できていなかった。金とアイデンティティは結局のところ両方必要で、今はそれなりに結果も必要になってきたからだ。

そう言えば、五年前の今頃もこんな感じだったような気がするな、純粋に書きたいことがいっぱいあるのに、同時に欲しいものもいっぱいありすぎて、結果としてあの子は俺の元を離れていった。
完全にドツボにハマってたんだな、と今になって思う。そうなると、何が起こるか?
自分を守るのに必死で攻撃的になるし、他人の言葉なんて素直に受け取れなくなるのだ。最近また頻繁にそう言うことが起こるようになってきた。そう言う時はカフェインだなんだの力を借りず、こうやって白い紙の上に戻って来て、お気に入りの曲を聴いて、とりあえず書き出して、出来上がったものをもう一度読み直し、本当にこれは俺が今考えていることかな?と考える。
これが大事なんだよ、どれだけ雑で幼稚でも、嘘がなければとりあえず人前には出せるからな。

これを書き終わったら、明日はバイト終わりに向日葵を探して、柔術に行って最近頑張って練習行ってるあいつにボコられてブランクと課題を楽しんだ後仕事して、土曜日はあいつの店で機嫌良く皿洗いでもして、また朝からバイト行って、こうやって白紙の上に戻ってくる時間を作らないとな。
そうしないと、あいつとの約束も守れないし、あいつと飲みに行く時間や金も出来ない。
違う街のあいつらとの約束や叩いた上等もどんどん腐っていく。
誰かといる時間は大事だ、それと同じくらい、一人の時間も。両方無ければ、俺は俺じゃない。

そう言えば、今日は俺の誕生日で、明日であいつとさよならしたドツボにハマりきっていた日から五年になる。
もしかして、あいつなりの復讐だったのかな?

2


あいつの店で締め作業をしている時、誰かと一緒に飯を喰っている時、人といる時は色々あるが、疲れや慢性的な寝不足、あと沈黙に耐えられない俺の性格が噛み合って、いつもとっ散らかった話をしている気がする。


俺?相変わらず今もバッド・ブレインズは聴いてる。もう最近はほとんどヒップホップの人になってるけど、まあ三つ子の魂百までってやつよ。十代の趣味は永遠って言うよな。
バッド・ブレインズとデフトーンズは聴いてて良かったって思ってるよ、ハードコア聴いてなかったら、今コサも聴いてないと思うしな。
昨日また聴き直してみて、歌詞も読み直してみたけど、気付かないうちに変化があったな。何というべきか、共感とかブチ上がるとかじゃなくて、スッと腑に落ちたんよ。もちろん、やっぱブチ上がるけどな、聴いてりゃ。
あ、コンロの五徳洗ってって良い?

やー、やっぱでも、カッコいいと思うと影響受けるよな。
でも、今年はコサが結構途中でしんどくなって来たんよな。もちろん一番好きなんやけど。何やろな、どっかでデカく見過ぎてたんちゃう?理想化してたというか。ほら、昔ラ・ハイナかどっか行った時に言うたやん?
「あー、あの子がおったときにコサ聴いてたら、もうちょっとまともな振る舞いできたのになぁ」
みたいな。
もちろん見習うところは死ぬほどあるよ。でも結局、俺はコサじゃないんよな。

そりゃそうやろ、ラップで家族養って、友達にも信頼されて。俺なんてまだまだやん、明日のメシ食う金にも困ることもあるのにさ。やっぱ、理想と現実のギャップに喰らってたと言うか、結局俺は俺で、誰かに習いながら俺を積み重ねるしかないのにやっと気づいたんかな。

その間何聴いてたか?
そうなあ、なんか色々ムカつき過ぎて、ケンドリック聴いて、モブ・ディープ聴いて、バッド・ブレインズ聴いて、カモメカモメとかファイト・イット・アウトとか、あとフランスのトラックメイカーやってる友達が教えてくれた向こうのハードコアとか、イタリアの気になる子が教えてくれたバンドとか…仕事中はキング・ヌーとか米津とか聴かなあかんし。
でもなんか、自分の趣味とか仕事とか、友達のおすすめとか、やっぱ勉強にはなったな。
俺、結構ミーハーやからさ、友達のオススメとか案外素直に聴くのは自分でも意外やったな。
でもあれやで、お前が教えてくれたキルスイッチ・エンゲイジとか、ウィズ・カリファとか聴く聴く、えかったよぉ、あれ。
あーでも、一番喰らったのあれかな、リッキーと柊人のやつ。
この店でも流してたよな、いつか。ああそうそう、これこれ!やっぱパワーある人の曲は喰らうよね。この曲がリアルなのってさ、そう言う理想が入り込む隙間がないからやと思うねんな。

そうなんよなー、理想だけじゃ喰っていけへんしなー。
でも、今更これ辞めたら、俺はもっと道徳の無いクズになってまう気がするんよな、何でもして稼げるほど器用でもないし。
最低限、自分の服は自分で買って、デート代も払って、友達と気兼ねなく飲みに行って、ちゃんと家族に家賃払ったり飯行ったりって言うのを自分の力でやるのがこんなに厳しいとは思わんかったよ。あぁ、でも、前の生活に戻りたいとは全く思わへんな。もう一回、大人しくゲソつける必要はあると思っとるけど。

こうやって半ニートみたいな宙ぶらりんの生活してて思うけどさ、一人で食っていくのも、どこかに所属して生きていくのも、両方大変やと思うわ。
金も金じゃ無いことも全部生活やし、普通に生きてりゃ雑音も多いしな。
みんなさあ、酒飲んだり、よそに恋人作ったり、パケ袋どっかから引いて来たりして、脳味噌麻痺らせてバカになるのを癒しって言ってみたりフロイトじゃ何じゃ引っ張ってきて
「これは綺麗なもの、必要なものです」
って言い聞かせて無理やり飲み込んで、まぁそう言うのも、生きる逞しさよな。
素直に言えばいいのになとは思うけどな、好きなら好きで良いし、無しでやってられへんならやってられへんで。

俺が酒を止めてる理由?
こういう話をした手前、カッコつけるのは筋違いやから正直な所を言うと、理由みたいなんは幾つかあるけど、まあシラフに戻ったとき、何も残ってない事に耐えられへんのよ。最近、酒鬱も酷いしな。
最近ダッセー酔い方してるやつを結構見てきてクソイラついたのも事実やけどさ、結局何が嫌かって、
「こうはなりたくねえ」
って思ったのが素直な所なんよな。
それはもちろん、批判の気持ちもあるけど、弱くて醜くて悲しい部分なんて俺は多分人の数倍あると思っとるから、素直に友達のそう言う姿を見たとき、受け止めてはあげたいけど俺も同じようなことするのは素直に怖かったし、欲と直結してる人の感情を見た時、あれは断絶とでも言うべきかな、
「ああ、俺はコイツのために何もしてあげられへんな」
って醒めた感情になるのが悲しいんよ、隣にいても独りでいるような気分になって。

そうなんよな、結果、独りなんよな。
それはでも、寂しそうな目をしてたあの子とおっても感じとったな。でも、そこが好きやったわ、俺。

「なぁ、オオヤケさ」
「ん?」
「もしその子がまた話しかけてきたら、前みたいに仲良くするの?」
「分からん。話はとりあえず聞くけど、前みたいにってことは無いんちゃう?」
「えっ?意外やな。なんで?」
「だって、もうあの頃ちゃうやん、向こうも俺も。お互い色々知り過ぎたよ」

そう言った時、俺は汗でぐっしょりと濡れてマットレスの上に沈んでいた。

外では雷が鳴っていて、作業中に聴いているブラウンノイズのような音が低く鳴っていたから雨なのはすぐ分かったが、不思議なことにカーテンの向こう側か明るかった。
狐の嫁入りなのか、夕立の切れ目なのか分からなかったが、セピア気味の色が濃い夕日を受けてアスファルトも庭木も畑の緑も、水の力を借りて全て力強く照っていた。

まあ、それにしても、夢とは言え、いや、夢だからこそか、俺の言葉はとっ散らかり過ぎていて自分でも嫌になる程軽薄だ。

時間に余裕があるとは言え、寝過ぎた。とりあえず一服しようか、それとも先にシャワーでも浴びようか。


俺は“カッコつけんなよ”みたいなことをよく言われる。
それに対し、二つの気持ちがある。見透かされた気持ちと、お前だってカッコつけてんじゃねーかよ、両方ある。

そもそも、俺は強欲だ。ジャンクフードも喰いたいし、ギャルのケツだって一生追っかけているし、良い寝具を揃えてずっと寝ていたいし、ベタに良い車にも乗りたい。
一方で、友達や家族が誇らしいピッカピカの自分でいたい、生産性のある自分でいたい、タフで優しくて他者へ理解のある男の美学みたいなものもある。それこそ坂口安吾の『堕落論』なんか読まずに毛嫌いしていた。表面的な浅いバカだった。


俺がC.O.S.A.に惚れ込んでいるのは、後者の俺が高尚だと信じて止まない美しさがあったからだ。
これは別に、今の彼がそうでは無いとか、俺がもうC.O.S.A.が好きじゃ無いとか、そう言う話ではない。“惚れ込んでいる”が現在進行形であることを示す通り、知立のリリシストはこれからもずっと俺の憧れだよ、あんな本当の意味でハードコアな男はそうそういないんだから。

『Cool Kids』は『MIKIURA』が入っているだけでも日本語ラップの歴史で重要なアルバムと俺が勝手に信じ込んでいる程度には、俺の人生の中でも重要な一枚で、好きな曲を選んで聴ける今の時代でも、本当に俺は何回も何回も頭からケツまで聴き直すことがある。
でも、『GZA Intro』のリリック、“次の計画は欲に忠実”という言葉がずっと引っかかっていた。ネガティブな意味じゃなくて、シンプルに彼の口からそんなリリックが出てくるのが意外だった。

そう、この頃はさっき誰かに言った通り“理想のC.O.S.A.”を抱えていた俺は完全に自意識に取り憑かれていた。このアルバムが発売されたのは、東京から帰ってきたあいつとつるむようになって半年くらい経った頃だ。

“カッコつけんな”と言う言葉を、一年前にもアプリで知り合った女に言われた。
確かにあの頃、俺はカッコつけてた。あってすぐ、そんなに握り合えてもいない女の為にタバコも我慢して、ヒップホップ嫌いな彼女のために藤井風とかIndigo La Endとか普段絶対聴かないような曲を流して、それでいて出来るだけ“普段通り、普段通り”と言い聞かせてつまんねーギャグを言ったり、出来るだけ相槌打って、何か良いことを言ってあげようとしていた。今、こうやって振り返ると二階の自室から車のボンネットに頭から飛び込みたいくらいカッコつけていた。
まぁでも、俺からしたら違うベクトルであの子もだいぶカッコつけてたけどな。

しかし、俺たちはカッコつける生き物だ。
そうあるべきとかじゃなくて、息をしたり排泄をするように、そう言うもんだ。
ヒップホップの概念でスタイルウォーズという言葉があるが、争いにしろ愛にしろ、人間は他者に多かれ少なかれ干渉せずには生きていない…あっ、俺は干渉を、この場に限ってはさほど悪い意味では使っていないことだけは理解してほしい。

あの頃、ライフスタイルが欲しくて必死だった俺のことをあいつもあの子も
「カッコいい」
って言ってくれていた。それから五年経って今はどうだ?
ちょっと自我が出て来たら理論武装した結果、あの子はもういないし、衝突も滅茶苦茶増えた。まあ、自業自得だ。

カッコつけたデートの末、ガサツな騎乗位で思いっきり生活に支障が出るほど神経を痛めた俺は、まだカッコつけて体調悪かったかなーなんて誤魔化して、保身のために歯が浮くようなことをポロポロ言って、その後プロのお姉様にコンディションが悪いままお願いしたら結局それも駄目で舌打ちしながらあいつの店に戻った。
「我慢するな」
って言うあいつの言葉で、少し俺は自分の振る舞いとC.O.S.A.のリリックを振り返ることにした。

“忠実”を辞書で引くと、誤魔化しや誤りがなく、正確に行うこと、真心を持ってよく努める事らしい。
それじゃあ、感情に左右されて何でもハイハイ言う事を聞くんじゃなくて、よく対話して、言うことは言わなければならない。まあ、長期的に見て最善を考えろと言うことだった。
「お前はどうありたいの?」
って。結果、カッコつけ方は自分を守ること意外にあると、ようやく気付いた。

さて、じゃあ今この瞬間、『オオヤケアキヒロ』はどう動くかな?
フリーの喰えない作家になって昨日で一年、俺は早朝のバイトをしながらヒーヒー言いながら、毎日そればかり考えながら文を書いている。もちろん、ベストの選択肢が取れない日々ばかりだが。

今、朝のアラームは『GZA Intro』だ。


何かを得れば何かを失うと言う先人の言葉はよく出来ているもので、ようやくライターの収入とバイト代で家族に家賃を手渡せるようになってきたと思ったら、ジムニーのエンジンがトラブル続きだ。もう少しバイトなり仕事を増やすなりしなければならないが、有難いことに思ったよりダメージが少なかった。もちろん、俺の財布も同じ事が言える。
新しい人たちが俺の人生に現れる一方で、旧友と反りが合わなくなったりもする。まあ、今はしょうがない。今は自分の人生を充足させなければ、謝罪に添える良い話も用意できないから。

そういえばある日の夜中、奇妙な事があった。半分見覚えがない、半分懐かしい名前からLINEに友達登録されていた。見覚えのある後ろ姿が赤ん坊を抱いているのを見て、心に涙腺が広がるような温度を感じた。
何かの手違いなのか、過去を振り返ろうとしているのかは全く分からないが、少なくとも彼女は望んでいたものを手にしたことは間違いない。
それが望んだ通りの幸せなのかどうかは分からないが、そうであって欲しいとは思う。
分かれた道の先が少し見えただけで、俺は救われた。

今、俺に欠けているものは何か?
そんなもんいっぱいあり過ぎて逆に分からないのだが、特に深刻なのは対話だとか、他人に対する想像力だとか、きっちりわかりやすい名前が付いた概念であるもののはっきり言うのは小っ恥ずかしいが、そう言うものだと思う。
俺の周りに、それはもう持て余すぐらいみんなから貰っているのだが、それを上手く受け取って返すと言うことが苦手だし、避けてきた。今後、そう言う事をしなければならない。
ただ、俺はしなければならないと考えることは出来るだけやめていて、
「その方がカッコいい」
くらいに捉えるようにしている。困ったときはカッコいいほうを選べば、まず間違いない。カッコよく振る舞うのは、人としての礼儀だと思う。

意見というのは口に出さなければ自分自身にも伝わらない。今の時代、言えることはかなり制限されている気がするが、時にはストレートに言わなければいけないし、慎重に言葉を選ぶ必要がある。
正しいかどうかは分からないが、今はとりあえずそう言う生き方だ、つって。

C.O.S.A.も『Close to you』で歌っていたように、生き方が決まって来ると人との距離が空いてくる。特にこの仕事は、独りでいる事が圧倒的に増えるから。
とりあえず、俺の方は作品を出して、自分の心はできる限り閉ざさないようにしたい。
カッコつけるのとは何だか別で今まで踏み込めていない気がした。
今日は思っている事を全部書いて、次は何が書けるだろう?

何年目かの誕生日、色んなことを教えてくれたあの子と別れて五年、ペンネームに従って生きる人生の一周年、これが小説の体を成しているかどうか分からないが、身近な友達や誰かのリアルなエンターテイメントになっている事を祈って。



追伸(読んでいるかは知らないが)

予定より少し遅くなってしまったけど、君と聴いていたSEEDAの『花と雨』も、お姉さんが亡くなった日にちを一日ずらしているらしい。
新しい門出のお祝いとして、遅くなった約束をここで。ごきげんよう。





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