常にゆらぎのなかにある仕事人生だった
仕事とは、そもそも自分の人生のなかにあるものだ。
自分の人生が仕事のなかにはいっているわけではない。
人間は、毎日、大企業だけで働くわけではないだろうが、だが、大きなビルのなかで働けば、仕事のなかに自分の人生があると感じてしまうのではないだろうか、と私は思ったりする。
都会の人工物は、やっかいだ。
人間は、なんでもできるという幻想や錯覚をつくってしまうくらい巨大なものであり、人間の征服欲の象徴のようにそびえたつ。
私には、そのような景色に違和感があった。
仕事でも遊びでも、都会の中にいることは、なにかが変なのだ。
自分が感じることができるなにかが足りないのだ。
人工物にはゆらぎがない。
私には、ゆらぎが必要なのだ、と思っていた。
「ゆらぎ」をPerplexity Proに調べてもらった。
『ゆらぎには人間にとって重要な意味があります。以下にその主な理由をまとめます:
ゆらぎの生理的意義
ゆらぎは生命にとって必要不可欠なものです。完全に規則的な状態は生命維持に適していません。
適度なゆらぎ(1/fゆらぎ)は人間に心地よさや癒しをもたらします。これは自然界に多く存在するゆらぎのパターンです。
脳の活動にもゆらぎがあり、注意力や認知機能の変動に関係しています。
ゆらぎの心理的意義
ゆらぎは予測不可能性をもたらし、それが人間の創造性や適応力を高めます。
感情や意思決定のゆらぎは、柔軟な思考や行動を可能にします。
内的な思考や感性もゆらぎを持ち、それが人間らしさを生み出しています。
ゆらぎと芸術
音楽や美術におけるゆらぎは、作品に生命感や表現力を与えます。
演奏者のゆらぎが、作曲家の意図を聴衆に伝える役割を果たします。
ゆらぎとキャリア
人生やキャリアにおけるゆらぎは、新たな可能性を開く契機となります。
偶発的な出来事を必然に変える力が、人生の意味を生み出します。
このように、ゆらぎは生理的、心理的、芸術的、実存的な意味を持ち、人間の本質的な部分に深く関わっています。完全な規則性や予測可能性ではなく、適度なゆらぎこそが人間らしさや創造性、適応力の源泉となっているのです』
なるほど、私の不良の性分は「ゆらぎ」にあったようだ。
よくゆらぐのだ。
会社を変わることもゆらぎのひとつだっただろうか。
心地よい。
違う景色が見えるからだ。
だが、そこにゆらぎがない経営者や組織があれば、私は不快になり逃げた。
ソニー子会社は、そういえば「ゆらぎ」の宝庫だった。
私が飽きなかったはずだ。
元社長こそ「ゆらぎ」を起こす源だった。
楽しかった。
ゆらぎまくっていた。
これが会社か、と思った。
まるで遊園地だ。
「遊園地」は古い言葉だった。
今風に言えばテーマパークやアミューズメントパークだ。
日本の中小企業はゆらがないのだ。
まるで超高層のビルのようにそびえたつワンマン経営者が多かった。
(私が経験した範囲だけだが)
人や組織にゆらぎがない。
企業が成長しないはずだ。
稲は、常にゆらいでいる。
だから強く育つのだろう。
稲だけではなく、自然界はゆらぎそのものだろう。
ゆらぎがない世界では、人は成長しないのかもわからない。
大きなビルのなかにあっても成長できる企業は、きっと社内にゆらぎをもっているだろう。
でなければ、人の心は死ぬだろう。
私はそう思っている。
大企業は長期休暇があり、年2回10日間ほど休むことができる。
しかも給与が高い。
長期休暇を利用して社員たちは、自分がやりたいことをし、またあちこちいったり、海外へ出かけたりしながら、ゆらぎを味わってくる。
そして、また都会に戻り、ゆらぎのない世界で戦う。
私は、大手企業から出て、中小企業を渡り歩くことでゆらいでいた。
ただの転職馬鹿だが、それでも、そのゆらぎのおかげで楽しくやってこれた。
ゆらぎがない世界は、成長がなく、失敗が多くなるように思えた。
ゆらぎがある企業は、厳しいものがあったが、私には心地よかった。
企業というところは、ソニー子会社時代のようにそびえたつ経営者ではなく、いつもゆらぐように現場を歩き、ゆらぎを起こすように社員と語り、社員がゆらぐように仕事をさせていた。
ゆらぎがある世界(仕事)には厳しさがあった。
だが、自分自身やチームがゆらぎをもちながら仕事をするので、厳しいのだが楽しい世界が生まれていた。
ゆうらぎをもっている企業とは、経営マネジメントが硬直しておらず、柔軟性があり、人が主体となって仕事をしているところだった。
自由で心地よい風が吹く。
まるで自然界と同じようだった。
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