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責任を引き受ける人間の存在が未来を明るくするようだ

私は、社会を明るくしていったという点では、経営者が未来を語り、実現可能性に向けた確固たる信念と実行力をもっていたからこそ、日本の経済成長があったと思っている。
とくに、私がお世話になったソニー(私は子会社だったが)における創業者である井深さんや盛田さんは、日本の未来を切り開いた第一人者だろう。
多くの責任を担っていたことは、私が述べるまでもない。
とにかく明るく前向きな社長であり、会社(社員たち)だった。
ほんとに仕事に挑戦させてもらった。
ただ、感謝しかない。

私の新入社員時代は、責任をもつこともなく、文句を言いながら気楽なサラリーマン稼業やっていたものだ。
一方で、その企業にお世話になることで、仕事を通して社会に貢献したいという思いをもっている人たちはたくさんいた。
ただし、経営者が考えているようなレベルの話ではない、あくまで社員のレベルなのだ。

そもそも経営者レベルの力があれば、社員は間違いなく自分で起業しているだろう。
その力がないがゆえに社員として働いているわけだ。
社員の立場から包み隠さず話せば、やはり経営者がもつ巨大なエネルギーのもと、自分の能力を発揮させたいと思っているが、企業内部においてそのような場が提供されないので、社員は段々と自らの殻の中で生きていこうとするだけだろう。

多くの企業をみてきたわけではないが、上手く事業運営ができていない会社では、管理職や社員たちから安易な批判が相次いででてくる。
無論、良い企業においても批判はつきものだ。
だが、そのような会社では、批判者をも取り込んで事業運営をおこなう度量がある。
影でいろいろなことを言っているのを知りながら、その人がもっている能力を発揮させる。
悪く言えば、利用できるものはなんでも利用して事業展開をおこなうというどん欲さと執念がある。

社員をタダで会社に置いておくなどといったことは決してしない。
まわりもわかったもので、このよう批判的な人間と上手くコミュニケーションをとりながら、仕事を進めていく幅広い人間性と職務能力を有している。
“あら”が悪いのか、“あら”を言う人間が悪いのか。

私は、安易に”あら”を出させる経営能力に問題があると思っている。
どんな企業においても“あら”はある。
違うのは、“あら”を超えるビジネス展開をして常に企業を成長させ、その中で人間としての成長実感があるかどうかではないか、と考えている。
いわゆる“あら”のレベル(質)が違うのだと思う。

このような企業のマネジメントは、“あら”さえも次の成長プロセスへ飲み込んでいくような力強さを秘めている。
文句があるならいってみろ、といった明るくて前向きな強靭さだ。
社員の当事者意識は、やはり経営者による力強い企業成長への意欲という渦の中に引っ張りこまなければでてこない。

ベンチャー企業では、往々にして社員達は暇をもてあましている(いた)。
このことが、“あら”を言い出す時間的余裕を生み出し、そしてそのような人間達によって当事者意識が欠落していく社員を増やすことになる。
なんといっても全社員を成長させるためには、仕事を通した渦の中に社員たちを放り込んでいくことだ。

そこから自ずと一体感がでてきて責任を担う人間となっていく。
現実は、経営者による一体感がでない言葉であったり、マネジメントが機能していなかったり、一部の社員に対する特別な処遇などによって、この一体感が削がれている。

社会というところは、井深さんや盛田さんたちばかりではないが、責任を引き受ける人間の存在が未来を明るくし、社会を豊かにして、そして成熟させてくものだと思う。
私は、運よくできたばかりのソニーの子会社へ転職できたが、東京通信工業時代を知る社長だったからだろうか、成長する企業の前向きで誠に明るい、そしてすさまじいエネルギー(日々の仕事)をみて、責任を引き受ける人たちの存在をわずかばかり体得できた。

今の日本をみると、経営者や政治家は、まるで真逆の存在だろうか。
だからだろうか、国力は落ちてきており、人々の生活は苦しさが増しているようだ。
このような状況下では、日本という国は決して社会が豊かになったり成熟していくことはないのかもわからない。

私は問題だらけの人間だが、それでも身近なところから、少しでも責任を担っていける人間でありたいと、もがいてきた。
そして今も、ささやかながらもがき続けている。

*あら=企業(他人)の欠点や過失

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