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なぜ意識高い系の若者は、大衆酒場のおっさんを超えられないのか

次から次へと自己啓発系の書籍や動画を渉猟し、意識だけは高く高くそびえたってチョモランマ化するも、せいぜい閉じた狭い界隈におけるグル的存在のセミナーに足を運ぶぐらいが関の山で、これといってそのぶち上がった意識を具現化させるようなことはしていない。

その当然の帰結として、1ミリも現実が動いておらず、決して安くはないお金と人生の貴重な時間を費やして、唯一得られたものはといえば、周囲の苦笑いぐらいのもの。

そういういわば自己啓発ジプシーの人っているじゃないですか。いわゆる意識高い系ですか。もはや死語になりつつある感が否めないので、あまりこの言葉は使いたくないですけども。というか、そもそもそれって本当に意識が高いといえるのかどうか問題がありますよね。現実を動かさない意識の高さってそれいったいなんなん、と。

自己啓発のパラドックス

そんなわけで、ここでは以後そういう人たちを総称して自己啓発ジプシーと呼びたいと思いますが、みなさんも一度や二度ぐらいは、自己啓発ジプシーの民に遭遇したことがあると思うんですよ。もちろん筆者もあります。

ゆうて筆者も中年期が眼前に迫っていて、そろそろ惑ってはいられないお年頃ですから、さすがに今となっては少なくとも直接目にする機会はなくなりましたが、若かりし頃はたま〜に遭遇していました。

いくつであろうと陥る可能性はありますが、体感統計的にはやはり若ければ若いほど、この自己啓発ジプシーに陥りやすい気がします。

これって考えてみれば当たり前の話で、この手の自己啓発系コンテンツがぶっ刺さるのって、逆説的に「自己がまるで確立されていない」人なんですよね。だって考えてもみてください。幼少の頃から生粋のアーティストとしてブイブイいわせてた人が、巷に転がっている自己啓発系コンテンツを進んで消費すると思います?断言してもいいですけど、絶対しないですよそんなの。小馬鹿にするとかもはやそういう次元じゃなくて、そもそも人生の視界に入っていないことでしょう。

これはですね、勘違いしている人はめちゃくちゃ多いんですけど、自己啓発系コンテンツって自己を啓発するためにあるんじゃないですよ。自己啓発なんていうぐらいだから、読んで字のごとく自己を啓発するためのものだと思うじゃないですか。

違います。あれは正確には確認用コンテンツなんです。すでに自己が確立された人が「ああ、うんそうそう。わかるわかる。俺もその境地たどりついたわ〜マジで昨日寝てないわ〜」ってな感じで、ミサワばりに確認作業に使うためのものなんです。

つまり、自己啓発系コンテンツというのは、すでに一定の自己が確立されていて、それがまったく刺さらない人にとっては、別にあってもなくてもどっちでもいいものなんですね。

翻ってまるで自己が確立されておらず、それゆえ問答無用にぶっ刺さってしまうような人にとっては、意識だけチョモランマンという悲しきモンスターを生み出してしまう、こういうある種のパラドックスを孕んだものなんです。自己言及のパラドックスならぬ自己啓発のパラドックスとでもいいましょうか。

だからこそ、若人に自己啓発ジプシーが多いわけですね。年齢だけですべてを語ることができないとはいえ、時間という万人に平等に与えられた資源をどれだけ自己の確立に割けるかどうかは、やはり大きなファクターといえますから。

市井のおっさんたちに宿る実存

『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』という、深いんだか浅いんだかよくわからないタイトルの本があるんですけども。

内容はというと、立ち飲み屋や大衆酒場にいる市井のおっさんたちに、人生の教訓を尋ねてまとめたものです。内容自体は目新しいわけでもないし、個人的なものばかりでn=1体験談の域を出れておらず、ぶっちゃけ下世話な内容も多いです。それこそ自己啓発ジプシーのほうが、よっぽど普遍的で人生訓めいたことを言ってることでしょう。

けれども、重みがまったく違うんですね。彼ら市井のおっさんたちは、各人が各人なりに人生の酸いも甘いも経験してきています。それゆえに彼らの言葉には、たしかな実存が宿っている。

内容が正しいとか間違っているとか、そういうことじゃあないんです。たとえ内容が正しかったとしても、驚くほどぺらっぺらでまるで響かないことはあります。よくあります。それはもうしょっちゅうあります。自己啓発ジプシーはまさにこの典型といえるでしょう。

自己がまるで確立されていない、換言すれば実存がそこにまったく宿っていないにもかかわらず、言葉だけ内容だけ立派に取り繕っても、そんなのはすぐ見透かされます。

虫歯だらけのきったない歯をした人が教えるデンタルケアとか、見るからにだらしない体をしたデブが教えるダイエット法とか、いやそれ誰が耳を傾けるんやって話じゃないですか。理論上の正しさだけが求められる場面があるのは否定しません。それが価値をもつ文脈も中にはあるでしょう。が、しかしそんなのは現実世界のごくごく一部で、やはり多くの場面で現実をちゃんと動かそうと思うと、他者に耳を傾けてもらう必要があるわけです。

一方で彼ら市井のおっさんたちの人生訓のように、たとえ内容が間違っていたとしても、傍目にどんなにくだらない内容だったとしても、ずしんと響く場合だってある。この重みの違いがどこから生まれるかというと、そこに実存がともなっているかどうかなんですね。

強いパンチを打つためには、体重を乗せなければいけません。体重の乗ってない腕の力だけで打ったテレフォンパンチは、容易にかわすことができますし、たとえ当たっても大したダメージは受けません。

これは言葉もいっしょです。パンチのように物理的でわかりやすくないので、意識せずに言葉を吐いている人が本当に多いですが、言葉にも軽い重いはたしかにあります。

みなさんの周りにもいると思うんですよ。別にそこまで論理的でもなければ、情熱的でもないにもかかわらず、なぜか有無を言わさない説得力を放っている人が。あれはそもそもの言葉が重いんです。その重さがどこからくるかというと、パンチでいうところの体重、つまり実存が乗っているかどうかです。

じゃあその実存とやらは、どうすれば育まれるのか。これは今から語り散らかすには、あまりにも骨太なテーマなので、いずれ稿を改めて論じたいと思いますが、1つだけ重要な要素を挙げておくと、「主体的な選択」が鍵になるのは間違いありません。

人生にショートカットはありません。少なくとも本当に大事なものを得ようと思うならば。実存という真に価値ある宝物を得るためには、「主体的な選択」を地道に繰り返していくしかないのです。

実存、築いていきましょう。われわれが生きるこの人生において、それ以上に大事なことなんてないのですから。

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