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酒と仮面(3)

                                                             二

 居酒屋へ行くと伊賀利がいた。私を認識すると、よお、こないだはどうも、と声をかけてきた。
「随分と店の売り上げに貢献してもらったな。感謝するよ」
 私は熱燗を頼み、ゲソバター炒めを注文した。熱燗を持ってきた女の子が酌をしてくれた。女の子が、
「へえ、どこの店のことですか?」
と聞いてきた。私は伊賀利が働くコンビニのことを告げた。伊賀利が、
「この人、信じられないよ。成人誌を五冊も買っていくんだよ、五冊だよ」
と言って笑った。
 私は顔を赤らめ、
「そんなこと、ここで言うなよ。女の子の前で」
と言った。
「五冊は多いですよ。どんな生活しているんですか?」
と女の子が聞いてきた。
「あれは彼を笑わそうとしただけで、別に欲しかったわけじゃないよ」
と私は言った。
「でも家で見たんだろ?」
「見てないよ。袋からも出してない」
「本当かねえ、嘘くさいねえ」
「じゃあ大将にあげたら?ねえ大将、成人誌読む?」
「読まないよ」

 その夜、私はまた歩道橋に立っていた。だんだんと夜に吹く風は冷たく、あまり長居もしていられない。何となく、公園で遊ぶ若者を見ていた。すると、仕事帰りの女の子、沙耶ちゃんが通りがかり、声をかけてきた。
「今日もここにいたんですね。私もあれ以来時々ここに来て、ぼうっとすることがあります」
 沙耶ちゃんは赤のジャンパーを着て、長い髪を後ろに垂らしていた。欄干に手をかけ、
「寒くなりましたね」
と言った。私は隣で公園に目をやる彼女の美しさに惹かれながら、
「寒くなったね」
と答えた。しばらく二人で公園を見ていた。高層ビルの横を吹き抜ける風が交差点に流れ、交差点にかかる円形の歩道橋を揺らした。足元では車が行き交い、宙に浮く二人は車と風の流れの中、どこかへ持っていかれそうに思えた。
「私ね、室田さんが伊賀利さんのこと気にかけてるのが何となく分かるの」
と彼女が言った。私は
「気にかけている?伊賀利を?」
と答えた。沙耶ちゃんは
「そうよ」
と言った。私は
「ねえ、公園を歩かない?」
と言った。彼女は
「いいですよ」
と答えた。
 私達は歩道橋を下り、公園へ向かった。公園のカフェはまだ営業していて、まばゆい光が夜の公園を照らした。入口近くにある他のレストランやアクセサリショップは営業を終了していて、がらんと人けと明かりの消えた店内がガラスの向こうに見えた。公園の北側にあるホテルからは黄色と紫のネオンがこぼれてきた。公園を進むと、芝生が広がり、起伏のある中、木が育ち、男女が所々に身を潜め、夜の街灯が届かないところに居場所を見つけていた。公園の向こうは動物園になっており、その入り口には動物の形のパネルや、発券所があったが、今は閉まっている。動物園を迂回するようにして先へ続く道があった。私達はその小道を行った。街灯がわずかにともり、草木が生い茂る。時折すれ違う人は静かに通り過ぎる。道は右へ曲がり、坂を下る。やがて美術館が見える。その角を曲がると、道は高架となり、先ほどの動物園の頭上を通り抜ける。夜の動物園はひっそりと静かで、何も見えない。どんな生き物が潜んでいるのだろうか。何も聞こえない。やがて高架は動物園を通り過ぎ、階段を経て地上とつながった。私達が地上に降りると、賑やかな街の光に包まれた。通りには幾つもの串カツ屋が店を出し、まばゆい照明で客を誘った。どの通りにも串カツ屋が並び、夜の遅いこの時間にもまだまだ営業を続けていた。ガラス越しに見る店内は多くの人で賑わい、外国人観光客の姿が目立つ。広い店舗、こぢんまりとした店舗とそれぞれで、二十四時間営業しているところもあった。皆串カツをソースに漬け、酒を飲んでキャベツに手を伸ばした。もつ煮や鍋を選ぶ人、おでんや梅クラゲに落ち着く人もいた。何か食べてく?私は沙耶ちゃんに声をかけた。彼女は頷いた。
 私達は街を歩き、良さそうな店を探した。串カツ屋が多いが、寿司屋もあるし韓国料理屋もある。ふぐ料理屋もあるしうどん屋もある。マッサージもあるし、劇場もある。賑やかな一角。
 私は路地の小さな串カツ屋を指し、ここどうかな、と聞いた。彼女はいいよ、と言った。
 私達は中へ入り、L字のカウンターの角の部分に座り、荷物をカウンターの下に入れた。私が熱燗にするというと、彼女もほしいと言い、私は熱燗を二合注文した。やがて運ばれてきた徳利を彼女はつかみ、店でするように酌をしてくれた。私も彼女のおちょこに酌をした。乾杯をしてのどを潤した。串カツはホルモン、玉ねぎ、エリンギ、もち、チーズ、ミニトマト、うずら玉子、おくら、じゃがいも、キスを二本ずつ注文した。もつ煮とらっきょうを追加し、突き出しのキャベツをつまんだ。やがて串カツが出てきて、私達は食べ始めた。私は容器に入ったソースを指して、
「串カツをソースに二度漬けてはいけないよ。君の食べ残りがソースに入っちゃうからね。ソースはみんなで使うんだ」
と言うと、彼女は
「知ってます」
と答えた。
 串カツもあらかた片付いた頃、沙耶ちゃんがこんなことを言った。
「室田さんって、伊賀利さんをだいぶ気にかけてるみたい。どうして?」
「どうしてかなあ。分からないなあ。ただ、あいつは現役を辞めるべきではないと思うし、あいつ自身も辞めたくないと思っている。俺には分かるんだ」
「私も伊賀利さんには続けてほしいとは思うけど、本人がしたくなかったら仕方ないかな」
「本人はしたがってるよ。俺には分かる」
「何で?」
「分からない。俺の願望かな」
「何でそう願うの?」
「何かあいつの試合って面白いだろ?切羽詰まった顔で入場してきて、試合が始まるとむきになって闘う。何か感情がほとばしる。普段のあいつって暗いじゃん。多分リングはあいつが感情を表せる唯一の場所なんだよ。その場所をあいつから取り上げたくない」
「取り上げたくないって、自分から遠ざかってるんでしょ」
「違う。自分では戻りたいけど、何かの原因で、それが出来ない。その原因を突き止めて、解消すれば奴は戻ることが出来る」
「何か精神科医みたいなこと言うねえ」
「そうだ。奴の心理的障害を把握し、その根絶を図ることで奴を快方に向かわせる。それが奴の主治医、いや同じ居酒屋の常連である俺の役目だ」
「何言ってんだか」
「そして病院の看護師、いや居酒屋の店員である君にも手伝ってもらうことになる」
「何を」
「奴を再びリングに向かわせるにはどうしたらいいかな?」
「うーん、まずは彼に戻る意思があるのかどうかってことよね。やりたくなければ仕方がない」
「それはある」
「何故?」
「俺の願望だ」
「じゃあ意思はある。次に、なぜ戻れないのか」
「それは怖いからだ。また負けるのが怖いからだ」
「彼は今まで無敗だったの?」
「いや、判定だが負けたことはある。KO負けは初めてかな」
「それがショックだったのかしら?」
「そうかもしれない。そうだとしたらどうすればいい?」
「しばらくそっとしといたら?そのうちまたやる気になるまで」
「そうするの?それしかない?」
「さあ」
 私達は串カツを食べ終え、酒も空にした。キャベツももつ煮もらっきょうもなくなった。店内は客が減り、静かだった。私達は勘定を済ませ、店を出た。通りを北へ向かうと、派手なネオンタワーが見えた。それは真っ赤に色づき、夜に映えていた。
 私は居酒屋へ行き、店の親父に聞いてみた。その日伊賀利はいなかった。
「最近伊賀利来てる?」
「来てるよ。あんただって会ったばかりじゃないか」
「親父さんはどう思うの?伊賀利のこと」
「え?どう思うって、お客さんだよ」
「そうじゃなくて、伊賀利とボクシングの関係性について」
「は?伊賀利とボクシングの関係性?知らないよ、彼は元ボクサーで、今は違う。それだけでしょ?」
「彼はまだくすぶってて、復帰したいけど出来ない。何かのきっかけや、誰かの助けを待ってる。そんな気がしない?」
「知らないよ、そんなこと彼は言わないもの」
「言わなくたって分かるでしょう」
「言わなかったら分かんないよ。顔見て勝手に料理出してたらお客さん怒るだろ?」
「だいたいこの人何食べそうだとか分かるでしょ?これだけやってたら」
「分かるけど、一応聞くんだ。それが礼儀だ」
「私は勝手に生ビール出しちゃうことがあるけどね」
と沙耶ちゃんが口を挟んだ。
「飲み物は決まってる人が多いからな。それでも一応聞けよ」
「私には分かるのよ」
「聞きなさい」
「嫌です」
私は言った。
「ねえ、今仮定してさ、この店を病院とする。僕はここの先生。沙耶ちゃんは看護師。親父さんは病院の食堂の親父。ここに一人の患者がいる。彼は一度落ち込み、立ち直ろうとするも、なかなかきっかけがつかめない。彼は本当はできる人で、本人もやる気があるのだけど、一度はしごが外れちゃったから、どうやって上がっていいのか分からない。そんな時病院の先生はどうしますか。薬、ここでは酒を与えるだけですか。そんなんで彼は治りますか。彼の持ってる抑うつが一時的に緩和されるだけで、不調の原因が根本的に治療されますか。投薬を続ければ、状況は悪くなるだけではないですか。そうじゃなくて、はしごがなくなった今、一歩一歩階段を上がっていく手助けをするべきではありませんか。一歩一歩上がって行けば、また調子を取り戻して、階段を駆け上がっていく。一人でも生きていけるようになる」
 しばらくは誰もが無言だった。冷蔵庫がブーっと鳴ったり、猫がニャーと鳴くのがよく聞こえた。やがて親父が、
「それでその患者っていうのは、あんたのことか?」
と言った。
 次の日から私は仕事で失敗続きだった。約束を忘れたり、会議で失言をしたり、書類を無くしたり。部長からは怒られ、同僚からは軽視された。患者は俺なのか…。この言葉が頭から離れなかった。
 私の酒量は増えた。仕事が終わるとすぐに飲みに行き、家でも飲んだ。沙耶ちゃんが心配してご飯に誘ってくれた。私はステーキハウスで沙耶ちゃんに何か言ったが、中身を覚えていない。店を出て夜の公園で沙耶ちゃんに抱き着いた。彼女は何も言わなかった。芝生で私は座り込み、寝転んで、空を見た。立ったままの沙耶ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
 月が出ていた。
 私は立ち上がり、
「もう俺、伊賀利を無理に復帰させるのはやめたよ」
と言った。

今日のラクダの食事は?