見出し画像

言葉に邪魔されながら言葉に力を借りる


自分の中に、複数の人格があるのでは無いかと感じる瞬間がある

実際には、その複数の人格がそれぞれ独立していて干渉しないような所謂「多重人格」ではない。全て自分である自覚もあるし、それぞれを横断して存在する価値観もあり、かつ、バッチリ干渉し合っている。

ただ、自分が何かの事象に関わった時、”環境に合わせている”というよりは、”心底納得する、共感する”、ところから”こちらが自分なのではないか”という地点まで一気に染まっていくことがある。

周囲からは、「共感力」が高いと表現される。

自分で思うことは、好きなもの、こと、ひとの幅が広い。

なぜ幅が広いかを考える。

一点の視点、基準から見たとき、かっこ悪いとか、汚い、なっていないと感じるようなものも、中に入ってみると、外にいたときには見えない世界があって、それにいちいち共感してしまう。多くの場合、どこかしら良いと感じる面が見つかる。

閑静な住宅街で高級な家に暮らし、高貴な生活を送っているかっこよさもわかるし、ストリート精神とか、土の上でも寝れるような生きる力の高いどちらかというと汚い世界にはずっと親近感を感じるし、田舎のゆったりとした空気と溶け込むような、好きな音楽を流してベランダでコーヒーを片手に読書するような大きな変化を求めない穏やかな生活もまた魅力に感じる。

暮らしに限らず、カラーがバラバラな友人、好きな音楽、好きな服装、人の考え方、とか全てに関してそうなのだ。

どれもいいよな、と言うくらいであれば、どれかを気楽に選んでいけば、特に生きていて困ることはないかもしれないが、自分の場合、全部実現したいとか、そう言う線まで心が沼る。

持ち物を捨てられなかったり、引越せなかったり、バイトをやめられなかったりするのも、恐らくはこれに深く関わる。

悪く表現し、八方美人と言われればそれまでかもしれないが、こちらはそれぞれに対して本気なのである。どうする?人生何年あっても足らなくないか?

そんなこんなで、日によって、自分の人が変わったように見える。

考えることが多すぎて、全てが錯綜している。


世の中の人に関する思想や概念には、名前がつきすぎている。

フェミニズム、とか、反社会、とか、ストリート、とか、パンクロックかハードロックか、とか、インテリ、とか、美意識があるとかないとか

全ての事象はグラデーションであると言うことを尊敬する大学時代からの先輩が言っていたことがあるが、まさにそれを思う。

全てがグラデーションでかつ、軸はxyだけでもなく、複数の次元に伸びているにも関わらず、大体の事に名前が付いている。グラデーションの各一点のポイントに点が打たれている。

そして、自分や周囲を見ると、まさに言葉通りの物や人は一握りで、大概の場合、それに当てはまっている部分は一面だけであり、その他の面は全く違ったりする。

自分が何者かを考えると、常に概念に対する言葉や名前が邪魔をする。

実に逆説的である。言葉がなければなにも説明できないにも関わらず。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?