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「昔は不登校という選択肢はなかった」で済ましてはいけない不登校とフリースクールの現実

「なんで学校に行かないのかわからない。」
「ツライこともたくさんあったけど自分は何が何でも学校に行っていた。」

そんな言葉を聞く度に自分もそうだったなぁと思うと同時に、「不登校」という言葉で子どもたちが分断されてしまう違和感も覚えていた。

それは何も学校に行っているかそうでないかだけじゃなく、男か女か、若いかそうでないか、未婚か既婚か、経営者か否か、あるグループに属しているかいないかなど、すぐに「あなたとわたしは違うからわからないでしょ」アピールをされて一方的に分断し議論をそこで終わらそうとするばかりか、ある条件で○×クイズのようにその場で線引きをしてグループ分けをし攻撃をしたりする人に対して感じる違和感とよく似ているような気がする。

どちらの集団が正しくて優れているのか。
それを意識して学校に行っていない集団を否定し自分を守るのであれば、不登校はその人の常識を覆し危機をもたらす存在だからこそ「意味わかんねー」「ないわー」と言われるのかもしれない。

最近になってようやくそこの部分への理解が業界内だけで進んできているようにも思う一方で、実は依然として学校に行かないという選択肢が”ない”のは今も同じだと感じる。

不登校の親子は、その選択肢がありえ”ない”からこそ苦しんでいる。

もちろん不登校といえども色んなパターンがあって、敢えて公教育を受けなかったり積極的にその立場をとる場合も不登校と一括りにされるので難しいが、少なくとも「ここ」に来る子たちのほとんどは、選択肢が増えたからフリースクールなどの学校外の学びの場を選んでいるのではなく、その選択をしなければいけない状況にまで陥ったから来てくれたのであって、本来なら元気に学校に通っていることを理想としている親子が多い。

そこを、私立の学校や塾やオルタナティブスクールと同じ扱いにし「選択肢が増えたから通っているんだね」とそれまでの地獄のような経験をなかったことにされると、安易な分断が生む安易な理解と共存で苦しむ親子は、いくら選択肢が増えようがこれからも減らないんじゃないかと思う。

この課題を解決するために、そのような現実を伝えていくとともに本当の意味で「堂々と選択をすることができる社会」と「それを理解し受け入れることができる社会」を創りたいと思う。

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