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友達は必要なのか?

久しぶりにインスタのサブ垢にログインし、
自己否定となるような言葉を綴った。

ありえないほど、つらつら溢れ出てくる言葉。

自分への言葉の暴力の裏側には、
もう人に期待して傷つくのやめたら?の
自己防衛が入っている気がする。

だけど、そんな言葉を度外視して、
すぐ人へ好意を寄せてしまうのが、
わたしだ。

そうして、特性が邪魔をし、
その関係に亀裂を入れる。

その瞬間がいつくるのか怯えながら生きてる。
「ひとは、わたしを知れば知るだけ嫌いになる。」
この固定概念が家庭環境のせいなのか、
一生抜けない。

人間、怖い。
だけど、わたしは人間を好きになることしか、
世界に刺激を感じなくなってしまった。

刺激になる人が好き。


わたしの中で、特に怖いと感じる人間関係。
それは「友達」だ。

多分、友達という存在が、
私の中で勝手に恋人かのような立ち位置になる。

「友達」に嫌われたくないという思いが強くなればなるほど、
相手のあいづちとリアクションをこまめに確認してしまう。

そうして、いいリアクションをしてもらえるわたしを頭の中で作り上げ、その自分を演じる。
これが、友達に見せるわたしの姿になる。

だけど、
「ともだちじゃん!なんでも相談してよ!」

みたいなこと言ってもらえて、「あ、この人にわたしの素の部分が受け入れてもらえるのかもしれない」なんてちょっとでも思った瞬間、アウト。
相手に気を遣えていた自分の機能が停止し、
自己中なわたしに早変わり。

人が変わったかのように、めんどくさい人間になる。配慮の糞もなくなる。

止まらない「なんで」の思考と、
わたしの興味が四方八方に飛んで頭のなかで勝手に話し出し、話を簡潔させ次の話題に流してしまう。

これ、相手めちゃくちゃ困惑する。

そしたら「アイツめんどくさい」なんてイメージづけられて、
距離を置かれる。
実際、そのイメージ間違ってないけど。

さっき、同じ特性持つ人とこの話題で盛り上がって、これ自分たちの生きづらさだよねと言語化したりもしてきたので、
こんな特性を理解できたわたしなら、
人間関係、うまくなれるのかもしれない。
などという淡い期待。

詳細はどうでもいいことばかりなので、
割愛するが、こういったケースからうまく友達を作れなかったわたしにとって、「友達」は、トラウマ。

だから、わたしの「友達」ハードルめちゃくちゃ高い。
相手がわたしのことを「友達」と言葉にした瞬間から、
わたしとその人の友人関係が始まると思うようにしている。

それまでどんなに仲良くても、友達だと思わない。
というか、友達かもみたいな期待感も抱かないようにしている。

そんなわたしに対して、
相手が「友達」という言葉を発すれば、
「告白」と同義くらい重いもの。

だから、仲良くても、
わたしの中では全員「知り合い」の位置づけ。

先輩だから、敬語やめないから
距離感じられるかもしれないが、
友達と話してる100億倍楽。

なんなら無知な人として見てくれる大人と話してる方がすき。
わたしの大好きな「なんで?」をいっぱい聞けるから。

こういう関係作ってないけど、
名前と顔知ってる人になら、
なんでも話せる。
しかも、気楽に。

わたしにとって名前のない関係、
めちゃくちゃ居心地いい。

この人との関係終わるかも。
なんて考えなくていいし。

だから、わたし人間関係に名前つけるの嫌い。
名前つけた時点で終わりが見える。

それやっぱり、怖い。

というか、そう意識するようにしてします。
自己防衛のために。


友達なんて概念なくすだけで、
相談乗ってくれる人増えてきた。

自分のめんどくさい思考に、
面白いねって肯定してくれる人も増えてきた。

私を縛り付ける人間関係苦手が、
友達という関係をなくしただけで、
なくなりそうな感じする。


友達じゃなくてもご飯行く人いるし、
相談乗ってくれる人いるし、
孤立を感じなければ、
友達っていう関係いらないのでは?
と思うんだけど実際どうなんだろう。

でも、これ日本が変に個人化してることだったり、
SNSが発達して切る切られの中で生きてきた
現代の若い人たち、
みんな感じてる悩みじゃない?

ともだちってなんだろう?って
みんな考えないのだろうか?
考えてる人いたら、その人に、
人間関係における「なんで」を
色々と誰かにぶつけてみたい。

そこに、同じ生きづらさ抱えてる人が見てくれてたら、話してみたい。
関係に優劣とか名前とか作らずに。

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