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生きづらさの根源が分かった。

就職活動という、ある種の強制に苦しめられる日々を過ごしております。
一時期は、就職をすることで自分の実現したい社会の一助になれるのではないかなんて舞い上がったりもしていたのですが、いざ面接になると自分の感情・考えが言葉にできない。なんて致命傷が…。

これに気づいたのも解禁日を過ぎた今日だという悲劇。
学内のキャリアサポートセンターの方に面談をしてもらったのですが、その方は初めての方だったのでいい緊張感をもって、面接練習してもらえると思い、ないなりに自信を持って参加。
色んな質問をされている中で、私の頭の中では「その質問に対しては…こんなことを言ったらいい…」までは理解できるのですが、いざ言葉にすると頭にあるものが全く出てこない。
面談してくださった方も優しい方で、私が話を終えたあとに「自分の言いたいことは伝えられましたか?」の毎度聞いてくれていました。
ですが、当然のごとく、私の思っていることは言葉にできていないわけで、「はい!」と自信をもって言えるわけでもなく…。
できないことに対するもどかしさで涙が溢れるなんて事態に。

2月の1ヵ月で面接練習を積んできたからこそ、できないなりに出来るようになってきたつもりではいたのだけど、自分の想いが相手に届いていないことが悔しくて…。
なんて思いの傍ら、涙があふれた経験なんているぶりなんだろう…。と、人間らしい自分にちょっとほっこりしてみたり…(笑)

でも、やっぱり悔しくて今後の自信を完全になくしてしまったがばかりに溢れそうになる涙との闘いを繰り広げては、自己否定に走るという悶々とした1日を過ごした。

そこで、私が自己否定に走ったときは、必ずその時の悩みを言語化してくれそうな本を1冊購入して帰るなんていう意味の分からないルールを設けているので、今回も本屋さんによって帰った。

今日買う本は絶対にこれと決めていた1冊。
若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』

帯の「おじさんになって「生きづらさ」から解放された」なんて文字。良すぎる。刺さった。
(もともと、佐久間さんがYouTubeで紹介していたので知ってはいたけど。)

中身を開くと、私の世間に感じている違和感だったり、自分に対する理解の仕方が言語化されていて、私が言いたいのはこういうことなんだよ~~~(´;ω;`)なんて、気づけばまた涙が。(笑)
今日の私は多分、高校生で家に引きこもっていたぶりに涙腺弱い。

刺さるポイントをノートにメモしてみたり、直接蛍光ペンで文字をなぞったりしながら食い入るように読んでいたら、気づけば日を跨いでいる。

しょっぱなからいい。
1人○○が平気な理由を若林さんは、
・自分の行きたいところに他人を連れていく後ろめたさがある
・他人の行きたいところに付き合うことに耐えられない
・自分と話している
と表現していた。大体理解はできるが、中でも私は最後の「自分と話している」なんて部分に大共感した。

用事があるついでに、1人で大阪や東京などの知らない街を観光し、美味しそうなごはん屋にも平気で1人で入れるのは、常に自分と対話をしているからだ。
私は将来、都会に住みたいと思っているけどこの場所に住む想像はできるのか?海外なのか?とか、自分の将来のことだったり、「ここって芸能人も歩くのかな?もしかして今すれ違ったりしてる?」なんてくだらない妄想まで。
自分の一番の理解者は対話するもう一人の自分だから、1人でどこでも行けるのだ。いや、1人で行くという感覚があまりないのかもしれない。

友人に、1人○○の話をすると、「尊敬~~」みたいな軽いノリで返事されることに嫌気がさしていたのは、もう一人の自分をバカにされている気分だったのかもしれない。

そして、気づけばこの本には大量の蛍光ペンの線と付箋が貼られているからいいとこ全部に触れたら、卒論以上もしくは若林さんの本以上の文章になってしまう気がするので(←盛りすぎ)今後、自分の思考を整理するためにnoteを開くときに小出しにしていきたいと思う。

ようやく本題。私の人生を苦しめていた生きづらさの根源について触れていきたい。

あとがきに


「自分探し」という言葉が嘲笑として使われる理由は単純で、ほとんどの人がそれをしなくてもいいからだ。
では、自分探しをしなくてはいけない人(自分を探して見つけなければならない人)はどんな人なのか。
それは、自分のことがよく分からない人のことだ。
自分がよく分からない人と言うのは、他の人と自分が何か違うような気がしている人だ。
学校の文化祭終わりに感動して泣けて、会社の飲み会で見事に上司の機嫌を取り、彼女とのイルミネーションを何の疑問も持たず見に行けて、ハワイで結婚式を挙げて両親を喜ばせる人は自分なんて探さなくてもいいだろう。
逆に、
なぜクラスで自分だけが注射を怖くて打てないのか分からない。
なぜ制服の第一ボタンをしめなければいけないのか分からない。
なぜ失恋を6年も引きずってしまうのか分からない。
なぜ飲み会がこんなにも苦痛なのか分からない。
なぜ異性に話しかけられないのか分からない。
なぜ上司にお酌をしなければならないのか分からない。
なぜこんなにも毎日頭が痛くなるのか分からない。
なぜ誰かに言われた何気ない一言に、何日も四六時中苦しみ続けなければならないのか分からない。
そういう人間は、自分を探して見つけないとこのクソ社会を生き抜くことができないのだ。
生き方上手は、僕らからすると説明書を読まずとも人生というゲームをどんどんクリアしていく超人だ。
そういう人に比べて、自分は圧倒的に劣っているのだ。
説明書を片手に、何度も失敗しながら少しずつゲームを進めなければならない。
キャラクターの操作方法が「自分探し」で、ゲームの攻略本が「社会探し」だろう。

ナナメの夕暮れ

と綴られていた。私の生きづらさはここにあったのだと確信した。私はこの生きづらさを解消するために、自分とは何者なのかを理解する必要があると思っている。だから、なぜを永遠に繰り返してるのだと思う。

なぜ、毎日同じ制服を着て、同じ席に座って、同じ時間を過ごしているのだろう。
・なぜ、お弁当は友達と食べなければいけないのだろう
・なぜ、私は飲みのコールを気持ち悪いと感じてしまうのだろう
・なぜ、自分の思っていることを他人に伝えることができないのだろう
などなど、周りの人がやっていて、自分にできないことがあるとすぐに「なぜ?」と問い詰めたくなる。

この問いとの対話は、ある種の自分探しで、他人と違うことに違和感をもった人間が社会で生きるための宿命だったのだと理解することができた。
私は、社会に対する憤りを持つと同時に、大きすぎるくらいの期待もしている。だからこそ、社会を知り、自分を知ることで私の闘うべき場所を模索しているのかもしれない。
そんな時に、出会えた若林さんの言葉は、一生の宝物になるだろう😌

私が、若林さんの立場なら、なんも知らない女子大生が、分かった風に語ってんじゃないよなんて思ったりしそうだが、おじさんになった若林さんは受け止めてくれるんじゃないかと。(笑)

誰と会ったか、と誰と合ったか。
俺はもうほとんど人生は”合う人に会う”ってことでいいんじゃないかと思った。
誰とでも合う自分じゃないからこそ、本当に心の底から合う人に会えることの喜びと奇跡を深く感じられた。

最後にこの文で締められてたこの本には、若林さんの人生が詰まっていると感じた。
私も、自分の実現したい社会だったり思いを拙い言葉ながら発言していると、やっぱり「類は友を呼ぶ」ということわざ通り出会える確立が増えているように思う。
私の就活・人生について向き合って語ってくれる友人、人の温もりや魅力を発信したいと考えるパワフルな人、人のためにサポートしたいと考える先生など。

結局行動と言葉に責任を持ち、自分を生きることで若林さんのいう「合う人に会う」が達成できるんじゃないかと、自分のなかではそう結論づけたりしてみた。

東京ドームを終えた若林さんが書く、エッセイ読みたいな~なんて。
再連載楽しみにしています。(笑)

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