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命の警報

長井に移住する約1年前、長女は保育園年長さん、長男は0歳6ヶ月でお姉ちゃんと同じ認可保育園には入れず、川崎の園庭もない狭いビルの一室の認定保育園に預けていた。

私は家から近い総合クリニックの人工透析室で医療秘書兼クラークとして働いていて、仕事と子育てで毎日を目まぐるしく過ごしていた。

人工透析は祝日や年末年始も関係ない。患者さんは週に3日の透析を受け続けなければ死んでしまうのだから、(少ない人で週に2日、多い人で4日。)例え台風や災害があっても治療をしなければならない。

スタッフも大変だが、患者さんは想像を越える苦痛の日々だと思う。

一日3時間から多い人だと5時間、腕に針を入れられじっとベッドに横たわる。やっと終わったと思ってもまた2日後には同じことをしなくてはならない。

免疫力も低下しやすく、合併症も多い高齢の透析患者さんは数ヶ月に1人のペースで亡くなっていくが、私は淡々と亡くなった患者さんの個人ファイルを整理しまた新しく患者さんを受けられる準備をする。

初めの数カ月は患者さんが亡くなるたびに泣いたし、落ち込んだ。

数日前まで軽口を叩いていた患者さんがある日、クリニックに来ない。

連絡もつかず院長とスタッフが家に行くと布団の中ですでに冷たくなっていたということもあったし、救急搬送されてそのまま亡くなり、ご家族に連絡しても疎遠だったりして来てもくれず仕方がなく私が患者さんのロッカーに入っている私物を整理することもあった。

片付けながら涙が頬をつたう。

70代の患者さんの個人ロッカーの中にはティッシュの箱と一組の着替え、それと栄養指導の紙があるだけだった。

空っぽになったロッカーを眺めながら、朝の体重測定をしながら交わした何気ない会話を振り返っていたら、更衣室のドアがいきおいよく開き「それ捨てたら、個人カルテ処理しておいて。この前面接した患者さん、来週頭にでも受け入れるから」と勤続10年になる先輩が事務的に話してまた勢いよくドアを閉め、去って行った。

“なんであの人はあんなに冷静に対応できるのだろう、亡くなった患者さんとは6年以上の付き合いのはずだし、週に3日も顔を合わせ笑顔で世間話をする様子もよく見かけた。少なくてもひとり暮らしの患者さんにとっては家族のように思っていたに違いないのに・・・”

と心の中で非難した。しかし、私もいつからか仲がいい患者さんの訃報を聞いても、目の前で心臓マッサージがされていても、患者さんのシャント(人工血管)から血が噴き出していても動じなくなっていた。

それが日常となっていたから。慣れとは恐ろしいものだ。それに患者さんが亡くなると少し安堵する自分もいた。

“もう治療に通う事もない、穿刺の痛みに苦しむことも、食事制限や水分制限もない。やっとゆっくり眠れるね。”と。

もしかしたら先輩も同じことを思っていたのかもしれない。院長や看護部長からも頼りにされるくらい仕事は出来たが、決して冷たい人ではなかったし、患者さん想いの明るい人だったから、心では悲しみと安堵が入り混じって泣きそうになるのを、冷静に振舞う事で紛らわしていたのかもしれない。

死は悲しいが、透析患者さんによっては必ずしも死がイコールで絶望ではないと私は思う。

痛みから、苦しみから、恐怖から、解放されるのだから。死に近い場所は雰囲気も人も暗いと思うかもしれないが、普段の透析室は異様に明るかった。末期がんの患者さんも土色の顔でよくしゃべり笑っていたし、「僕はもうすぐ死ぬからおしりを触っても許される」と言って本当におしりを触るセクハラジジイだったが、みんな怒りながらも仕様がないな~と許していた。(私はあのセクハラジジイはきっとまだ生きててお尻を触っていると思う。)

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子育てしたい理想の場所」を探して3年前に川崎から山形へ移住し、ソーシャルビジネスを展開する社会起業家のシングルマザー。 noteの収益は、NPO法人aLkuが行う非収益事業「ひとり親支援事業」に100%充てられます。 http://npo-alku.jp/