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もっと思考力を(独り言)

「われ思う、ゆえにわれあり」

よくコメントを頂く森下さんのコメントにあった「われ思う、ゆえにわれあり」、フランス人であるデカルトのことばだ。このことばの真の意味は、人は知識のみではなく、その先にある「思考」が大事だと言うことを指している。森下さんは、私の「教育は思考力の時代へ」をデカルトのことばを引用され表現して頂いた。非常に光栄に思う。この間、「知識」と「記憶」について、その先の思考力への道筋が如何に大切かを述べてきた。長く続いた「知識は力」の時代は終わったのだろう。しかし、曲解してはならない。このことは知識が無駄であるとか、必要ないという考え方ではけしないからだ。必要ないというとらえ方こそ、思考の働かない、○か×という知識だけで判断した例であろう。和菓子などでよく使われる「あんこ」、小豆を煮て作るが、砂糖だけでは甘さを表現できない。塩をひとつまみ入れる、このひとつまみの塩が甘みを引き立たる役割を担う。これこそ思考のなせる技だろう。良いか悪いか、甘いかしょっぱいか、思考を要さない判断は大変危険だ。

最近、様々な方々からコメントを頂く。どれも教育の本質を突く鋭いコメントが多い。コメントを寄せられる方々は保護者以外に、教育者の方が多い。教育の本質である「愛」について語る方が多いのも特徴だ。教育は間違いなく「愛」が前提にあるべきだ。それは幼児教育に代表される考えであり、それから先の教育にも通じるはずだ。どの親が乳児に対し代償を求めるだろうか。赤ちゃんも、母親も、この時に「無償の愛」を互いに体験することになる。だから「教育は愛」と言われている。人生の最初に受けるのが「愛」だからだ。組織も同じだろう。愛なき組織に明日はない。何故なら「愛」こそ思考の最上位に位置するからだ。

子ども達には、沢山の本を読み聞かせなければならない。生活体験、社会体験や経験を数多く積ませなければならない。同時に、沢山のことばを彼らは身につけるべきだ。そして、力ある大人と多くを語らなければならない。私は、この年になるまで数人の素晴らしい先生方に出会えた。その中でも「出会いの師」となる方の存在は大きい。本物の存在が感じられない時代になってきた。世の中を見回して欲しい。様々なところで機械が大活躍している。レストラン、ラーメン店、工場、医療現場、教育現場、気がつけば身の回りから「プロ」がいなくなっている。機械で事足りると言わんばかりだ。教育も映像授業を例にとれば解るように、指導力のあるプロフェッショナルと呼ばれる先生の数が少なくなってきた。ただ、幼児教育や低学年指導は機械では難しい。と言うより、機械で行ってはならない。それでは機械教育であり、人間教育ではないからだ。それ以上に「愛」がない。人と人との関係をもっと真剣に考えるべきだろう。それが教育であればなおさらだ。まずは、教育。それも人間教育、心の教育でなければならない。

子ども達を指導するには、当たり前だが指導者がいる。私は教育界に身を置いてからおよそ40年になる。これから先は、多くの幼児教育者・低学年教育の指導者を育てていかなければならない。高学年指導や中高生は、高い知識と経験で指導が出来る。しかし、幼児、低学年はそれだけでは通用しない。有から指導が開始される高学年・中高生と、無から指導が始まる学習とは大きな違いがある。教育は人間が行うべき最後の仕事なのかも知れない。

2013/10/11


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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