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親の責任 「独り言」

「親の責任」

今日は、幼児教育の関係者とこれからの教育について沢山の言葉を交わしてきた。集まった方々は、教育の本質を良く理解されている。子どもの将来を見据える目線は、常に彼らの将来に焦点を当てている。

教育改革がもたらす影響は、家庭教育にも及ぶだろう。子育ては理屈で行うべきではない。しかし、育児書を頼りにする子育ては、まるで無機質な血の通わない子育てとなる。3歳までに、親は何を教えるべきか改めて考える時がきているように思う。幼児を持つ親は、誰もが必ず「優しい子」になって欲しいと願う。では、優しいとは何か?するとなかなか具体的に出てこない。優しさとは、人の心の痛みも理解できることであり、自分自身が相手の立場に立って考えられるかどうかできまる。アンパンマンの生みの親「やなせたかし先生」は、人のためを思って行動しても、それは必ずしも相手が喜んでくれるとは限らない、そればかりか自分自身が傷つく事もあると説いた。それが優しさなのだ。それでも人に優しくできるのか、それが問われる。だからその為に人はより高い知性を持たなければならない。理性は知性の一部だからだ。だから幼くして学ぶ事が求められるのだ。

「親の責任」最近、この言葉が何と軽々しく使われることか。自分自身がマスコミに登場する事が増えてきた。だから余計感じることなのかも知れないが、親と子の関係は、理屈でははかれない。私も60を過ぎた、しかし、92歳の母から見れば兄弟の中で末っ子の子どもなのだ。目の手術をすると言えば心配し、それもここに来て痴呆も出てきているにもかかわらず、手術の日を覚えている。テレビに出れば嬉しがる。親とはそういうものだ。その母を見送るの日も近い。だからこそ親子の絆を至る所で感じる。なぜ、我が国のマスコミはよってたかって「親の責任」を問うのだろうか。それが有名人だからか。犯罪を犯した子、それを詫びる親、ただそれだけのことだ。親の責任として何を期待するのか、私たちが芸能人の涙や謝罪のことばを期待しているからなのか。それはあまりにも居丈高の論理だ。今回の事件、親子はいつまで経っても親子であり年齢は関係ない。あるのは親子の関係と、被害者に対し、また、息子の勤める会社に心から詫びるという親の愛だ。かつて、この崇高な愛を、我が子に何の代書も求めない「無償の愛」と呼んだ。このことばはもはや死語なのか。

ある刑事ドラマがある。親子の間に問題を起こした2組の親子関係をテーマにしたものだった。一組の親子は母が死に、次第に父子の関係はぎくしゃくする。互いに自分のことを理解してくれていると錯覚する。それが窃盗事件を境に、父親が息子の心の扉に近づいていく。一方、もう一組の親子は、小学生を殴り意識不明にさせた有力者を父に持つ子(成人)と父親の薄っぺらな関係を描く。事件を起こせば親が自分の方を向いてくれると短絡的な発想が動機だった子。そして、逮捕後、罪を問われると気づき、彼ら親子は互いの将来についてどうしたら良いかを口にする。しかし、そこで刑事の発する言葉が的を射ている。「何故、一番最初に案じるのが被害者の女の子ではないんだ!」と。

帰りの地下鉄で、無言で狭い通路に入り込む人が後を絶たない。「済みません」「通ります」など遂に一人も発しなかった。若者も、年配者も、女性も男性も。ぶつかっても、そこにいるおまえが悪いんだと言わんばかりに。自分のことしか考えられないのだろう。いつの間にか今の日本社会は、人の事を考えない、人の立場になって考える事が出来ない人達で埋め尽くされている。だから、よってたかって一組の芸能人の親子をつるし上げることで自己満足している。会見も、質問する方々は何を求めているのか解らない。当然、応える側にも同じ事が言える。先の有名ホテルの社長同様、言葉に重みがない。ことばを軽んじる傾向は会見場ずっと続いた。そしてまだ続く。「誤表示」と声だかに明言したホテル社長は、代表たる社長自らことばの意味さえ理解していない事を露呈してしまった。世間ではその事を偽装、そして詐欺という。

親子の会話が少なくなり、互いにことばを交わすより、スマホに夢中だ。ことばは何を伝えるためのものか、人が人として成長し、人との間に立てたとき、人から人間へと成長する。幼児教育者は改めてこの事を自分自身に問いかけなければならない。前を向いて。

今日は、申し訳ありません。頭の中に伝えたいことあふれ出てきて、まとまりのない内容になりました。

2013/10/28


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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