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私はこう思う!「独り言」

「幼児教育は是か非か?」

私は、独立する前、新設された幼児教育の顧問としてハンティングされた。その前は、故水野茂一先生が率いる東京こども教育センターという幼児教育専門の教室でおよそ20数年間、指導と研究をさせて頂いていた。この20数年が、今の私を育ててくれたと感謝している。水野先生を中心として、数多くの研修会が行われた。発声発音の大切さを身をもって学ぶことができた研修では、何とプロのアナウンサーを招き行った。現在、当研究所の指導プリントは、この発声発音指導を基本とし、幼児が間違いやすい、促音、長音、拗音の指導を行っている。また、言語教育をとても大切だと考えられていた水野先生は、「かな文字の教え方」須田 清著(麦書房)に音節指導が重要であること共感され、当時の国語指導(小学校)の先生方と共に単語の発音指導に「音節」指導を取り入れられた。今でも、この指導は全国で行われており、・や○、◎、-などで音節が表されている。

また、当初から数指導について興味を持っていた私は、算数教材製作の際、水道方式の指導法研究に没頭していた。そこで、職員全員の研修をするよう水野先生から依頼され、「幼児の算数」を遠山啓先生と共に書かれた栗原九十朗先生をお招きし、月1回の研修が1年間続いた。水野先生は、代表、つまり社長ではあるが、根っからの先生であった。必要だと思われる研修は数多く行われた。どの研修も講師は皆プロフェッショナルであった。当然、先生方のレベルは高くなった。水野先生が亡くなられた今でも、規模は多少縮小されたが、お嬢さんが水野イズムを継承されている。私たち、教師にとって研修は生命線だ。常に学ぶ姿勢を保つ必要がある。鋭い子ども達はそれを見抜いてしまう。自己研鑽に励むことなど当然のことだと水野先生に叩き込まれた。

数年前になるが、週刊文春に、私の良く知る幼児教室の批判記事が掲載された。同時に、様々な方からコメントを求められた。その先生とは面識もあり、同じ幼児教育の団体で活動をさせて頂いていた。そのときのコメントは、残念ながら週刊紙の記事に同感であると答えざる終えなかった。右脳教育が叫ばれる前から、水野先生に大脳生理学、神経生理学の文献をよく読んでおくように言われていた。同時に、認知心理学も学ぶようにと。幼児教育をまじめに取り組まれていた水野先生だけに、先を見る力は凄かった。同時に幼児の運動にも重要性を感じられていた。ただ、音楽だけは、ご自身が苦手だったのか、必要性は語られてもそれ以上には至らなかった。一連の指示は、今後予想される、脳科学と教育の融合について、幼児教育の本質を、教育というものの本質を見誤るなという教えであった。

では、なぜ文春の記事に同調したのか、それは、その幼児教育自体が子どもを見世物のように扱い、マスコミに垂れ流していたからだ。教育はパフォーマンスではない。特に幼児教育はそうだ。また、水野先生も私も教育の現場で子ども達と接する教師であって、脳科学者ではないことを前提としていた。つまり、「右脳が開く」という表現があるが、それは誰の言葉なのかが問題なのだ。少なくとも教育者の言葉ではない。私は、当時行っていたフラッシュカードが、批判対象の幼児教育と同等に見られていたことに強い憤りを感じていた。また、幼児教育をまじめに取り組んできた自分にとって、こんな形で同じように見られること、幼児教育がまた偏見の目で見られることに我慢がならなかった。悔しかった。

人間の能力には才能逓減の法則が働くこともある。だから幼児期から学ばせる。これは正論だ。しかし、幼児期は、まず「心」を養うことが最も大切なことだ。沢山遊び、身体を動かし、絵本を沢山読んで貰い、何より親子間のコミュニケーションを作り上げることが優先されなければならない。また、人間には、「遅咲き」「大器晩成」という言葉があるように、急に伸びる時がある。これこそ、先の「心」を養うことから生じることだ。意識を持って望めば、人間の能力は思った以上に高まる。だから幼児期が大切であり、心を作る「ことば」の獲得の為に行われるのが幼児教育だと思う。その為の「ことば」であり「かず」であり「ちえ」なのだ。

最近、コメントの中に厳しいご批判を頂いている。私の教育観はぶれることはない。今年度、私の行う先生方への研修は3月以降行っていない。内部ではしっかり研修が行われていると思う。ある方が仰っていた。このブログが学びの場「ブログ大学」であると。嬉しいお言葉に感謝の気持で一杯である。直接の研修は遠のいているが、自己研鑽はどこでもできる。
先生方はきっと努力されている筈だ。

2013/11/1


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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