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独り言-未成熟な教育

「学校で何が起きているのか?」

佐賀県で中学1年生の男子が「いじめ」を受け、70万円も脅し取られたという。殴る蹴るという暴力、更に金銭を脅し取る、刑事罰、民事罰に相当する行為が昨年4月から行われていたという。これ自体が異様で異常な状態であったはず、保護者が少年のアザなどに気づかなければと思うと背筋が寒くなる。学校は本来学問を学ぶところであるが、このようなことを真顔で言うと馬鹿にされる世の中になってる。

昨年の4月からいじめが始まったと言うことは、小学校を卒業した翌る月だ。労働の対価として手にする金銭であるが、この当たり前の考え方も今は通用しないのか。幼くして、楽に金銭や物を手にすることを覚えた彼ら
の将来が見えてくる。今回の件は、親の機転で少年の命は救えた。しかし、身体だけでなく心に残った傷は癒えることはないだろう。罪を犯した(敢えて言わせて頂く)中学1年生は十数名にのぼる。ここでも学校は犯罪者を送り出すことになった。しかし、いくら学校自体が隠蔽体質を持っていたとしても、4月から始まったこのいじめは、学校側だけの責任してよいのだろうか。被害者側の保護者は出てくるが、加害者側の保護者が出てこない。この問題をそのままにすると学校側に責任が課せられるだろう。勿論、学校側の責任はある。今の日本社会は、問題の分析や根絶よりも、だれの責任なのか、だれが責任をとるのかに偏る傾向にある。一人に責任をなすりつけるか、知らん顔を決めつけるかだ。この問題は対岸の火事ではない。

いじめ、暴力、蔑みは日常化している。テレビのバラエティーでは、この3つを除くと学芸会以下となる。CMも、父親を馬鹿にするもの、教育関係のCMでも馬車から振り落とさせるという驚きの内容もある。暴力を振るい、人を馬鹿にしなければ笑いにできないほど、私たち自身も低脳化しているのではないだろうか。絆・おもいやり、震災後あれだけ交わされてきたこのことばが空しく聞こえてくる。表面的な、そしてことばだけの改革では意味がない。罪を犯した少年達の責任者は両親、保護者である。学校という場で起きた事件だが、それ以前の、子育てに大きな問題があったのではないだろうか。学校の責任は、この事件を把握できなかったことだ。早期に発見し、その対策を行わなければならない責務を学校は負っている。勇気が必要なのだ。学校も、親も、いじめていた少年達も勇気が必要なのだ。

子育ての商業化が進めば進むほど、真の子育てを家庭に戻さなければならない。このままでは、まだまだ被害者がでるだろう。いじめがあるということを認識したならば、勇気を持って人に伝え、勇気をもって公開し、勇気を持って意見しなければならない。それだけ、この問題の奥は深い。皆で真剣に討議し、真剣に悩むべき課題だと思う。決して評論で終わらせてはならないと自身に問うた。

2013/3/21


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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