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「必要なことばの獲得」

子ども達と会話してみると、彼らの表現方法に繊細さがなくなってきたように思います。繊細さだけでなく、元々曖昧な表現をする日本語ですが、更にその曖昧さを増しているように感じます。「やばい」、あまり良いことばとは言えないものですが、このことばにも場面を変えると、「凄く良い」という意味になったり、「これはまずい」という意味にもなり、ことばだけでは判断できない曖昧さを持っています。

最近、子ども達から相談を受けることが多くなりました。しかし、いざ話そうとしても彼らは表現したいこと、言いたいことを具体的に話す為の「ことば」が見つからないのです。彼らは、話の中で次第に無口になっていきます。そこから脱してくると、断片的でも途切れ途切れに話が始まります。そして、ここには共通した問題があるのです。それがコミュニケーションです。友達と話せない。グループの中に入っていけない。自分の想いを伝えられない。このような状況は決して一部分の子ども達ではありません。聞き役に徹したいのですが、年齢が高くなるにつれ想いが錯綜するのか、想いを伝えることばが出てきません。聞き手には待つという気持の上でゆとりが必要になります。現代社会では、人間対人間という、生の会話が少なくなり携帯のメールやスマホを介した、未熟な人間関係が主流となっている状況に、これからの子ども達の苦悩が予想されます。

人は、人と人を繋ぐコミュニケーションとして「ことば」を持てるだけの知能を得ました。そして、そのことばを使い、人と人の間に立てる人間となったのです。これから教育を語る前に、子ども達にはこのコミュニケーションの大切さを伝え導く必要があるでしょう。携帯端末はコミュニケーションのツールにはなりません。人と人のコミュケーションは、直に接することで生まれるのです。極端な言い方をすれば、信用を落としている教育委員会・学校関係者、そして私たちも含めて、情報操作や隠蔽など、自己防衛に走る前に子ども達にスマホなどの使用禁止、購入禁止をさせる決断と勇気が必要なのかも知れません。

子ども達には、幼児期から低学年まで、綺麗で、丁寧なことばのシャワーを沢山浴びせましょう。語りかけ、絵本読み、フラッシュカード、書写、聴写、辞書引き、音読、読書、そして会話、保護者や教師は良き「聞き手」になる事が大切です。ことばばや知識は記憶の中にとどめておくのではなく、使うことが大切です。いままでフラッシュカードなどは知識をインプットするための指導法をとってきました。アウトプットのない指導はあり得ません。幼児期、3歳前後から始まる質問の嵐は、子どもが迎えた知的発達の序章です。その間の情報や刺激が脳を満たしあふれ始めてきたのです。その知的好奇心の目覚めを活かすのが、会話です。そして思考を促す会話です。

その後、子ども達は自身で学び始めます。正しいことば、丁寧なことばは子ども達の心をそのことばで満たしていきます。心はことばで作られる。汚く、汚れたことばを使い子ども達を育てていけば、そのことば通りの心を持ちます。幼児だから汚いことばを浴びせても解らないだろう、などと思ってはいけません。汚いことばには汚いことばの持つ感覚的印象があるのです。幼児はそれを敏感に感じ取ります。

小学生になると、「学ぶ」という知的行為を変化させていく必要があります。いつまでも「学ぶ」ではないのです。ここに、幼児教育から小学生への経験が活かされるのです。これは、小学1年生からでも遅くはありません。できれば、小学2年生までにしっかりとした学習体制を整えるべきでしょう。その変化とは、「知る」ということです。今まで受け身だった学習を、能動的な学習に変えることです。「知る」という学習行為を最大限引き上げるのが「調べる」です。その入り口が辞書引きです。辞書引きには、その手前の学習に「ひらがな五十音表」の学習が必要です。ひらがなの並びを学ぶのです。最近、この「ひらがな五十音表」の指導を怠っているように感じます。学習には、指導の系統性が必要です。大切な基礎指導を省く傾向には”大喝”を入れなければなりません。”張りぼて!の知識は不要です。また、辞書指導では、辞書を使う目的をしっかり伝えなければなりません。そして、「調べる」という学習行為は、辞書から他へと目が向けられていきます。

2013/9/12


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

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