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読書は深部の能力を鍛える

「読む事」

最も美しい文章を書くと言われた故三島由紀夫、かれは、ノーベル文学賞を受賞した川端康成を師と仰いでいた。三島文学は当時から難しく読破しにくいと言われていた。「文化防衛論」は昭和太平の時代にもの申す内容ではなかったかと記憶している。私も学生時代読んだが、当時学生が読む本は今とはかなり違っていたように思う。活字離れが起こると同時に、書物に書かれている文章も解りやすくなってきた。週刊紙は、解りやすい文章でなければ読んでもらえない時代へと変化していったのだ。国語で習うべき「読む」、この学習自体にも変化が出てきた。

ここで、学ぶと言う事の本質を考える必要がある。学ぶというのは、既に知っていることを学ぶのではない。未知のことについて学ぶことを指している。幼児教育を行っていると、「幼児に文字や数を教えるとは何事か」とお叱りを受けることがある。しかし、人は、何も教えられず放っておかれると話すことも書くこともできなくなる。未知の事柄について学ぶ、当たり前の様だが意外と理解されていないことだ。すると、簡単で誰でも理解出来る文章で何が学べるのかと言うことになる。そのままでは、「解るものは読めるが、解らないものは読めない」という事になってしまう。幼児で、文字を習うのは必然の学習だ。聞いて覚えることばだけでなく、見て、読んで学ぶことばもある。こうして、未知なることばや事柄を学ぶ下地ができていく。これを基礎学力という。幼児に文字を伝え教えると言うことは、彼らが学ぶ為の下地をつけさせる、いわば大人の責任とも言えるのではないだろうか。

読書とは「未知を読む」が正しいのだろう。ところが、私達指導者も含めて、我々は既知を読んで、ものが読める」と思っているのではないだろうか。つまり読んでいると錯覚しているのではないだろうか。すると、読みには低次元の読みと高次元の読みが存在することになる。未知の読書は間違いなく難しい。だから学習というものが成り立つ。学生が、哲学書や専門書から漫画を堂々と読むようになって久しいが、それは、既知なる内容で楽に読めるからだ。難しい文章表現やことばの引用で頭を悩ます必要がない。それでは新たな語彙は増えない。低次元の読みとなってしまう。教科書に出てくる文章はどちらかというと難しい内容が多い。だから国語学習として成り立っている。

今、私達は幼児期から漢字学習指導を試みている。子ども達が進んで本を読めるようになるには、文字の習得が必要になる。年中終了までに仮名文字が読めるようにすることが年中教育における目標の一つとなっている。読むための指導には工夫が必要だ。仮名は音声記号だ。そこで音数指導の重要性が語られるようになってきた。仮名文字指導で知られる、須田清先生、水野茂一先生など、私立小学校の先生も加わり、解りやすい音数指導が展開された。対する漢字は書記記号と呼ばれている。

外国の方が、日本画が難しいというのはここにある。日本語を読むには欧米の読みとは異なった知的作業が求められる。

こうした背景を考えると、音読ができてもそれは読んだことにはならない。読むことの本質は、未知を読む事で、ことばの理解を通し、内容を読み取る事にある。だから、辞書引きが必要な学習となる。昔の子ども達は、意味理解の手前で「素読」を行っていた。それは、聞く耳を鍛えていたのだ。聞かなければ読めない。この学習が、必然的に姿勢を正し、しっかり先生の方を向くという学習姿勢を自然の形で作り上げていった。同時に、その姿勢は、文字を書くときにも活かされ、美しい文字は正しい姿勢からと語り継がれてきた。

読書は、間違いなく学習の基本という位置にある。それは、学ぶことに関係する「見る」「聞く」「書く」「読む」とそれぞれが関連した大きな力となる。未知を知る、単なる知識ではなく自ら読み取るという高次元な読み方を行った結果の成果となる。それが、子どもの深部にある知的な力となっていく。

2014/2/21


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川先生監修!

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