独り言-未成熟な教育
「学校で何が起きているのか?」
あれだけ騒がれた体罰問題が話題に上らなくなってきた。問題は解決されたのだろうか。体罰問題を分析してみると、主従関係にあることがわかる。すると、教育という世界も主従関係になってしまうのだろうか。
17年前に撮影されたビデオが手元に届いた。そこには40代の私が映っていた。沖縄で行われた研修会だった。ここから、塾の先生方対象が始まり、全国を飛び回った。幼児教育という立場から話をさせて頂いた。教育というものの原点を先生方に語っている私がいた。今日の状況を予想してもいた。そこで、思い出したことばがある「恐怖のモチベーション」、これからの時代にそぐわない古い体質の指導は考え直す必要があると明言していた。体罰はまさしく「恐怖のモチベーション」だ。指導とは相手を恐怖の中に押し込み従わせるものではない。個人的実力はあっても、人として未成熟な者が人を相手に指導などすべきではない。恐怖のモチベーションに誘い込むのは対象相手が違う。人はただの動物ではない。ホモサピエンス=知性を持った人なのだ。
中学生が学校でガムを噛んでいた。学校ではガムを噛むことは禁止されている。生徒は、この決まりを破ってしまった。すると、学校側は、これを生徒全体の問題とした。つまり全校生徒の連帯責任であるとした。時同じく、卒業式で待機していた2年生の一部男子が騒ぎ、問題を起こした。それが同じ部活の生徒であったため、関係のない1年生も責任をとらされたという。ここでも連帯責任という処罰(?)が言い渡される、どちらも同じ学校だ。一人のファウルに、チーム全員がイエローカードろ切られた。中学生から、数年前からこのような話をよく聞く。いずれにせよ、問題を起こす生徒は、個人指導が必要になる。生徒全員にも注意を促すこと、決まりを守ることは十分に伝えなければならない。ただ、一人一人に伝える努力は必要だ。全員に注意を与えているようで、個人には届かない場合が多いからだ。この教育的行為を指導という。勿論、当然のこととして家庭の協力を得られなければならない。では、学校として何を子ども達に指導すべきなのか。連帯責任という意味をどう捕らえているのだろうか。子ども達が引き受けてなすべき任務とは何か、負担とは何か、責任ということばの意味と、内容を具体的に示してあげることが指導であり、学校のなすべき任務、責任ではないだろうか。先の連帯責任とは主従関係で無理矢理押しつけた感が強い。未成熟な社会は、私たちも含めた未成熟な教育環境から生まれる。
責任は生徒の保護者側にも向けられなければならない。このとき、それぞれの責務の内容が違うことに注視すべきだ。それぞれの責任を全うしてこそ子どもの成長がある。子育ての商業化が叫ばれて久しいが、それは親としての責任を回避することではない。親としての責務は一生ついて回る。先の問題に関して連帯責任とはまさに学校側の責任回避、指導回避ではないだろうか。そうやって子ども達が大人の行動に不信感を募らせていくのだ。
子ども達は、こうして宙ぶらりんの立場に置かれていく。正論を言っても、主従関係がある以上相手にはされない。内容は違えど、今まで数多くの話を聞いてきた。勿論子ども達側が全て正しく、学校側に問題があるわけではない。それを差し引いても、第三者でこの話に耳を傾けていると、未成熟な大人達の姿が見えてくる。それが教育者であることが悲しい。
2013/3/20
著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫
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