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理解できないときもある

理解できないときもある(説明できないときもある)


映画「怪物」を観た。主人公の母親早織(安藤サクラ)は小学校5年生の息子湊(みなと)のことが理解できなくて苦しむ。息子の行動、息子の発言。髪の毛を自分でぼろぼろに切ってしまったり、走行中の車から突然飛び降りたり。息子の脳を調べたくて(何が原因なのかわかりたくて)病院で精密検査まで受ける。理解したいのに理解できない。苦しい。学校の対応の謎も相まって、早織から見える景色の不可解さに私たち観客も飲み込まれていく。

でも湊には湊なりの理由がある。走行中の車から突然飛び降りたことも、雨がザーザー降る夜に森の中のトンネルに一人居たことも。すべてちゃんと理由がある。でも、それを説明できない。うまく説明できない。説明する巧みな言葉を持っていない。そして、仮に説明できたとしても、きっとわかってもらえない・・・。

人間は多くの場合その人の中ではきっといろいろなものが統合されていて、その人なりの理由がちゃんとある。直感と論理の両方でものごとを判断・選択していて、意識・無意識の両方でそれなりにちゃんと理由がある。うまく説明できる時とできない時があるけど、仮に言葉にして説明できなかったとしても、自分の中ではわかっていて辻褄が合っている。そして、それが他者から理解されないときがある・・・。

映画はそれぞれの登場人物の立場から物語を描くことで、それぞれの気持ちや行動の理由を明らかにしていく。それぞれの登場人物には本人なりのちゃんとした理由があり、私たち観客はどんどん安心していく。湊くんは言葉で説明できないけど、映画が代わりに描写して説明してくれて、私たち観客は理解できて安心する。でも現実ではそんなふうに誰かが代わりにまわりにわかるように説明をしてくれない。

説明できないときもある。説明してもうまくわかってもらえないときもある。そういうときがある。そういうことがある。いいじゃないか。説明できなくても。

そして、いいじゃないか、理解できなくても。そういうことってたくさんあるじゃないか。わかろうとすることを少しだけ放棄できないだろうか。

好きだから、大切な存在だから、理解したいという気持ちになるのが人間の自然な性質だと思う。理解したい。わかりたい。でも、「理解したい」「わかりたい」は誰かにとってはときに暴力になる。うまく言葉を持てないときに「わからない」と言われること。説明をしてみたのに「わからない」と言われたり、そんな顔をされること。その刃は心をえぐって、もう説明することも、理解されようとすることもやめたくなる。この世の中とうまくやっていくことすらもやめたくなる。

理解できないときもある。説明できないときもある。「理解したい」「わかりたい」という欲求を少しだけリリースして、「わからないけど、まあいっか」とそれでも一緒に居られる方法はあると思う。恋人同士も、夫婦も、親子も、職場も、地域も、コミュニティも。

力を発揮できていないかもしれないリーダーへ


市民活動・コミュニティ活動で力を失っているかもしれないリーダーへ。
まだまだ十分に自分らしく力を発揮できていないかもしれないあなたへ。

理解されなくたっていい。理解されようと思うと萎縮する。理解されるというところに向かって生き過ぎると、自分がどんどん曲がったり、縮んだり、無くなったりしていく。理解されなくてもいい。自分が信じたことをやればいい。きっとあなたを待っている人がいる。

説明できなくたっていい。もし説明にパワーがかかり過ぎて疲れているのなら、メンバー編成・メンバー構成が違うのかもしれない。中心で一緒に神輿を担ぐようなメンバーは、本来理解と共感にさほど時間のかからないメンバーのはずだ。そういうメンバーを中心に置かないと団体・組織は推進力が出ない。思い切って変えないといけないかもしれない。あるいは新たに編成する必要があるかもしれない。

「説明」と「理解」の呪縛に囚われて身動きが取れなくなっているとするならば、自分を解き放ってあげたい。説明できないときもある、理解できないときもある。それでも目をつむって前に進んでほしい。前に進んだら意外に理解が追いついてくることだってある。今は再構築・再起動のとき。いつでも応援しています。共にがんばりましょう。

by CRファクトリー 呉 哲煥

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