Ofrenda FEB/2020

2020年2月1日土曜日

絵とか彫刻とか美術というくくりのテーマを話してると、そういうものにいつ頃から触れていたのかなと思い始めた。記憶を遡る。高校生、中学生、まるで記憶なし。小学生、百科事典に載ってたシャルダンの静物画に惹きつけられた。今目の前にはないはずのものが目の前にあるような不思議な感覚だった。

目の前にはないもの。なのにちゃんとここに実在してるかのように見えている。手に触れることができる実在のものを卓越した技術で触ることができそうなほど見事に写しとっている。さらに百科事典に転写されているのだから本物の絵画はもっと格段に驚き何だろうけど、子供の時の自分はこれでも十分。

テーブルに乗った果物や食器の静物画を魔法のように何度も何度も繰り返し凝視していたことを記憶している。今このシャルダンの絵画を見ると、のっぺり情報だけを写した写真のような絵画ではないことがわかる。人の手が人の感覚を揺さぶって、実物を実物以上のものにしている。


2020年2月2日日曜日

何十年かぶりに見てもやっぱり魔法のように見える。目という装置はたくさんの世界の情報を捉えているはずなのだけど、意識は必要とするものだけをクローズアップ!!みたいに取捨選択している。だからベタに写し取られた写真は、実は自分で見ていると思っている世界のイメージとちょっと違う。

シャルダンの静物画はモチーフは写真のように精密に描かれている。でも人間の感覚のように必要な情報と特に必要じゃない情報が取捨選択されていると思う。主役級のモチーフは写真以上のリアルさなんだけど、背景的なものはもさっとしてる。そのコントラストが魔法のような印象を与えてくれる。

シャルダンに限らず静物画というものは主題みたいなもの、物語性とか、主張とか、メッセージ性とかが希薄なので、絵画を見る側じゃなくて、絵画を描く側の習作のような印象がある。さて美術館に行こうかと気負ってる時に静物画の展覧会をわざわざ選んでいくこと。自分はほぼないかな。

ところが、試しに「静物画」ってgoogleで画像検索してみて。目の前に広がるアナザーワールド。風景というにはあまりにも狭い世界なんだけど、自分の目とか耳のような身体装置が捉えている世界に立ち上がる別の世界の窓があちこちに開かれている。まさに静かな物の絵なんだけど妙に心がざわつく。
有名だとか無名だとかそういうカテゴライズ外して、テーブルピクチャー展みたいな展示会あったらぜひ見に行きたいな。面白そう。普段は全然興味もない静物画。子供の頃の記憶たどってたらめちゃ興味湧いて行きた。リアルな日常にぽっかり空いてる異界への入り口。逃げ込む世界はこんな所にも。


2020年2月3日月曜日

シャルダンの絵画を百科事典で眺めていた記憶から絵画とか美術に関する思い出みたいなのは全くないの今思うとすごい。花屋でバイトするまでかすみ草の存在も知らなかった。そのぐらいすごい。高校生から大学に入るまでの間に本が大きく自分に関わっていた。そこまで美術への関心がなかった。

見て関心が始まったんじゃなく、読んで始まった関心。美しい色や激しい描線にやられたんじゃなくて、物語から絵画の世界へと入っていたんだ。サマセット・モーム「月と六ペンス」。今思えば自分の人生を変えてしまったぐらいの本じゃないかと思う。バリ島のこと喋くってるのも大元はこの本の延長。

ゴーギャンと南の島への憧れがここから始まった。絵を描く人の有様と執念に心掴まれ、タヒチという南国に楽園という逃げ込む場所を意識させられた。ゴーギャンの絵画を実際に見る前にたくさんの妄想を抱いたし、書籍等でその複製を視覚的には十分に体験できた。でも、本物の絵画を目前に絶句した。
自分は絵なんか人に観賞してもらうことを前提に描いたことなんてなかったんだけど。画家という人の絵というものはキャンバスや紙に描かれていて額にちゃんとはめ込まれているものだと思っていた。なのにゴーギャンはそういう枠を超えていた。「月と六ペンス」で感じた人物と思いっきりかぶっていた。

2020年2月4日火曜日

絵しか見ていないのにそれを描いた人のことまでわかる?。100パーセント画家の人生やら世界観なんて共有することはできな確かにできない。でも、こんな布の切れ端に叩きつけられる様に塗られた絵の具。追われた人間の断末魔のように残された身体の痕跡。モームの文字列が目の前に現れる。

「フランダースの犬」のような感動的ドラマを付加されたゴッホやゴーギャンのような美の巨匠は作品自体も強力な力を持っているのだけれど。物語性を帯びることによって放たれているオーラも大きいと思う。純粋に美を追求した果てに非業の最期を遂げる美の殉教者みたいなイメージで作品も自走する。

絵画や美術が生み出す価値や経済。人と人がやり取りする価値や経済。世界を保っている理念。正しい人が常に持ち出す理念。そこからはみ出した画家に付け加えられた物語性。それがブレイクして莫大な価値として流通している絵画。制作した当人は他者の中で成長し作り上げられる。今も存在し続ける。


2020年2月5日水曜日

ウィンウィンみたいな感覚味わうこともなく、悲しくジ・エンドしたゴーギャンのドラマ。ゴーギャンという主体は幸福だったのかな?。豊かな生活できずに死んでしまって不幸だったのか?。それとも絵を描き続けることができて本望だったのか?。そんなことわかるはずもないし、わかりたくもない。

でもハーピーエンドじゃ世界は許してくれないよね。他人の不幸は価値を生み出すし、人をハッピーにする。あー、自分は平凡でよかった。平和で穏やかに暮らせればそれが幸せ。支配者にしても労せずに言うこと聞かせるにはこういう空気は歓迎だものね。ゴーギャンの悲劇は世界平和に貢献している?。

独りよがりの極論語ってるな。飛ばすな飛ばすな!ってところだけど。でっかい美術館でたくさんの観客を動員する展覧会ってこういうものが多い。平和で豊かさを実感しに多くの人が殺到する。アートって何?。っていうか、そういう葛藤しにみんなは出かけてお金払うわけじゃない。


2020年2月6日木曜日

ジャニーズのコンサートに行くみたいに多くの人と自分は同じ感性なんだ!!って確認するために人が殺到する。共感する人が周りにたくさんいる>みんな味方だ>ここは平和だ。本当にそうかな?。一人でも異分子がいたら「みんな」という概念は崩壊するし。自分は異分子かもしれんない。

そしたらね。「みんな」からはじき出されちゃうよ。それより以前に「みんな」の中にカウントもされていないはずだ。「みんなはそう言ってる」「みんなが幸せに暮らせる」「みんなが望んでる」>>>「社会はそう言ってる」「日本人が幸せに暮らせる」「世界が望んでる」。

「みんな」は「社会」「日本人」「世界」こういう言葉に簡単に置換される。「個性を大切に」と謳ってるくせに不審者を常に意識して探したり、出る杭を炎上させる正しい人たち。対峙していると足踏ん張る大地ごと持ってかれそうになるから、とりあえず闇に逃げ込む。ゴーギャンの世界は逃げ込み先。
ところが。価値を生み出すゴーギャンのドラマ。美術が生み出す経済にちゃんと自分も一役買ってるわけで。「みんな」という概念から逃げ出そうともがいてるくせに「みんな」の中にいる自分を「みんな」の中に自分をひきづりこもうと必死だったりする。超意識過剰のめんどくさい自我。


2020年2月7日金曜日

純粋にゴーギャンの絵画もドラマも楽しむことはもうできないのだけれど、今さらと思って「ゴーギャン」「ノアノア」と画像検索してみた。「ノアノア」とはゴーギャンがタヒチで残した絵日記みたいなもの。この本。部屋のどこかにあるはずなのだが、深い深い混沌の中に堕ちてしまってるらしい。
検索結果のモニター画面。たくさんの刺激的な意匠や色彩。初めてゴーギャンに出会った時の瑞々しい感動にやられる。岩波文庫の「ノアノア」。部屋の中から探りあてるのなんて待ってられない衝動。新しいの買いに行くか?。ゴーギャンが「みんな」から逸脱して逃げ込んだ絵画と南の島。

そのドラマに自分をすり合わせて自分も逃げる算段。でも散々思い知ってること再び繰り返すのかとも逡巡。多分、諸々の感動や衝動と一緒に引き出しに放り込んで。検索結果を栞としてとどめておくことになるんだと思う。この栞がいつか何かの助けになってくれることがきっとあると思うし。


2020年2月8日土曜日

今日は姪の卒展に出かけてこようと思っている。もう大学生もおしまいか。この前入学しばっかりの気がしていた。これからどんな制作して行くのかな?。どんな作品や作家と出会うのかな?。と。色々と楽しみにしてたけど。話もろくに聞くこともなく。もう卒業の時期になってしまった。

どんな作品を見せてくれるのかな?。一度も彼女の作品を見る機会がなかったので楽しみだなあ。自分の大学の生活振り返っちゃう。一言で言うと楽しかったな。バイトも遊びも自分の思った通りにできるし、生活の心配はまずないし。親があくせく働いたお金でのうのうと暮らしていたからね。

自分は美術の大学に行ってたわけじゃないけど。音楽と美術には相当侵されていた。大学生活は楽しかったとか言ってるわりに、ウィーンの世紀末という闇文化にズッポリはまってた。音楽>シェーンベルク、マーラー、ヴェーベルン。書籍>フロイト、ウィトゲンシュタイン。絵画>クリムト、シーレ。

2020年2月9日日曜日

エゴンシーレという美術家がゴーギャンに続く自分に続くスターアイコンになった。鎌倉の県立近代美術館でエゴンシーレの展覧会に大した思いもなく出かけた。印象派とかゴッホとかゴーギャンみたいなのとは相当毛色の違う絵画。絵の具が濃密に塗りたくられている表現方法とはかけ離れている。

これも絵なのか?。って率直な感想。描かれているモチーフに畏怖するのはそれより後。こんなのだったら自分も描ける。思いっきりの勘違いなのだけど。自分も描けるというトリガーを引いてくれた素晴らしい展覧会に興奮したものだった。その当時時代を席巻していたニューペインティングもしかり。
それと時代の寵児バスキアとかも同じ。これなら自分もできるって信じ込んでクリエイトのスイッチが押された人はたくさんいたはずだ。ヘタウマって概念は絵画表現だけじゃなくて広告のコピーやピコピコの電子音楽とかたくさんのジャンルを横断していた。


2020年2月10日月曜日

これなら自分もできると思わせるような作品って本当はめちゃくちゃクオリティが高くて、真似事っぽいものはできるけれど。モチーフがやけに深かったり、作業過程はめちゃくちゃ緻密だったり。そういうことを探ることの大切さとか苦しさなんて一ミリも触れずに物作りとかの世界で遊んでいただけ。
その頃は現実世界に違和感ありありでそこからから逃げ出すとか、自由になりたいとかちょっと感じることもあったけど、本当に追い込まれてたわけではない。その違和感を表現にまで昇華できる力なんて全然なかった。今もそれは同じなのだけど。それに気づくことはできたからね。まいっか。生きてるし。

今も時々エゴンシーレに触れることがあるのがけど、何度見ても彼の描く線にはヒリヒリする。孤独に篭ってヒソヒソと線を引いているイメージだけど、見るものの心を射止めるのは描かれている人の視線なんだ。彼は自己の中で作品を完結しているわけではない。モデルとなっている人と対峙している。


2020年2月11日火曜日

エゴンシーレのモデル。他者であったり。自分であったり。他者の中に自分を見たり。自分の中に他者を見たり。他者のモチーフには人間ではないものも含まれている。建物。花。木。「ウィーンの世紀末」なんていう企画展のタイトルみたいなフィルター越しに捉えると、芸術の求道者のように思えちゃう。

完全武装した自分の領分から冷徹な視線で世界を見つめてるようにも見える。だけど。意外と世界に存在してる諸々とうまいこと混じり合って、モチーフに瑞々しい息吹を享受してたんじゃなのかなとも思う。それとエゴンシーレの絵画の魅力というと。人間の身体の表現。肉。骨。手。足。顔の表情。

人間の肉体にはこういう可能性もあるのかと気づかされる。驚かされる。これはバリ島のダンスのとこでも書いたけど。日常生活では意識されていない誇張された手振りや目の動き。それはピエロのように周りの視線を引きつける。そして。日常の緩んだ空気を一気に緊張させて異界へ持っていく。

自画像のおどけたような表情や表情以上に表情を持たされた手の描写。絵の中の彼の視線は描いている彼を見つめ返すことなく、その背後の世界に泳いでいるような印象。世界はここだけじゃないんだよと暗示してるみたいで心をぐっと掴まれる。エゴンシーレの作品の魅力は自分の中で今もキラキラの存在。


2020年2月12日水曜日

エゴンシーレのことを書いているうちに、そういえばエゴンシーレって若くして亡くなったんだよなあって、漠然と思い起こされてきた。それも流行病で。流行病>スペイン風邪とかだったっけ?。スペイン風邪>インフルエンザ>ウィルス。。。今世界を不安に陥れてる新型ウィルスが頭にヒットする。
早速、Wikipedia。。。スペイン風邪の概要は、1918年にアメリカで発生。感染者は5億人以上。死者は5000万人から1億人。当時の世界の人口は18から20億人と推定されているために、全人類の3割近くがスペイン風邪に感染したことに。日本でも人口550万人に対し、39万人が死亡。。。とある。

今の世界観からすると信じられないような数字だけども。現在報道されているコロナウィルスのニュースを見聞きしていると。未知のもの。認識されていないもの。そういうのが突然世界に立ち現れた不安感。優秀な科学者が何とかしてくれると信じつつも、もしかしたらという恐怖からは逃れられないんだ。


2020年2月13日木曜日

知らないものに対する恐怖。無知が呼び起こす恐怖。そういう方向から考えたら。専門的知識を得るには超がいくつつくかわからないほどの努力が必要な医学の世界。その扉を開くほど切羽詰まっていないから。開ける気は毛頭ないし。そして「外国」というのは「知らない」と同義に近い。

馴染みのない外国からやってくるウィルス。もうそれだけで無闇矢鱈に怖い。自分は何も行動するつもりもないし、何を根拠に怖がってるのかも探求する気もないのに、ウィルスが伝染していくよりはるかに速いスピードで他人に恐怖を伝播させていく。

ウィルスってところで何?。と問いの引き金を引かないところが無知のままでいるところなのかな?。とにかく伝染するという面だけをクローズアップしすぎる。知らない人は怖いけど、知り合いになればちょっと安心ということになるかもしれない。で、手近で簡単な方法。検索に頼ってみようか?。

すぐにWikipediaに辿り着くよ。。「ウイルスは細胞を構成単位とせず、自己増殖はできない」「感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし病原体としてふるまうことがある」大雑把な特徴?。わかったようでわからない。抽象の極にある言葉。自己増殖はできないはずなのに、この感染る騒ぎはなんなの?。

宿主とは人間を含めた動物。植物も非生物も含まれるの?。恒常性って?。健康という意味?。ひとつひとつの疑問を解決しようとすれば、たちまち疑問が増えていくことが目に見えているので、早々に退散しておく。自分が当事者にならない限り問いのトリガーを引いてもこの有様。自分はまだ多数者側。


2020年2月14日金曜日

世界では毎日どれだけの人が亡くなっているのだろうか?。これこそ亡くなっている当人と周囲の人以外ならば、動揺もしないし、共感もしないし、まして関心なんて一ミリも抱かないだろう。なのに感染る病を発病した人。それで亡くなった人。そういう数に対しては敏感になる。自分もその通りです。

他人とは交わらない自分原理主義とかふてぶてしくむくんだことを頭に抱えてるくせに結局はね、こっち側にいる安心は半端ないんだなって自覚するわけ。それは仕方ないよって自分の肩叩いてあげたって。それは正しい側にいるわけでも安全な所にいるわけでもない。その他大勢だということだけ。

エゴンシーレのことからウィルスの話になっちゃったけど。アートは自己増殖できない。感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼす。という言葉にも置き換えられるんじゃなない?。エゴンシーレというウィルスに自分は感染し、自分の恒常性を甚だ見失った。そして彼を世界に増殖させる役を担っている。


2020年2月15日土曜日

スペイン風邪とエゴンシーレ。この辺で締めようとも思ったのだけど。スケールの大きな歴史に今更ひるんで、もちょっと掘り下げてみる。シーレ以外になくなった著名人。アポリネール、マックウェーバー。それより何より、クリムトもスペイン風邪で亡くなったんだね。

日本でも島村抱月、村山槐多。。。世界をインターネット顔負けに縦断横断、グローバル展開したウィルス。こんな恐怖を克服して未だに世界を存続させている人類って正直すごいなって畏敬の念を抱くのだけど。未来のことは知ることもできないから。現在の有様を人類が克服できるのかってのには???
スペイン風邪という言葉から、もう一つのアート的な作品思い出したのだけど。「ベニスに死す」こちらは調べてみたのだけれど。スペイン風邪ではなくてコレラ?。そうだったけ?。マーラーがガンガンに鳴ってた映画だった気がする。病と美と老人の倒錯。ゲゲって感じの主題の映画なんだけど。

ヴィスコンティーって映画監督のフィルターがかかってると老人の気持ち悪い視線もまるで純粋美のごとく映像的に昇華されてるマジックにかかってこれは素晴らしい芸術なんだよなって感心した記憶あるんだけど、今観たらどうなのかな?。ちょっと興味もあるな。でも、多分観ない。マーラーは聴くかも。


2020年2月16日日曜日

シーレやクリムトとスペイン風邪。アーチストとウィルス。自分もリアルタイムで体験した時代がある.。HIVウィルス。AIDS。デレク・ジャーマン。キース・ヘリング。ミッシェル・フーコー。ロバート・メープルソープ。フレディ・マーキュリー。キラ星のごとくの面々が次々とウィルスの猛威に堕ちていった。

その訃報を受けるたびに衝撃におののいた。COMING OUTという言葉が世界を駆け巡った。今までそんな言葉を聞いたことなかった。ゲイとか同性愛。知ったようで知らなかった世界が明らかにされていくような気がしてた。その当時は AIDSに侵されていった人々には偏見の視線はハンパないものだったろう。

このウィルスは正しい普通の人と自分のことを信じている人にとって、格好の他人の不幸は蜜の味なわけだしね。自分たちには絶対に感染らない病気というこっち側で眺めているショーだった。でもね。このCOMING OUTは現在の時代に効いている。正しい人にマイノリティとしてないものとされていた闇。

そういう部分が光が当てられ、今じゃマイノリティーはアートやミュージックを引っ張っていってる。フーコーは今も知の巨人だし。キース・ヘリングやフレディは未だにお金を稼ぎまくってる。そして彼らや彼女らの子供や孫の世代がピカピカ光って世界を煽って活性化させていると自分は思ってる。


2020年2月17日月曜日

AIDSで堕ちたキラ星で一番の衝撃だったのは、デレク・ジャーマンだった。この人のくくりは映画監督になっているけれど、初めて出会ったのは、ザ・スミスやペット・ショップ・ボーイズのミュージックビデオ。今観てみると特徴的な耽美的映像に、短い作品の中にその後も貫かれているモチーフにハッとする。

本能むき出しの情念を叩きつけるように吐き出すパンクやロックの時代から、汗をかいて叫ぶだけが音楽じゃないんだよ!みたいなとこに移っていく時代。デレク・ジャーマンの映像はめちゃクールだった。その時はデレク・ジャーマンがどんなモチーフを持っていたかなんて全然気にもしていなかった。

かっこいい音楽、かっこいいミュージックビデオ。それだけでOK。よくは覚えていないんだけど、彼の映画を映画館に出かけて観るようなったのは彼が AIDSに感染しているというニュースを知ってからだと思う。「カラヴァジオ」「ザ・ガーデン」「ウィトゲンシュタイン」「BLUE」。。。。


2020年2月18日火曜日

こういう作品に触れることで、ただただかっこいいと言うことしかできなかった自分の感想文は風に吹っ飛ばされてしまった。特に自分の仕事上、「ザ・ガーデン」と言う作品には深い思入れがある。映画の舞台となる庭は彼が作り上げ今も実在する。行って観たい場所といえばここしかない。

この庭と彼の様子が写し込まれた写真集は一番大切な本なんだ。官能的な少年愛が繰り広げられる舞台としての庭。その庭の表現もジャパニーズ大好きのイングリッシュ・ガーデンとは一線を画している。地面の下の生物の血が滲み出しているようなヒリヒリするような残酷な寂寞感。

素敵と可愛いの言葉で埋め尽くされている花とか庭の世界。生活に潤いを求めて。みたいな感覚の有閑階級?の人々にハリウッドスマイルで対峙している自分。自分とは不相応な商品を販売するギャップのストレス。デレク・ジャーマンの庭の写真集を眺めることで溜飲が下がる思いなのです。


2020年2月19日水曜日

庭という表現方法。とっても興味深いなって子供の頃から思ってた。自分という主体に対して外に広がっている世界。この世が庭ぐらいの規模だったら把握するにも掌握するにも楽チン。それに自分が好きなアイテムばかり並べて好きなようにできるし。これが世界の全てだったらそこから出たくない。

世界としての庭に対して。自分という主体の延長には建築が当てはまるのかな?。庭を臨む建築。主体の身体の延長が築かれているのでは。身体を雨風や温度から防御する機能の強化。記憶や記録、さらに食料や飲料水を保管する倉庫。主体は強い殻と備蓄物に守られくつろいでいることができる。

庭というものはそれだけでは存在できない。デレク・ジャーマンの庭。確かに庭というのが主役ではあるのだけれど、黒くて窓枠が黄色の建築。その建物がなくてはなり得ない。建物が存在しない庭という表現物は、主体のない混沌の海を漂流するモロに自然とかなのだろうし、庭として認識されないと思う。


2020年2月20日木曜日

実際の世界は温厚で優しい時もあるけど、ひどく素っ気なくひどく意地悪く。そういう時も多いよね。むこうの機嫌にビクビクしながらも生きていかなくちゃいけないのは仕方ないんだけど。世界を庭と見なして少しの間でも架空の世界に想いを馳せる。。。そういうのも逃げて自由になるってことかも。

庭という定義をガーデンとか庭園みたいなスケールで想定すると。庭に逃亡するとか言っても、お金ってものがたくさんかかるじゃん。思い入れたっぷりの趣味として庭造りにハマりたい人ならいいけど、楽チンに逃げ込む世界としての庭の世界なんて自分は手に入れることは無理かなってなるでしょ?。
庭は芝生や草花が生えてて、木が植わってて、レンガもいるし、石も配置しなくちゃいけないし。そうじゃない。そうじゃなくて。庭をスケールダウンしてみよう。盆景っていうのがある。こっちも盆栽っての思い浮かべると庭の道楽よりもお金がかかりそうだから。単にミクロ化された庭をイメージしてみて。

箱庭のような。。。そんな絵を思い描いてもらえるといいのかな?。小さな輪郭線の中に配置された植物や石。ミクロ化された庭にはそれに対峙する主体が反映された建築はもういらない。自分自身があればそれで事足りるし。手に取った盆景を愛でる自分の感覚があればそれで完結できる。


2020年2月21日金曜日

ミクロ化された庭に入り込んで自分だけの世界で四肢を思いっきり伸ばしリッラックス。そんな感覚も味わえるかもしれない。実際に鉢や植物を購入しなくたって、盆景を描くだけでもいいし。使わなくなった食器とかに土とか石とか並べるだけでも、けっこうな妄想を引き出すことができるんじゃない?。
文明とか文化の最果てにあった極東のこの場所。豊かさとは対極にあったこの場所。貧しさを妄想力で石庭みたいのに代表される表現物をワビとかサビとかゼンという言葉で美を極めているように開き直ってるところが極東の島国的なんだろうけど。いいよねって思う。お金いらない貧の文化。

普段使いのお茶碗でお茶たてて一輪の花飾って簡素な掛け軸眺めて集った人たち別世界を楽しむ。金ピカの宮殿で超ド級の酒池肉林やるよりはぐっと身近なパーティー。ま、貧も極めていくと貧に価値が過剰に付加されていって貧じゃなくなっていくのだけれど。初期の方向性は共感できると思うんだ。


2020年2月22日土曜日

千利休の書籍を読み込んで深いこと知ってるわけじゃないし、彼の思想にも歴史にも深入りしたこともないし。語れるほどの共感もないのだけど、侘び茶っていう考え方や所作は素直に素敵だなと思う。だけど、素敵な文化は時間が経つと膠着化して利権を生み出しそれを守ろうとする図式が現れてくるわけ。

今、お茶に対するイメージは侘び寂びとか貧の文化とか感じる人いる?。逆に贅の文化と言った方が腑に落ちる。この器は価値あるものですな!。まことに立派な掛け軸でけっこう!。こんな会話が行き交うお宝鑑定団の現場のイメージが脳裏に浮かぶ。あくまでイメージですからね。

古いものはなんかなあ???みたいなことじゃないですよ。膠着した雛形の安易なフォロワーにならないで、自分なりに工夫した手作りの世界を作っていきたいなって話。他者が手招きする雛形になけなしのお金を支払わなくたって、自分でDIYできるよ。


2020年2月23日日曜日

質素な盆景や砂のや石のオブジェ手作りするってだけじゃなく。好きな樹木や色とりどりの草花に素敵なガゼボ。選りすぐったセンス良い茶花。徹底的にミニマル化した建築物。そこに飾る絵やパーティーグッズ。こんなゴージャスだって1円も使わず実現できる。いや、1円以上はかかるかもしれないけど。
自分の頭の中で作り上げるガーデン。いわゆる妄想ってやつ。ちょっと労力いるけれど、この妄想を記録することで、時の経過と共にあっという間に霧散してしまうガーデンの妄想も形として残りいつでもそこに逃げ込める。一番簡単な記録方法は文字。文章で妄想を綴っておけばそれは妄想ではなくなる。

建築物と庭。ガゼボとガーデンみたいな。それを自分の好きなように妄想し自分の世界を深めていく方法とそれによって作り上げられるもの。他のモチーフにも適用できるんじゃないかな?。料理と食器。ステージと観客席。テレビとお茶の間。ん。無限にありそう。小説とかアートの萌芽ってこんなことかも。


2020年2月24日月曜日

充足したリアル。自分の権益を守ること。権益を奪わる恐怖と戦う。一緒に戦ってくれる家族。社会。国家。自分の正しいはみんなの正しい。自分の幸せはみんなの幸せ。そうのもいいんだけど、かなりストレス抱え込みそうじゃない?。他者を堕として自分の立ち位置を確保。楽しくないじゃん。

そういうこと思ってるのって自分だけなのかもしれないんだけど。ともかく自分は、みんながそう言ってる。テレビではこう言ってる。日本人はみんなこういうことを恥じてる。みたいな現場が嫌で嫌で、そういう言葉を交わしている人とはできるだけ塗れたくないわけ。他の場所に逃げ出したくなる。

世界にこういう違和感を抱く人がもしもいたらの話。紙代とかボールペン代とか。ワープロ装備してるパソコンとか1円以上の費用はかかるだろうけど。想像力と手を動かすことで。自分が逃げ込む場所や自由を手に入れることができる。架空の場所かもしれないけど。直面してるリアルだって軽く崩壊する。


2020年2月25日火曜日

複数のリアルを持っていると、ちょっとしたイレギュラーなことに日常絡め取られてもダメージ少なめってことになるんじゃないかな?。実際の空間を移動して違うリアルに逃げ込むのも方法だけど、直面してるリアルに折り合いつけて律儀にちょっと出かけてきますなんて状況こしらえたり、予算工面したり。

そんなことやってる時間なんてないよっていう場合だってある。強度のストレスに見舞われて病に落ちる寸前。ま、落ちてもそこも逃げ場の一つには違いないのだけれど。お金持ってれば、ヤクブツやアルコールで意図的に病というサイトに落ちることもできる。でもちょっとそれはリスク高め。かな?。
現在という一点に佇んでいる自分をリフレッシュするって言葉では軽く発せるけど。なかなかね、難しいことなのかもしれない。ここでグダグダ書いてること。自分にはこれが一番手軽で低コストで軽リスクな現実逃避の作業と痕跡なんです。キーを打ち込んで自分と文字列を展開させるパソコンのモニター。

自分という建築物とパソコンのモニターという庭。ここで自分という主体は別のリアルの中でしばし遊山して、「みんなが望んでいる」「みんなが幸福に暮らせますように」とかシュプレヒコールあげているみんなのリアルに再び出かけることになる。そういうことも何度できるかは神様しだいなのだけどね。


2020年2月26日水曜日

デレクジャーマンのことから庭の話になってきたわけなんだけど。是非とも行ってみたい場所ということでデレクジャーマンの庭と前に書いた。実はもう一つあって、それも庭なんだ。イギリスという遠い場所からぐっと近場になる。重森三玲という人が作った庭。日本国内に散在してる。

今住んでる場所からすっと行ける距離にないので、未だ重森三玲の庭は未見となってます。読書に耽っていた頃に彼の書籍に偶然出会って庭という概念にかなり感化された記憶がある。一方、この人どういう人だったのかな?みたいなことは深く掘っていなかったし。その本一冊でしか彼を知らなかった。
法隆寺の宮大工の棟梁の西岡常一のうような職人の一人なんだろうなぐらいの認識。だけど数年前に青山のワタリウム美術館という場所で現代に彼の作品を問い直すような展覧会に行けたことで重森三玲という人物と業績への印象が刷新された。

過去という歴史を丹念になぞることによって新しいスキームを作っていく。超絶刺激的な展覧会だった。歴史に燦然と輝いている庭園を測量して図面に起こす。過去に習うというような簡単な言葉で置き換えることなんてできない果てしない作業。自分が直面している世界さえ飲みこうとする作業にも思える。


2020年2月27日木曜日

龍安寺の石庭。日本人って最高!って言いたいジャパニーズにとっての至宝。むかーし修学旅行で行ったよ。知的な雰囲気満ち満ちの異国の人が縁側に座って瞑想してるかのごとく恭しく庭を眺め悦に入ってる様子だった。自分もそういうふうにありがたい雰囲気出さないとね。とは思ってみても。???だけ。

植栽や石が配置されている庭ならなんとなく引っかかりが見つかるんだ。でも極端に抽象化された禅の庭に対して自分の想像力では何も投影できなかったんだと思う。若さ。とかいう感性めちゃ大事にされるし、刺激あるから大歓迎されるけど。それって無知であることの価値化でもあるわけで。

砂の掃き目と石と。。。ザ・ジャパニーズ庭園。修学旅行でね連れて行かれて。どうだこれが日本の文化だと言われてもジャパンの若者の感性はこれはこれは日本の先人は本当にすごいですね。みたいなフォロワーな感嘆の優等生になりたい。というかいわゆる「無難」な感想しか抱えることできなかった。

いい歳になってうんざりなことやらやってられねえみたいなことを標高何千メートルも積み重ねてくると。塀で区切られた空間。石と砂のミニマルな表現物。若さでぐっと引き寄せるイメージじゃないとこ。めちゃ広い風景が立ち上がるんだよ。風景なんてもんじゃなくて宇宙そのものみたいな映像。


2020年2月28日金曜日

庭園として区切られた空間に展開されている宇宙。重森三玲という人の息吹がトリガーとなって自分という主体の歴史に現れてきた風景というものが改めて光が当てられた気がする。龍安寺の石庭のごとく歴史の教科書で刷り込まれた日本庭園もしかりってところ。

日本文化は美しいとかスゴイとかいう以前に。ま、そういうこと言いたい人は圧倒的なんだろうけど。ミニマルな要素で信じられないほどの世界をイメージさせる装置としての庭園。それを残してきた先人には敬意を表するし、それに触れることができたことには感謝するばかり。

現在に近いところで作成された室町時代の芸術を彷彿とさせる重森三玲の庭園。いつか目前に捉えたい。そこに対峙するとどんな世界が立ち上がってくるのかな?。思っただけで鳥肌立つのでもったいないから思わないことにしとこう。


2020年2月29日土曜日

龍安寺や重森三玲の庭から急展開急降下みたいなとこに落ちてくんですけどね。唐突御免です。自分の生家。田舎の家の話。まだ現存してます。そこの庭。めちゃ日本庭園の輪郭線なぞってます。松、池、躑躅。なのに折衷?。芝生。プラスチックのプランターが並べられ、毎夏朝顔の花開く。

完成度とかクオリティーなんて言葉をまるで引っ張ってこれないような父親手作りの庭園。昔は縁側もあってそこに座ってスイカやらを食べて種を飛ばしている幼少の自分もいたのかもしれない。自分と同じ歳を重ねている黒松もだいぶ大きくなっている。この松、自分が存在しなくなっても健在だろうな。

今はもうなくなってしまたのだけど、黒松の下には池があった。近くの池や川で取ってきた鮒やドジョウをそこに放して、時を忘れて眺めてた。それから、自分の田舎では来客やお祝いがあると鯉を食べる習慣があったんだ。昔の話だから今はどうなんだか知らないけど。大物の鯉もその辺の池で獲れた。
子供でもちゃんとした網を持っていけば獲物を追い込んで捕獲できた。大人ももちろんそういうの娯楽にしてたし、それをおすそ分けみたいに他の家にプレゼントしたりしてた。そういう風にして手に入った鯉を池に放しておいて、機会がくるとご馳走にするという算段なのです。

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