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Ofrenda MAR/2020

2020年3月1日日曜日

魚を近所の池で捕まえてきて庭の池にストック。宴があれば、それを供する。今の世界の状況からすると、なんだかおとぎ話のような世界だよね。遊びと生活が密着してて社会とも結びついてる。むかしむかしの世界を理想のように語ることなんてするつもりもないけれど、郷愁みたいな風が心を刹那横切る。

想像を働かせて遊びの世界を作り上げなくたって、部屋から外に出れば、遊ぶ場所は無限に広がっているし、遊ぶ方法も無限にある。ま、今もネットの世界みたいなのが無限に広がっているし、そこで遊ぶツールも無限にあるから、根本的に何が違ってる?なんてないのだけど。

でもあの世界は360度横にも縦にも広がっているような風景の中で遊んでいる実感はなんなんだろうね。それが強烈な記憶として残ってて、なんかの拍子でフラッシュバックしてくる。バーチャルな世界もこれから進化してこういう記憶を残してくれる風景を現出させてくるのだろうね。


2020年3月2日月曜日

バーチャルリアリティってまだ驚きという感想が先にきてる段階だよね。科学が作り出す世界があまりにも当たり前すぎて日常の風景になっていった時に世界はどうなるんだろうな?。ってイメージを膨らませてみたら。最高の未来?。最悪の未来?。

牧歌的でおとぎ話のような世界の遊びからネットの遊びに時代はシフトしていったけど、自分はまだ生き延びているし、最高でも最悪でもない世界が現存してるんで、多分これからやってくる世界も最高でも最悪でもないだろうな。それを最高だとか最悪だと感じるのはそれぞれの主体の受け止め方。

身体の延長線上にある装置にどんどん依存する割合が増えていって。肉の塊でもある自分という自覚がどんどん薄れていくのだろうな。記憶や伝達の作業はパソコンに任せっきりだし、言葉や事項を調べるのに本をめくるという動作ももはやいらないし、車や電車が圧倒的な距離の移動を補助してくれる。
もはや電車や車や飛行機使わなくたって世界の風景は検索することで視覚に捉えることもできる。今のところ自分の視覚で捉えられる範囲内で自分という主体と世界という客体をかろうじて認識できてるような気もするけど、メディアやネットからの過剰な情報を浴びてそれすら。ね。ヤバい。


2020年3月3日火曜日

デレクジャーマンの映画に出会う以前にズキュンとやられた映画があった。2001年宇宙の旅。科学が突き詰めた先にあるもの。AIが人を凌駕する未来じゃなかった。もはや未来なのか過去なのかもわからない。そもそも宇宙とか人とかも何なのかもわかんない。人の五感や思考では捉えられない美しき世界。

この映画。制作して何年も後のリバイバルで観たのが最初だった。昔の映画館は入れ替え制じゃなかったから二回続けて観た。そして次の日も二回続けて観た。その後もビデオを借りて何度も観た。最近もiTunesでレンタルして観た。観るたびにこんな場面があったんだとか印象が違うって感覚まるでない。

他の映画って自分や環境の変化と共に視点も変化していくもんだ。でも、この映画はたくさん観てることで、記憶が連綿と続いてることもあるのだけれど。時代の変化というものに対して普遍的なテーマを取り扱ってるということで時を経て観返しても印象が変わらないのかななとも思う。


2020年3月4日水曜日

宇宙という環境は僕らが体験して記憶できるような世界じゃないし。だから映画の場面の一つ一つはノスタルジックにならず、いつまでもスリリングで刺激的だ。ま、キューブリックの作品の気迫を感じる場面の一つ一つは超絶に美しいってことに帰結するのだけれど。

HAL9000というAIは人類に対峙する敵対者というよりも、なんだか人類の未来のような存在だという気がする。科学をまとい超人化した人類と喜んだり怖がったり、泣いたり怒ったりする肉の塊のコアの人類の対決。そんな感想を今も持ってる。未来ってのは知らないことの恐怖に満ち満ちてるし。


2020年3月5日木曜日

HAL9000って人類のディストピアの格好の主人公。人の心を忘れずに世界が愛と優しさに包まれている未来になりますようにというユートピア。そうだったらいいんだけど。そんな能天気なこと思ってる人は誰もいないしね。未来って言葉はキラキラで希望に満ちているようなイメージ。

でもほんとは誰も見たことも聞いたこともない世界が広がってる⇄人は死んだらどうなるのか?。誰も見たことも聞いたこともない世界。だから未来ってのは未知に対する無知の恐怖なんだもの。虚勢はって希望に満ちた世界って突っ込んでいかなくちゃ。恐怖で足がすくむばかりなんだ。

HALという恐怖におののく自分を振り切って光の流れに身を任せトリップしてたどり着いた世界はどんな世界だったのだろうか?。これから始まる新しい世界?。それとも人の誕生の時に戻っちゃったのかな?。みたいなラストシーン。響き渡るリヒャルト・シュトラウスの交響詩。

光が流れ、トリップする場面。これってまさに現状から他の世界に逃げ込む旅の過程の描写なんじゃないかと思う。そんな屁理屈抜きに、この場面は本当にすごい。この映画を何度も何度も観てるのは、この場面があるから。薬物とか頭のネジをいじらなくても、極上のトリップができるから。

自分がちまちまと足し足し広げてきた世界観を軽く覆してくる。リアルというところにしがみついている状態では絶対入り込めない世界。リアルから離脱する睡眠中に現れてくる世界に似ている。長い長いトリップのシーンの緊張から解放されて白い静寂の部屋に到着する。それを感じるために観るのです。


2020年3月6日金曜日

「ツァラトゥストラはかく語りき」の象徴的で魂を揺さぶるような音楽。このタイトルは映画であまりにも有名なために、本家を忘れちゃっているんだけど、これはニーチェの著作のタイトルだよね。映画見るより先にこの本は読んでいる。読んだよって記憶以外全て覚えていないけど。

2001年宇宙の旅の感想文みたいなこと書いていたら、このニーチェの著作が気になってきた。多分、今の自分が府に陥るようなことが満載のような気がする。昔読んだ本。この部屋から見つけ出すことはほぼ不可能っぽい。文庫本だったし。小さいから尚更ね。新しいの買おうかな?。それともKIndleか。

キューブリックのこの作品のことダラダラ書いててどこにも収束点見つけられないんですけど、まとにかく自分がどれだけこの映画にやられてきたかを言いたいし、一押しの作品として二押し三押しします!!。このほかにも時計じかけのオレンジ、シャイニング、フルメタルジャケット、きら星の作品群。

2020年3月7日土曜日

映画。。。デレクジャーマン、キューブリック、そしてもう一人。タルコフスキーとくる。自分の概念をひっくり返した映像作家たち。みんなややこしい作品作る人ばっかり?。小難しいの持ち出して知識人気取り?。鼻につくようなことまた語り出すのか?。となるんだろうな。でも好きなんで仕方ない。

むかしむかし。六本木にシネ・ヴィヴァンという映画館があった。働け働け!!稼げ稼げ!!の時代。アートとか音楽とか哲学とか、そんなことに触たり考えたりすることなんて無駄だし、自分にはなんの関係もない世界だった時代。でも働いても稼いでも。際限なく生活が向上するわけでもない。

休みも返上して働いても、なんか会社に搾取されるばかりなんじゃない?なんて疑念も脳裏に擡げ始め。もうちょっと自分の時間ってのを作るべきなんじゃないかと世間様がなっていった。もう無我夢中で働かなくても、十分食べたいもの食べられる時代になったとういうことなんだよね。

哲学書や現代音楽や現代美術。。。それまでその筋の研究者や専門家みたいな人しか触れないような事項に頭の中身が空っぽの学生や就職もしないでバイトで暮らしてるクズみたいな自分みたいな輩も尤もらしくそういう世界を語りアートの海を泳いでいた。


2020年3月8日日曜日

そういう輩の気分を充足させてくれる空間もどんどん資本が入って作り上げられていった。パルコ。セゾン美術館。。。なんか色々あったけど忘れちゃった。現在はほぼ時間の経過の彼方に駆逐されてしまったけどね。シネ・ヴィヴァンという映画館も六本木WAVEというカルチャーの先端?のビルにあった。

そこで上映されていた「コヤニスカッティ」という映画。ストーリー展開とかドラマが繰り広げられる従来の映画からは遥か遠くに逸脱した映画。その当時に花開いていたミュージックビデオの集大成版みたいな感じ。タイムラプスやスローモーションの映像がフィリップグラスの音楽に煽動され乱れ踊る。

それはそれは刺激的な映画だった。当時映画のカリスマだった「地獄の黙示録」のコッポラが製作ということ。フィリップグラスの音楽。そこに惹かれて観にいっただけ。しかし想定以上の衝撃を受けたことを思い出す。

いわゆる小難しいものに酔いたい的な動機>覆される>気持ちを高揚させてくれる超エンターティメントの新しい表現!!。この映画の存在、あんまり知られていないかもしれない。でも、その後の映像のジャンルに大きな影響を与えたのではないのかなって。

今振り返ってこの作品を改めて観てみると、なんとも使い古された陳腐な既視感に満ち満ちている。斬新なアイディアも時を経ればフォロワーに食い尽くされ、コピーされたアイディアはいまさらなにこれ???みたいな感情にもなるけれど。オリジナルの荒削りっぽい力は未だに残ってるかもしれない。

2020年3月9日月曜日

ほんとのところこのコヤニスカッティという映画のことを語るわけじゃなかったんだけど。ま、これはイントロ。六本木。シネ・ヴィヴァンに戻る。コヤニスカッティの映像。座席で衝撃の余韻に浸っているところに次回の映画の予告が始まる。この映画館は期待以上の映画が上映されるので期待値が上がる。

思えば、デレグジャーマンの「BLUE」、「カラバッジオ」、「ガーデン」もここで観た。ギャスパー・ノエの「カルネ」もここで観たと思う。ずっと記憶の彼方にいってたけど。こうやって記憶をたぐり寄せると、この映画館には自分のその後の価値観を決定づけられてる重要な場所になってたわけだ。
それはともあれ次回の映画の予告に戻ろう。石造りの建物の中に放たれる鳥の群れ。部屋の中にまで降り落ちる雨。ボソボソと交わされる人と人の会話。コヤニスカッティが観たことのないスピード感の映像だとしたら。これは観たこともない美しさの映像だった。美しい。そんな言葉使えば楽チンなんだけど。

他に言いようがない。色が美しい。風景が美しい。人物が美しい。言葉上では受けた感動を簡単に表現することはできる。けど。一瞬で心を持っていかれる感覚をどうやって伝えるかは超絶難しい。流れてきた音楽に一瞬で心を揺さぶられるって感覚は誰にでもあると思う。

日常の生活の一場面やモニターに流れてくる映像。視覚に映るものにもそういうことが起きる。まさに次の映画の予告に流れた映像に一瞬で心を掴まれた。一瞬で心を持っていかれる体験。生きてる中でそうそう出会うものではない。音楽にはそういうことが起きる確率高いけど、「一瞬で」はまずない。

2020年3月10日火曜日

さてさてちょい引っ張り気味なのでそろそろその映画のことを話し始めないとね。予告映像の数秒のシーンで心を奪われた映画とはアンドレー・タルコフスキーという映画監督の作品。「ノスタルジア」。今まで体験したことのない世界。2001年宇宙の旅もそうだったんだけど、こちらも強烈な印象。

強烈という形容詞を使ったものの、インパクトが強い映像が畳み掛けるように迫ってくる。。。そういうのとはまるで反対なのであって。あまりにも静かでゆるりゆるり展開する場面はまるで夢の中にいるようなんだけど、そのゆるり感が異常な緊張感を生んでいるので、眠ることもできない。

「ゆっくり」とか「静か」というのはリラックスという概念とは必ずしも結びつかないんだなあってね。だいたいこの映画の映画のシーンのひとつひとつは自分が現実で過ごしている時間経過の感覚にとても近いんじゃないかな?。通勤途中の徒歩での移動で視覚に映っている街の風景。人との会話。

ターミネーターに追いかけられてるようなアクションの中に放り込まれてるわけじゃない。ずんずんシナリオが2時間ぐらいの間に展開されてるわけでもない。自分のリアル。日常。そんな言葉で納得してる楽しくも面白くもないシーン。でも、ただただその時間を受動的に自分は眺めているわけではない。
歩いていれば向こうから歩いてくる人にぶつからないように無意識に警戒してるわけだし、人と話してる時は自分の記憶装置や言葉を発する装置はフル稼働している。自分のリアルの時間をぐっと圧縮してみたら意外とマッドマックス並みのハラハラドキドキのアクション超大作になるかもしれない。


2020年3月11日水曜日

ノスタルジアに流れている時間は限りなく自分の日常のリアルで体感するスピードに近いんだ。流れていく映像も確かに異国で見たことのない風景だし、会話を交わしている人とは絶対面識あるわけない。なのに自分が今知覚している世界と瓜二つ。パラレルな世界がスクリーンの中で展開されている。

映画ってリアルとかけ離れているから入り込めるし現実逃避の装置の最たるものなんだけど、ノスタルジアはリアルと協調してて、どっちがどっちかわからないような感覚に人を落とし込む。このザワザワとした不穏な空気感と圧倒的に美しい映像。タルコフスキーという映像作家に引っ張りこまれた。

他の作品も同じようにリアルと作品としてそこにあるものが浸透しあっている美しい作品ばかり。今も昔もこの人のような映像作品に出会ったことはない。映画に映し取られたリアル。自分が生きているリアル。共振しているのはそれだけではなかった。作家本人のリアルも大きく関与しているし共振してる。


2020年3月12日木曜日

タルコフスキーは自分のリアルを時間軸をドラマの都合で早めたり遅くしたり。そういうことしないで世界で蠢いてる主体と同じ時間軸にシーンを解き放った。そこに展開されるドラマ。僕らも一緒にその景色の中で息をして立ち尽くす。そんな経験を共有することになるんだなって。

タルコフスキーの映画のことは自分の語彙で説明できる範疇にないので是非観てください。映画の内容は忘れてしまっても、一生忘れることがないような印象的なシーンにたくさん出会えると思います。前後の脈絡との関連抜きのキラーフレーズみたいなキラーシーンがたくさんあるんです。

というよりもキラーシーンだけで出来上がっている映画と言えるのかも。部屋にずっと飾っておきたい絵のように作り込まれたワンシーンワンシーン。自分が一番印象に残っているシーンは「ストーカー」という映画のラスト。少女が卓上のグラスを視線だけで動かしテーブルから落としてしまうシーン。
この映画のストーリーはゾーンという隔離された場所に男たちが危険を顧みずに何やら価値を生み出すものを取りにいく。そこで何やら葛藤やら何やらありながらもリアルに戻ってくるみたいな。。。ストーリーは、ないも同然なんですけどね。ともかくリアルはカラーでゾーンはモノクロのシーン。

自分はね。 FUKUSHIMAで生まれ育った。放射能がばらまかれた場所。「ストーカー」は原発の事故が起きるずっと前に観た映画なんだけど、事故あった時にこの映画を思い出した。汚染され隔離された場所=ゾーン。そこに侵入して何らかの価値あるものを盗み出す。

同時に危険なものをリアルの世界に持ち込んでしまう。そして家族の少女が異常な能力を発揮する。FUKUSHIMAは今話題のコロナウィルスのように世界から罵倒されるレベルで嫌われた。絶対忘れないからな。ということはどうでもよくて。メチャクチャやばい力が少女に宿り膠着したリアルを更新。

そんな未来を予感させるシーン。それがFUKUSHIMAの未来でもあるようにと。。。重ね合わせたわけで。自分にとってこの「ストーカー」という映画は宝物のような映画になってます。また観てみたいな。今見るとどんな印象、感想持つのか?。それに対峙することができる自分であるのか?。?。?。


2020年3月13日金曜日

映画の話延々するつもりじゃなかったのにタルコフスキーのこと語っていたら、もう一つ人生変えるような。。。というほどに影響を受けた映画を思い出しちゃった。トラン・アン・ユン監督。「青いパパイヤの香り」。フランスとベトナムの空気が濃密に立ち込める画面。何言ってるのかわからないよね?。

ベトナムとフランスの合同作品ってことなんだけど。どこの国どうしが作ったかなんて興味なんてないよね。お金を出した人がベトナム人とフランス人ということだろうけど。ただトラン・アン・ユン監督はベトナム生まれでパリ育ちという人。映画にはこの監督のそういった感性が降り注がれている。

フランスにもベトナムにも行ったことがないのでどちらの空気感を体験したことがないからたいそうなことは言えない。クローズアップで撮影されたパパイヤや蟻や人の表情が濃密なんだけど妙に官能的で濃密な空気感に満たされているのに静かで洗練されている。この映画が醸し出すこの空気感に即やられた。


2020年3月14日土曜日

アジアという世界は日本という海岸線で閉ざされた極東の国しか知らなかった自分。文化も食事も風景も圧倒的に豊かな他のアジアの国々へと目を向けることになった。湿度と温度と柔らかさ。現在、こういう表現を使うことはどうなのかな?。というところもあるけれど、女性的な空気感に惹かれた。

青いパパイヤの香りを観たことによって猛烈にベトナムに行きたくなった。ただ、当時はまだまだ社会主義国という言葉が現実に枠を作っていた。ベトナムはその社会主義の国家で簡単に旅行に出かけられる場所ではなかった。その後、アジアブームで、ビザなしの旅行も可能になってベトナム旅行は大人気に。

結局自分の気分がアジア熱にかかっていた時はともかく楽に行けるアジア見渡して、バリ島という場所に出かけることにした。楽に行けると行っても、最初のアジアの一人旅っていうのは楽でもなかったし、アジアの風を満喫できたわけでもなかった。でも、映画で描かれていた空気感には触れることはできた。

お金と知識さえあれば自分で何とかなるような概念は軽く吹っ飛ばされるわけで、映画の中でぼそぼそと交わされる人々の会話みたいな濃密な距離感に入っていかないことには自分は何にもできないんだと思い知らされた。最初焦がれていたベトナムへの想いからバリ島へのリベンジ戦へと関心は移っていった。


2020年3月15日日曜日

ともかくね。人に助けてもらわないことには何もできない。そういうことを学んだわけで。人に助けてもらうこと?。簡単そうなんだけど簡単じゃない。まず助けてください!って言えないとね。ここ、簡単そうでまさに簡単じゃんじゃない。とりあえずね。言葉使えるように地道にインドネシア語の扉叩いた。

バリ島の人の普段使いの言葉はバリ語なのかな??。みんなが会話してる言葉はインドネシア語をちょっとかじった自分には全然理解できなかった。バリ島の中でも隣の村の知らない人にはインドネシア語で話しかけるみたいな使い分けしてる感じだった。日常語と公式語。を、本音と建前に置き換えもできる。

日本もきっとかつてはより小さなコミュニティで話される言葉と国みたいな大きなカテゴリーで使われる言葉があったんだと思う。広大な地域を結びつけるメディアが進化するにつれて言葉も画一化されていく。

日本人は外面と内面が複雑で理解されにくいなどと自らは思ってるけど。バリ島の人の言葉の使い分けの世界に触れると、はるかに内面と外面の壁が厚いんじゃないって思った。僕みたいなよそ者はインドネシア語でなんとか日常的なコミュニケーションをしのげるけど。それ以上の仲になれるわけじゃない。


2020年3月16日月曜日

方言と共通語みたいなことでしか実感できない僕らなんだけど、価値観共有してるコミュニティーを律してる言葉と支配者の言語の普及の果ての共通語。日本という国も多分言葉は多彩だったはず。もうそんな記憶さえ思い起こせないほど。ジャパニーズは日本語で一枚岩になってしまって。本音も建前も薄い。

日本語という共通語を盾に「日本人のここがすごい」とか「こんなところに日本人」とか「美しい国ニッポン」みたいな世界に引きこもっている。自分もこの日本語しか理解できないし、話せないので、こんな世界に引きこもっている一員。でもこの言葉をぶら下げてちょっと外から引きこもりの部屋眺めた。

引きこもりの団体の気持ち悪さを体感できたし、自分もその一員だって気づいたこと。マシ。そういうきっかけを与えてくれたのはやっぱり「青いパパイヤの香り」だったんだと思う。ベトナムとかインドネシアとかジャパンとかの国境を越えて横断する何かを感じることができたのは宝物だった。


2020年3月17日火曜日

「青いパパイヤの香り」という映画からだいぶ話が飛んで行ってしまったけれど、トラン・アン・ユン監督の映画は他にもあって、「シクロ」「夏至」。どれも美しく濃密なベトナムが背景となっている心を一瞬で持っていかれる作品群。バリ島も素晴らしいのだけれど、ベトナム。今も惹かれるな。

観光とか旅行という点で今は語ってきたけど、ベトナムという名前はもともと負のイメージで轟いていた場所。ベトコン、サイゴン、北爆、ソンミ村虐殺事件。。。アクション大作戦争映画を大量殺人合戦現場に概念転換させてしまう呪われた人の行いを暴露された戦争が繰り広げらた場所として知られていた。

映画つながりで話続けていく。ベトナム戦争をテーマにした映画。たくさん作られた。「地獄の黙示録」「ディア・ハンター」「プラトーン」「フルメタルジャケット」。スカッと気持ち良い作品なんて一つもない。人間に生まれてきてすみませんとしか言いようのない映画ばかり。

人間は地球上の最高位置にある存在なんてもう誰も思わなくなった。罪を背負った生き物。それなのにさらに人を殺傷する新しい兵器を開発する愚かな生き物。自己否定しながら自己礼賛する。まるで世界が躁鬱病にかかってるみたいじゃないか。そんな感じで20世紀末へ向かって行った雰囲気を記憶してる。

2020年3月18日水曜日

ソ連とUSAという対立軸。今じゃ何じゃそりゃ?みたいになってきているけど。この二大陣営が核兵器を打ち合って世界が崩壊というシナリオが着々人々の脳裏に侵攻していた。でも、そんな大団円は起こらなかったし。逆に世界なんて無くなっちゃった方がハッピーだったんじゃない?ってぐらいの未来。
そこに自分たちは生かされ続けている。「ベトナム戦争」で暴きだされた人の本性。美しい国に生まれたニッポン人は自分たちだけはそうじゃないと信じてる人多いけどね。ベトナム戦争時代の空気感からずいぶんと離れた未来の今。あらためてベトナムという場所で展開された目を覆いたくなるようなリアル。

それを現出させる作品に最近打ちのめされています。西島大介さんの「ディエンビエンフー」という作品。漫画?です。この作品の魅力を自分の語彙力で説明するのは大変難しい。まずこの本の表紙とかパラパラとめくった紙面からこの本の心臓に突き刺さるようなドラマの展開は想像すらできないです。

2020年3月19日木曜日

「ディエンビエンフー」の話を続けます。人畜無害とも取れるキャラクターたちがまさに人間の残酷で常軌を逸した行いをベトナムという土地を舞台に繰り広げる。人畜無害などと言ってしまったけど、登場するキャラはみんな魅力的で物語は格別なエンターテイメントであるのも間違いなく。

お姫様が濃いキャラのグリーンベレーの面々を次々に仕留めていく過程は爽快でもあるけれど、仕留められていくアメリカ人も単純に悪の象徴ではなく。何とも言えない虚しく悲しい感情は抑えられない。善と悪といった単純な対立軸で物事考えられなくなったのもベトナム戦争を世界が体験して以降かも?。

「ディエンビエンフー」の作者の西島大介さんを知るきっかけになったのは静岡県の長泉にあるクレマチスの丘。そこには美術館があってそこで西島さんの作品に出会った。併設されているブックショップで「ディエンビエンフー」や他の書籍も購入。今まで知らなかった世界に刺激いっぱい受けた。


2020年3月20日金曜日

ベトナム戦争関連で。このクレマチスの丘の美術館の一つ。IZU PHOTO MUSEUMで沢田教一の写真展もあった。戦争写真というのもキャパ的?。ちょっとピンボケ。。。みたいな?。何となくステレオタイプ?。戦争の体験なんて一度もない自分には映画のような向こう側の世界。

期待値ほぼ0で出かけていった展覧会。いつだったのかな?と検索してみると2017年。意外と時間が経過しているのだなと。それぐらい目に焼き付けられた沢田教一の写真の記憶は新鮮なままだ。等身大の写真作品に周囲を取り囲まれると自分も戦場に放り込まれたような緊張した空気に包まれる。

静止しているはずのスチール写真がこんなにも見ている者に作用を及ぼすものか?。展示室を移る度に小さな悲鳴をあげていた女性の観覧者がいた。写真の展覧会でこんな体験は初めて。

ベトナム戦争の真実を命を顧みずに写した写真家。。。そういう観念は覆される。戦争のリアルに人を陥れるアーティスト。それが沢田教一という人とカメラなんだなって。


2020年3月21日土曜日

写真という表現媒体。インスタとかSNSというもので楽チンに頒布される見栄えの良いデータ。それ以上のものは日頃求めることはないし。写真に写っている物には関心あっても、写真自体に目を惹かれることなんてありえないってぐらいありえない。皆様方は異論あるかもしれないけれど、自分はそう。

言葉を綴ったとしても、文章の内容は視覚を通して脳に届くだろうけど、文字自体に視覚が反応するかってのと同意。。。かな???。一行の文章の文字数を同じにしたり。意図的な句読点の使い方をしたり。文字自体を視覚的に表現する手法を使う作家さんに刺激受けることは多々ある。

一方、写真。写真の一番の魅力というのは記録性。50年前の渋谷の交差点の写真みたいな。。。写真はねかせればねかせるほど味が出て来るものかもしれない。そういうところ狙って写真自体に目を向けさせる方法として、当たり障りのない対象をモノクロ表現したりフィルターかけたりそういうことするよね。

あるいは写真が好きというんじゃなくて、カメラが好きという方々が露出かのデータを写真に添える方法。写されたモチーフ(そもそもモチーフなんてあるのか?)とかの情報よりカメラの情報が写真の情報であるかのように写真に視点を引っ張りこもうとする行為。ここ。写真というのと繋がりたくない。

写真好きと繋がりたいハッシュタグなんてノーサンキューということなんだけど。ネガティブなことを考え考えして書きつけるのに力注いでも時間と体力もったいないからそこのところは早々退散することに。写真に心惹かれること滅多にないって時点に戻って。滅多にはあるってポジティブ展開しよう!。


2020年3月22日日曜日

ベトナムという土地で繰り広げられた戦争の現場を時間も距離も遠く離れた場所にいた自分たちに体感させてくれた沢田教一という写真家と展覧会を企画、実行した方々。たくさんの人が関わりたくさんの意図が広まる。銃弾に倒れたカメラマンの悲劇というコピーみたいな概念を大きく覆す。

「ディエンビエンフー」の主人公もカメラマンだった。しかしカメラを持っていない。戦争の現場に立ち会い現場を目撃するスタンス。カメラを持っていないカメラマンなんて、武器を持っていない兵士みたいだな。でもカメラマンってその銃を持っていない兵士そのもの。武器を持たなくても戦争できる。

戦争できる???。戦争って多額の予算かかるし、カメラが買える程度の個人が戦争を実行することなんて無理だものね。戦争に参加できるという言葉に訂正。沢田教一も目撃者という立ち位置でベトナム戦争に参加し、兵器で破壊し尽くした兵士たちの成果をはるかに超える成果を今もあげ続けている。

2020年3月23日月曜日

先住民を力で駆逐して領土を増やす。自分の領地で余った人員を開拓と称して追い出す。そうやってUSAとか北海道とかイスラエルとかが作り上げられた。ベトナムもそういう図式に当てはめられそうになったのかな?。ちょっと違うか?。先住民は駆逐されるんじゃなくて搾取。植民地化というのが正解?。

ま、どちらでもいいか。どっちにしても、もともと住んでいる人にとってはとても迷惑な話。日本という国も幕末はこういう目に遭っているのに。ちょっとお金を溜め込んで力持ったら同じことを近くの国にしてさ。人って奴はほんと自分中心の一方通行の視点しか持てないんだなって吐き気がします。

「青いパパイヤの香り」「ディエンビエンフー」「沢田教一」とベトナムにまつわる記憶を辿ってきた。腕力で人のものを奪おうとするものに抵抗する人たち。そんな場面の中に垣間見られる風土や文化。ベトナム。インディアン。アイヌ。。。ベトナムから話は飛ぶのだけれど、続いてはアイヌの話。


2020年3月24日火曜日

本を読むことで世界から隔絶していた時。柳宗悦という人。自分にとっての巨人の中の一人だった。柳宗悦を取り巻く人々。芹沢銈介や濱田庄司の世界にも大きな影響は今も受け続けていると思う。そんな柳宗悦の収集品を集めている東京の駒場にある日本民藝館。自分にとっては聖地のような場所。

随分と昔のことなんだけどアイヌの工芸の展覧会が催されていて、それを見に行った。アイヌの文化のことを知っていたとか興味があったということはなかった。故郷の家には例の黒い木彫りの熊が飾り棚に鎮座していた。そのぐらいの関わり。それでも、無意識に何か惹かれるものがあったんだと思う。
自分が子供時代に過ごした場所は東北地方の南端。北の地方の文化とは遠く離れている。でも関東以北の場所はいつの世も南の人々に支配され下に見られているみたいな劣等感を抱えているような。そんなとこもあって。民藝館で出会ったアイヌの工芸品は圧倒的な存在としてキラキラ輝いていた。

衣服に施されているアイヌ独特の意匠。トゲトゲ。ガクガク。みたいな力強くて何も寄せ付けないような文様。必要以上に彫り込まれたとしか思えない木彫りの工芸品。そして人の肌にまで。。。の刺青。どれも禍々しくてカッコイイ!!。ロックやパンクに通じるような。そんな衝撃は今も変わらない。

2020年3月25日水曜日

アイヌの文化に触れ。次に出会ったのは知里幸恵の「アイヌ神謡集」。この本は今まで出会ったことのない本だった。データの集積のような本から知識を得るために貪るように視線を走らせる読み方では、心に全然入ってこない本。文字だけでなく文字から感じる音の響きに耳を済まさないと響いてこない本。

銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。。。ほらこんなフレーズが目に飛び込んできたら脳内で音が自然に弾けだしてこない?。言葉は文字だけではない。音声でもある。そんなの当たり前なんだけど。忘れがちでもある。

本読んでたり、SNSに投稿する文をひねり出している時は言葉を意識しているんだけど、普段の会話の場面で言語を意識することはほぼないと思う。自転車に乗れるようになったら、もはやどうやって自転車を操縦するかなんてもう意識しなくなっちゃうみたいに。

日本語ネイティブの自分たちは言葉の仕組みとか考えたりすることなしで言葉交わすことができるから。自分の読解能力超えた文読んだり、自分で文章をこしらえたり。そういう時は、言語の仕組みを意識しざるを得ないってこと。だから言葉って文字のことばかりに目がいってしまう。音の言葉もあるのに。


2020年3月26日木曜日

「アイヌ神謡集」は口承文学をアイヌ語で記録され、それを日本語に訳されている。といった本です。日本語とアイヌ語の音(アイヌ語の文字はないのでローマ字)が併記されている本なのです。文字を目で追うことと同時に音も頭の中に広がっていくのですよ。ネイティブじゃない言語が意味を追うことを遮断。

それがうまいこと音へと意識を向かわせる。日本語の美しい連なりや響きだけが音を導き出しているわけではなく、アイヌの言葉が要になっている。実際のこのテキストがどんな風に唄われていたのかと思いをはせる。You Tubeで検索すれば、すぐにアイヌの芸能や楽器の演奏に触れることができる時代。
夢中になって動画貪る。伝統的な文化を解説するような動画。芸能のライブ。豊富にあるというわけではないけれど、何となくアイヌの言葉や音楽の輪郭をなぞるぐらいはできたかもしれない。音楽を探ってるとやっぱり自分の場合はあちこちに飛んでいく。口承文学から唄へ。そして唐突に楽器。


2020年3月27日金曜日

トンコリという楽器を演奏するOKIという人の動画に出会う。アイヌの意匠が施された楽器。一見、鞘を纏った刀剣のよう。力強い姿。見た目とはちょっと意外なほど繊細な音。日本の楽器。三味線とか。太鼓とか。そういう刷り込まれていたニッポンのものとは、ちょっと違った。

アイヌの衣服や装飾品と同じようにカッコイイ。貧をミニマルの美と開き直ってる文化圏にはないもの。トンコリを奏でるOKIというアーティストの音楽も今までに体験したことのない音世界。なんか上手いこと言えないから抽象的になっちゃうけれど。

北の大地に生きてるアイヌの人たちの日々の生活を営む一つ一つの生命力が連綿と流れてうねりを上げていく。小さな水の滴りがいつか荘厳な流れになっていく。そんな音楽。今やこの世から消し去られたかのようなアイヌの人々の生活と文化が自分の中で立ち上がってくるかのようなリアルさで迫ってくる。


2020年3月28日土曜日

さてと次にマレウレウというアーティスト。こちらは花の配達途中のラジオで知った。ウポポというアイヌの伝統の音楽を今という時代に現出させる女性グループです。アイヌの言葉がテリー・ライリーやスティーブ・ライヒのミニマルミュージックのよう。

言葉のワンフレーズが反復されてうねりをあげる。ボルテージをあげる。これライブで聴いたらすごいんだろうなって。めまいがするほどの音の響き。楽器とかなしだよ。人の声。すごい!!。ってことになる。前に書いたことがあったけど。バリ島のGENJEKを思い起こさせるなあ。

音楽ってジャマイカとか、沖縄とか、キューバとか、バリ島とか。南の開放的な気質が育むように思ってたんだけど。北の音楽も深いんだなって。思えばアイルランド。アイスランド。ロシア。北のイメージあるこの国々。こちらも音楽大国だものね。

ウポポ。言葉をメロディーにのせて歌う。。。的な音楽の概念をぶっ壊す!?ような衝撃受けるかも。人間という肉体が生み出す音の美しさ力強さ。ウポポという音楽。PCで極め尽くすように作り上げられた音楽が超えられない一線を見せつけられているようなことになっちゃうのです。


2020年3月29日日曜日

安東ウメ子という人。彼女の歌声。アイヌの人々の暮らしとか日常とか。そういう風景が淡々と語られるように伝わって来て。言葉の意味は理解できていないのだけれど。心にしみじみと染み入るのです。音としての言葉。改めて意識させられる。言葉を使うコミュニケーションは会話だけではない。

「音楽は国境を越える!」なんて、音楽で収益を上げる人のキャッチコピーとしか思っていなかった。意味のわからない言葉も音楽にのると直接心に届くような気がする。案外、音楽は国境というか母国語仲間の枠を軽く超えて伝播するってのも嘘じゃないような気がしてくる。

怒号をあげる。汗をかく。唾を飛ばす。肉体の可能性をギリギリまで使って表現する。機材のスペックを最大限引き出すことで人の五感を揺さぶる。それも確かにすごいし。そんな風にできるアーティストはそうはいない。でも力で空気を震わせるんじゃない。そんな音楽もあるのだなあと。


2020年3月30日月曜日

安東ウメ子の音楽。自分的にしっくりする言葉。「語り」の延長にはあるような感じがする。これってラップミュージックにも通じる。普段のテンションの会話に興が乗ってぐんぐん言葉を紡いでいく。韻を踏んだり、いろんなテクニックで人の耳を喜ばせるアーティスト。ここで意外なところへ展開します。

アイヌの文化や音楽のことを書いてきたんだけど、本当のところはアイヌのこと表層のことなぞってるだけで何も知らない。大河ドラマ的な歴史はアイヌにもあるのかと意識させられたのはそれも音楽がきっかけ。アイヌの世界にも壮大なドラマがあるのは当たり前なんだけどね。

ノスタルジックなもの。失われそうな儚げなもの。そういう視点からしか感じられなかった。カモクタインやシャクシャインといったアイヌの大河ドラマがあったらまさに主役級の人物。彼らのことを知ったのは実は水曜日のカンパネラの「シャクシャイン」という曲からだった。


2020年3月31日火曜日

水曜日のカンパネラ。学校の授業で習った事象を先端の音楽に乗せてコムアイが語りまくる。今じゃ超メジャーなアーティストなんだけど。最初、聴いた時。けっこう頭が混乱した。これって何?。コミックバンド的な位置にあるアーチストなのかな?。ただ。音楽の質は一級品。

純粋に耳を楽しませてくれるので手に入る限りの曲をipodに入れて聴いていた。音楽を作っているケンモチヒデフミという人の音世界から様々なジャンルを知ることになる。最初の軽く感じた印象はあっという間に払拭された。昔YMOというアーティストがいた。彼らに感じた印象と近いような気がする。
ふざけているようだけど深い。音楽に笑いを取り入れている。世界平和みたいなことを高らかに歌うみたいなのとは違う方法で心を支配してくる。彼らに感じた印象と近いような気がする。力とか技をゴリゴリに出しては叶わないし、ちょっと意表ついて最大限の成果あげて対抗しようとする日本のやり方。

水曜日のカンパネラ、イエローマジックオーケストラ。こういう人たち。その人たちが作る音楽に出会うと、日本という国に生まれたことちょっと誇りに思えたりもするんだ。そんな水曜日のカンパネラのシャクシャイン。今時のアイヌのウポポにも聴こえてくる。逆にウポポがネオヒップホップなのかも。

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