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みなとみらい

月夜のみなとみらい。
東の方向に見ている。
雲がたなびいているものの。
キンキンに冷え乾いた空気。
キラキラに輝く光が闇を引き立てている。
死にたくなるほど絶望的なコンクリートが林立する街を俯瞰してると。
なんでこんなとこにいるのかな?。
どうしてここにやってきたのかな?。
そんな思いもよぎる。
刹那。
そいう初期衝動的なこととか因果関係とか問うこと。
興味も持てないし意味もないってことにして思考を飛ばす。
そんなことよりさ。
どうしてここに這いつくばって生きていくことしか選べない事実に凍結されてんの?。
ってとこが問題だろってことになる。
心というものってなんだかたくさんの色々バリエーションみたいな概念でうまいこと口にできない自分の本質ということにすると。
その心は今生きてるここから東の東京のビル群のもやった巨大な影に心ちぎれるほどの希求で胸焦がされ傍観しつつ。
西は富士山を頂点とする絶対的山並みの世界に自分の知覚できる世界を完全なる無防備さで投影している。
「今ここにいる自分」ってやつは一直線の時間軸に展開する場所にしかいることができない。
「今ここにいる自分」ってやつは「今ここにいる自分」ってやつ以外に砂粒的天文学的な数値で存在しているわけで。
その世界の末端でも垣間見てしまったら。
自分の繰り広げる時間軸から並行に進んでいるお隣さんに飛び移りたい衝動にかられる。
今死んでいない自分が存在してるこの時間やこの場所に窮屈覚えたらほらそういうやばいことになるでしょ。
並行軸は絡み合うことはない。
一見絡み合える感じもするんだけど。
僕は僕だし。
君は君。
ここは横浜。
あそこは東京。
主体としての自分は同時に違う場所に存在することはできない。
そこを越えていこうとなると。
パンドラの箱が開けられたみたいにガチガチの世界がやすやすと溶け出し始める。
僕は君だし君は僕。
僕は横浜にいて東京にもいるし。
生きているし死んでいる。
こういう落とし所まで突き進みかねないので。
ストッパーがかからないと世界と折り合いつけられないよね。
だから自分の思考回路は自由って概念を受け付けない。
リアルに縛り付けられて這いつくばっているという拘束具で守られているんだ。
不幸という感覚が実は超甘い幸福という逆説。
僕らは不幸に守られて幸せに暮らしているんだ。
でもね奇跡が起きて不幸に守られた僕らを引きずり出そうとするお節介アイテムが現れたりする。
それって地雷みたいなもの。
ぼーっと歩いてて唐突に爆発。
めためたにやられちゃう。
やられた自分の肉の塊を見て初めて自分の存在があぶり出される。
もう自分を守ってくる不幸は吹き飛ばされてしまった。
不幸がなくても自分には力あるんだし。
そう簡単に向こう側の闇に陥らない胆力備わってるのかもよ。
そうやって見つけたものそれが自由ってもんなんだ。
そういうことに考へ及んだ猶予な時を迎えて月夜のみなとみらいってのもまた違う感慨あるでしょ?。
僕は君。
君は僕。
僕は横浜にいながらジャカルタにもいるしジュラ紀にもいる。
月になって見下ろしているみなとみらい。
混乱する事実に基づいた世界に揺るがされない自由を憶えて月と人工照明の奏でる音楽を楽しもうよ。

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