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『一九八四年』は「逆」に読むとおもしろい(出口治明)#2

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出口治明|Haruaki Deguchi
立命館アジア太平洋大学(APU)学長。1948年、三重県美杉村生まれ。京都大学法学部を卒業後、1972年、日本生命保険相互会社入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当する。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て2006年に退職。同年、ネットライフ企画株式会社を設立し、代表取締役社長に就任。2008年4月、生命保険業免許取得に伴いライフネット生命保険株式会社に社名を変更。2012年、上場。社長、会長を10年務めた後、2018年より現職。訪れた世界の都市は1200以上、読んだ本は1万冊超。歴史への造詣が深いことから、京都大学の「国際人のグローバル・リテラシー」特別講義では世界史の講義を受け持った。『全世界史(上・下)』(新潮文庫)、『哲学と宗教全史』(ダイヤモンド社)など著書多数。

「名作は時代を超える」。ありふれた言葉ではありますが、疑いようのない真実です。最近も『君たちはどう生きるか』漫画化され、大ベストセラーになりましたが、元をたどれば戦前に出版された本です。

ある脳科学者曰く、我々人間の脳はこの1万年、ほとんど進化していない、と。進化しているのは技術だけで、人間の喜怒哀楽の感情や創造力、判断力などは何も変わっていないのです。古典であっても、未だにベートーヴェンの交響曲やダヴィンチの名作が私たちの心を打つように、素晴らしい文学作品も、また時代を超える。ですから今、古典を読み解く意味があるのです。

『一九八四年』は単なる全体主義批判小説ではない

「ビッグ・ブラザー」という言葉で有名なジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだのは、僕が社会人になりたての1972年のこと。「もうあと12年でこんな世界になるのか、そうなったら嫌だな」と思ったことをよく覚えています。

『一九八四年』の構成をあらためて振り返りましょう。

主人公のウィンストン・スミスが住む仮想の国「オセアニア」は支配者「ビッグ・ブラザー」によって統治され、その手足となる高級官僚層「インナー・パーティ(党内局)」が、インテリ集団である官僚層「アウター・パーティ(党外局)」を監視し、抑圧しています。その下で暮らすのが、普通の市民です。

皮肉なことに、この国ではすべてが逆の意味を持っています。真理省は歴史を捏造し、愛情省の思想警察が拷問を行い、豊富省がわずかな食料を配給する。

主人公のスミスはまさにその監視される対象であるアウター・パーティの党員であり、「真理省」に勤めています。そこで日々行う「仕事」は、歴史記録の改ざんです。真実をねじ曲げる作業を押し付ける体制に疑問を抱いたスミスは、恋人ジュリアと許されない逢瀬を重ね、ついには愛情省に捕らえられ処刑される──というディストピア小説です。

この小説は全体主義に対する批判の書として捉えられることが多く、その意味では、全体主義国家であるソ連が崩壊してしまった今、読む必要はないようにも思えます。しかし、今読んでも十分におもしろい。なぜなら、この作品は単純な全体主義批判に留まらない、人間の本質を鋭くついた突いた作品だからです。オーウェルは、とても賢い人だったのです。

ディストピア小説とユートピア小説は同じものの裏表

この世界では、党のスローガンとして次の言葉が掲げられています。

・戦争は平和である (WAR IS PEACE)
・自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
・無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

僕は、オーウェルの本当の考えを知るためには、この言葉を逆に読み解くべきだと思っています。

「WAR IS PEACE」を逆に読めば、戦争をやってはいけないということ。「FREEDOM IS SLAVERY」は、隷従状態、隷属状態になっては自由は得られないということ。それから「IGNORANCE IS STRENGTH」は、勉強しなければ自由になれないということ。

ディストピアとユートピアは、結局同じものの表と裏です。その意味で、ディストピア小説は教訓小説としても読むことができます。オーウェルが描いたディストピアから、「人間にとって何が大切か」が見えてくるわけです。

ビッグ・ブラザーが現代に与える2つの示唆

この国を支配する「ビッグ・ブラザー」は、ソ連を率いたスターリンをモデルとしているそうです。「BIG BROTHER IS WATCHING YOU」というメッセージとともに権力者の肖像が描かれたポスターがあちこちに貼られ、人々の帰属意識を構築しています。

ビッグ・ブラザーの肖像は2つの役割を果たしています。1つは、国民を束ねる象徴としての役割です。ネーションステートとは何かというと、その基礎原理はベネディクト・アンダーソンが述べた「想像の共同体」そのもの。物理的には存在しない共同体を、国民に信じさせなければなりません。でも、人間は想像力が乏しい動物です。そこで、何かしら具体的なイメージが必要になります。

一番最初にこの「想像の共同体」を上手に使ったのは天才ナポレオンです。当時のフランスは全ヨーロッパ諸国から攻められていました。その頃のヨーロッパの国はすべて王政でしたから、王様を殺して革命を起こしたフランスを放っておいたら自分たちも危ない、と考えたわけです。

そこでナポレオンが何をしたか。「自分たちはフランス国民である」というイメージを人々の中に作り上げ、団結させたのです。そのために利用したのが、あのジャンヌ・ダルクでした。

当時、誰もジャンヌ・ダルクのことなど知りません。ナポレオンが初めて、かつて百年戦争でパリが占拠されフランスが危機に瀕した際、ある十代の乙女が田舎からやってきてフランスを救ったのだと人々に知らしめたのです。そこで用いられたのが、当時発達し始めた新聞というメディアでした。

その結果、ナポレオンはジャンヌ・ダルクと自分のイメージを重ね合わせることに成功します。田舎から出てきた若者がもう一度祖国を救うのだ、自分はジャンヌ・ダルクの再来なのだと。

そうして「自分たちはフランス国民だ」というイマジネーションのもとに団結したフランス軍は強くなり、結果的に全ヨーロッパを制覇したのです。

肖像が人々を束ねる効果を持つのは、単なる歴史上の話ではありません。今でもウズベキスタンに行けば、あちこちにティムールの写真が飾られています。自分たちはあの偉大なティムールの子孫なのだ、と感じさせることでネーションステートを作り上げている。モンゴルの国会議事堂の前にはチンギスカアンの大銅像があり、空港の名前がチンギスカアン空港となっているのも同じ理由です。

日本でも、明治維新の際に、「日本国民」を作るために天皇や皇后の肖像画を用いてイメージを構築していきました。多木浩二先生の『天皇の肖像』や若桑みどり先生の『皇后の肖像』を読めば、明治国家が天皇と皇后の肖像画や衣装にいかに留意していたかがよくわかります。

肖像の持つ役割は何も独裁国家に限定されるものではありません。オーウェルはネーションステートの本質を見抜いていたのです。

ビッグブラザーの肖像がシンボライズするもう1つの役割は「WATCHING YOU」、つまり、監視です。

作中では「テレスクリーン」という液晶が部屋の隅々に置かれ、党員の行動はすべて監視され、つぶさに把握されています。これを読んで、現代における監視社会を想起する人がいるかもしれません。街中に防犯カメラが設置されているだけではなく、Amazonなどで買い物をすれば、購買行動がすべてデータとして記録されます。テロ対策を口実に、国家による個人情報の蓄積も進んでいます。これは、スノーデンが提起した問題ですね。それに対して、「巨大企業の陰謀」や「テクノロジーの暴走」と揶揄する声が聞こえてきます。

けれども技術の進化という観点のみに注目すれば、取れるデータはできるだけ取得し、アルゴリズムやAIの機能を進化させようというのは当然の帰結であり、企業側から見れば合理的な行動です。技術は、価値中立的に、どんどん進んでいく。

だからこそ、人間社会が考えるべきなのは、「We can」と「We should」の使い分けではないでしょうか。

過去にも核兵器、あるいは化学・生物兵器など、「できる」けれども「やらない」と判断されたものはいくつもありました。技術上は可能であっても、あえてやらないという選択肢を選んだからこそ、今の人類の存続がある。これからも私たちは「can」と「should」を選び続けなければならないのです。

僕は、人間が謙虚な気持ちや学ぶ気持ちを失えば社会はおかしくなるということが、『一九八四年』から得られる一番の教訓じゃないかと思います。

自ら学ばないと、「社会常識のコピー」となる

学ぶ、自ら考える、という視点からもう一つ注目すべきは、作中に出てくる「二重思考」という考え方です。「2+2=5」であり、もしくは3にも、4と5にもなりうる、と、市民は信じ込まされています。スミスは自らのノートに「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ」と記すのです。

私たちから見ればそんなことは当たり前だと思うかもしれませんが、必ずしもそうとは言えません。「二重思考」を強制されていない私たちも、自分の考えが、単なる社会常識のコピーになっている可能性が十分あるからです。

有名な話ですが、アインシュタインは学校で落第しています。そのときに、学校の先生は、「君のような社会常識のない子どもは見たことがない。一体、十数年、どうやって生きてこれたんだ」と言ったそうです。

それに対してアインシュタインは「社会常識は、僕が生きてきた、このたった十数年のプロイセン社会の偏見の集合体にすぎません。そんなものを学んだところで、僕の未来には何のプラスにもならない」と答えたそうです(あまりにできすぎた話のようにも思えますが)。

今の世の中は技術の進歩によって、社会常識が私たちの意識下に巧妙に忍び込むようになっています。技術が進化すればするほど、広告と気づかないうちに商品が広告され、資本の考え方が自然に市民社会に浸透していきます。だからこそ私たちは、ゼロベースで自ら学び、考えるクセをつけなければ、自分で考えたつもりが単に社会常識をなぞっていた、ということにもなりかねません。

「We can」と「We should」を識別できるような人になるためには、きちんとすべての物事を原点から考える力を養っていかなければならないのです。

哲学者パスカルが「人間は考える葦である」と述べたように、人間と動物の違いは、考えるかどうかにあると言っても過言ではありません。ただ、人の脳が進化しないまま、技術だけがどんどん進歩していく。そのギャップの狭間で人間は悩み、考え、歩みを進めてきました。今、「AIによって人間の仕事が淘汰される」と声高に叫ばれていますが、産業革命のときもそうだったように、そうたやすく人間の仕事がなくなることはないでしょう。

ただ、脳が進化していないという事実を捉えれば、人はまた同じ過ちを犯す可能性が非常に高い。しかも、技術が進化したことで、たった一人のミスが社会全体に影響を及ぼす時代になっているということでもあります。

そう考えれば、『一九八四年』から我々が学ぶべきことは、「IGNORANCE IS STRENGTH」の真逆である「KNOWLEDGE IS POWER」「知識は力」です。謙虚な心で不断に学び続けなければ、進化を続ける技術を上手に制御することはできないでしょう。

・戦争は平和である (WAR IS PEACE)
・自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
・無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

この3つのスローガンを反面教師として、私たちは現代を生き抜いていくべきなのです。
(構成:大矢幸世) 

【NewsPicks Publishing Newsletter vol.2(2019.12.28配信)より再掲】

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