【米国エネルギー省】 広島長崎は原爆実験だった


つづき

つまり、1945年8月の日本の都市への原爆投下から35年後、核兵器を担当するエネルギー省は、原爆投下を "実験 "と分類していたのである。

その後、この分類は変更された。明らかに、潜在的な広報上の問題を回避するためであった。

しかし、広島と長崎への原爆投下は、実際にはさまざまな意味で実験 だった。

マンハッタン計画の責任者であったレスリー・グローブズ元帥はこう回想している:

「爆弾の効果を正確に評価するためには、空襲で被害を受けたことのない標的でなければならない。また、爆弾の威力をより確実に決定するために、最初の標的は、被害がその中に限定されるような大きさであることが望まれた」

マンハッタン計画の物理学者デビッド・H・フリッシュは、米国の軍事戦略家たちが「政治的に効果的であるだけでなく、技術的にも測定可能な場所で最初に爆弾を使用する」ことを熱望していたことを記憶している。

ハリー・トルーマン大統領が、広島への原爆投下を「日本陸軍の重要な基地」とだけ説明した声明を発表したときから、核の時代に関する社会的な議論が始まった。それは明らかな嘘であった。

日本への原爆投下に関する研究の第一人者であるジャーナリストのグレッグ・ミッチェルは、こう指摘している:

「広島は "陸軍基地 "ではなく、35万人の都市だった。広島には重要な軍司令部があったが、原爆は都市の中心部、それも工業地帯から遠く離れた場所を狙って投下された」

ミッチェルは、「おそらく1万人の軍人が原爆で命を失ったが、広島で亡くなった12万5千人の死者の大部分は女性と子供だっただろう」と付け加えた。

その3日後、長崎に原爆が落ちたとき、公式には『海軍基地』と説明されたが、9万人の死者のうち軍人は200人にも満たなかった。