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5 一日の過ごし方

この数日、ネットにアップされている日本人巡礼者の巡礼記を読んでいる。巡礼路や巡礼宿などの写真もたくさんある。しかし、あ〜懐かしいと思える描写や写真がほとんどない。まるでない。

それよりも自分の巡礼体験の残滓として残る心象の方がはるかにはっきりしている。心象を思い込みと言っても良いだろう。すでに自分の心の癖によってかなりデフォルメされているきらいがあるからだ。

スペイン巡礼の記憶だって、たった17年の時を経てこれだけ風化しているのだから、これまでの人生の記憶なんてずいぶん怪しいものだ。

前回書いたように、ナイキのテニスシューズがぼくの足に合わず、特に歩き方や足の形によるのか、左足の親指、人差し指あたりがとても痛くて、なるべく痛くないようにそろりそろりと歩いていた。景色どころではなかったとも言えよう。

ぼくの歩くペースは、

・朝5時半起きまだ暗い6時出発

・8キロ歩いてはカフェやバルで15分ほど休息し水分とスナック補給

・もちろん路上脇の場合もあった

・それを大体4回繰り返すと32キロ

・間に15分ほどの休憩が3回入る計算

・そして、この32キロ前後で巡礼宿を探す

さて、この巡礼記なのだが、実はこの数年後にもう一度このフランシス・カミーノを歩いたので、それらの体験が混ざって記憶はさらに曖昧だ。だから、この巡礼記はある意味フィクションでもある。

サンチャゴ巡礼をはじめた動機。覚えているのは、ある日いきなりサンチャゴ行きた〜いという意欲が湧いたのだ。なんでサンチャゴなのかその時は知るよしもなかった。この巡礼記は書きはじめてまだ数回目。まだ、本当の理由を人様に明かす、そんなに勇気も湧かない。サンチャゴ巡礼を思いたったその真の理由というのはしばらく欄外においておきたい。

さて、今日はサンジャン(SJPP)、ピレネー越えの後に出てきた修道院、パンプローナに次いで巡礼4日目となる。距離にして31キロとグーグルマップ。

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途中、有名な石橋のある町、Puente la Reina プエンテ・ラ・レイナ に着いた。道の途中であったフランス人の初老のおじさんと歩いていたら、その町のカフェでなぜかオレンジジュースを奢ってくれた。残念ながら、もう彼の名前も顔を覚えていない。もしかしたら、あの当時にたぶんとったであろうノートには何か手がかりが残っているかもしれない。実家に置いてあるのはずなので機会があったら読み返してみたい。(なかったりして💦)

この町には留まらず、そこからしばらく歩いた町の名前がついた巡礼宿スタンプが残っている。日本語読みだとシラウキとグーグルマップに出てくる。

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マップに掲載されている小高い町の写真をみるとなんとなく思い出が蘇る。

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橋を越えてしばらく歩いていると急に出てきた町だった。大体パンプローナから30キロの距離でその日の巡礼を終えるにはちょうどよいタイミングだった。

徒歩巡礼の計画の仕方は風まかせだった。フランスで買い求めた英語の黄色の巡礼ガイドブックには、写真はほとんどなくて、カミーノ・フランシス上にある町から町へのルートと、そのルート上にある巡礼宿、見どころ、カフェやバル(居酒屋)などが書かれていた。自分が事前に得られる予備知識はその程度だった。

・丘の上にあるカフェでカフェラテ(スペイン語:カフェコンレチェ)を飲んでいたら、巡礼者が通り過ぎていく

・中にこの町にも巡礼宿があるという人がいた

・小さな教会と修道院を使ったような巡礼宿があった

・夕飯と朝食が付いたドナティーボ(お布施)で運営していた

・スペインの物価や相場を知らないので金額を決めかねた

・お布施が少なくて困っているというようなことをオスピタレーロ(巡礼宿の管理人)に言われてちょっと考えこんだ記憶がある

・当時は3〜5ユーロがベッド一泊分の相場

・で15ユーロお布施したと記憶する

・15人ほど巡礼者がいて和気あいあいとした雰囲気だった

日本でもそうだが、まだ交通が発達していなくて、人の旅行が少なかったときは、知らない人同士が旅先ですれ違うと声を掛け合ったり、ちょっとした会話をするのは当然だった。それがだんだん社会が豊かになり、町に人と情報が溢れ、たくさんの人が旅行するようになって人は疎遠になっていった。

ところがカミーノ上の巡礼者たちは、いわばサンチャゴを目指す旅仲間なのだ。もう幼稚園、小中高ののりにもどる。それにしてもなんであれほど和気あいあいとしているのか不思議なくらいだ。カミーノですれ違っただけで、国も年齢も性別もそれまでの人生のしがらみも一気に越えて一気に仲良くなれる。不思議だ。人間は本来こういう性質のものだったのだろうと思わせる。

それは何人かの日本人の巡礼記を読んでも一目瞭然だ。

つづく