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スペイン巡礼の副次効果

昨年、17年も前にやった(それとその2年後に再度)巡礼について自分なりのレビューをしてnoteにまとめた。何のメモも写真も残していなかったので、書きだすことができたのは自分のクレデンシャル(巡礼者手帳と日本人は呼んでいる)と記憶に残った断片でしかなかったが、それでも自分なりにヒィーヒィー言いながら僅かな記憶を掘り起こしたのは我ながら良かったと悦にいっている。

それまで1日10キロ以上歩いたことのない人間がいきなり20キロ、30キロと、しかも足に障るスニーカーで歩いたのは、まさに地獄図だった。途中でSOLOMONトレッキングシューズを見つけたのは不幸中の幸いだった。

そして、2年後、二回目の巡礼を歩いている途中、ついに途中で燃え尽きて林の中でへたばった。1時間ほど仮眠を取ったら治ったが。そして、その時確かに覚醒したと思った。というか自分のスペイン巡礼のスタイルがまるで他人事のように冷静にみられた。

簡単に言うと、期限もお財布もそれほどタイトでないのに、なぜ、食べ物や他の巡礼者との語らいや景色や風物を楽しみながら歩いていないのか。なぜ、それほど自分を追い詰めるように歩いているのか、という自分から自分への冷静で忌憚のない指摘であった。そして、それはなんと、それまでの生き方の縮図であった。なぜそれまでそんなことを自覚し、意識できなかったのか不思議なほどであった。林の中で1時間ほど仮眠した後に神が降臨して、ささやいた。覚醒と言ってもいいだろう。

実は、ほぼ毎年のように帰国した折に高野山にお参りに行き、ユースに泊まっっていた。そのとき四国巡礼を終えて上がってくる日本の巡礼者(こちらは四国一周1400キロという膨大な距離だが)から似たような体験を聞かされていた。まさにそれが自分にも起こった。しかも、距離的にはそれに近い距離を歩いている最中に起こった。もしかしたら四国巡礼は修行だと言われるが、覚醒も修行の一環としてプログラムされているのかもしれない。

スペイン巡礼は今では空前のブームでアリの熊野詣化している。それに比べ巡礼者が少なく、ボッチ巡礼になりがちな四国巡礼の方が覚醒には向いているかもしれない。

毎日休まないである距離を歩こうとすると、自分の歩き方、それを形作っている人生のありよう。生き方の癖と言っても良い。それが出る。それは簡単に言えばカラダやココロへの偏り疲労となって出てくる。するとどうしてもカラダの弱いところにある種の異常として現れやすい。そして、それはそれまでの人生においても自分をマイナスへ導いていることが自覚できた。(詳細はnoteに残した巡礼記に譲りたい。)

安保徹先生の著書「病気にならない生き方」三和書房が、後からそれを原理的に説明してくれていると発見した。巡礼後10年近く後のことである。

以下のnote主もスペイン巡礼に行かれた後にリウマチを患っていらっしゃるようだが、もっとゆっくり余裕を持って再巡礼されるとぼくと同じような覚醒をされるのではと察する。ぼくが二回歩いたのも一回では何かが欠けているように思えたからだった。それは覚醒機会を得るには800キロではちょっと短すぎると言うことだろう。特に巡礼者で溢れる巡礼路につきまといがちな社交を持ち込んでしまうと、意識が日本にいたときの通常意識に戻って覚醒を得る邪魔になるのではと思う。

以上