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自分を主語にする勇気を持とう。

自宅での筋トレ中、BGMの代わりに流していたYouTubeから「あなたの人生から捨てるべきもの」という、自己啓発ジャンルによくありがちなテーマでのトークが流れてきた。

内容は非常に納得できるものだったし、話し手の軽妙なトークスキルと落ち着いた声質も相まり「良い動画だったな」と素直に思えることができた。

ただ、いわゆる「成功者」の立場から、成功をしていない(人生に満足いっていない)であろう人たちに向けたメッセージを、その視聴者はどう受け取るのだろうかと気になってコメント欄を見てみたら、案の定というか、予想通りのコメントがそこには広がっていた。

「あなたの意見はここが間違っていますよ」
「このように訂正すべきです」
「良い動画でしたが、この部分はこうじゃないですか?」

もちろん、YouTubeのコメント欄が解放されている以上、自由に意見を言う権利はそこにしっかり存在する。

また「誰かの意見を批判したり、誰かの意見に疑問を持ったりしてはいけない」という道理ももちろん存在しない。

健全な意見交換を通じて、1つの意見は成熟していくものだし、異なる意見をぶつけ合うことで、より建設的で魅力的な意見が生まれることも多い。

ただ、YouTubeのコメント欄に「あなたの意見は間違っています」と書く人の人生が上手くいくかというと、それは別問題だし、残念ながらそうは感じられない人が多いのも事実ではないだろうか。

そもそもYouTubeの10分足らずの動画や、書店に平積みされている自己啓発本の類は、大量のビューを集めることが目的とされている。

つまり、万人にウケるように抽象度を高めに編集されたものであり、特定の誰かの悩みを解決したり、特定の誰かの人生をピンポイントで成功に導くような性質のものではないのだ。

また動画の内容的にもそうである。

「人生で捨てた方がいいもの」とは限りなく主観的な主張であり、1+1=2だとか、酸素と水素を足したら水ができるとか、徳川幕府の8代将軍が徳川吉宗だとか、そういう客観的な事実とは大きく異なる。

だから、誰かの主張に対して「あなたの意見は間違っている」と意見することにそんなに意味はなく、主張とは合っているとか間違っているとか、そういう類のものではないのだ。

もちろん「世界最高のゴールキーパーはリバプールのアリソンだ」という主張に対し「いやいや。そこはアトレティコのオブラクだろ」と別の主張をぶつけるのは健全な意見交換だと思う。

重要なことは「主観的な主張」なのか「客観的事実」なのか、その境目を見失わないことだ。

基本的に人生論には唯一の正解はない。

よって「たった1つの正解」を求めて右往左往したり、自分の信じる正解に縛られていても、いつまでも自分なりの成功や幸せに近づくことはできない。

誰かの人生論に納得ができなければ、自分の主張を声を大にして発信すればいい。それこそ同じようなタイトルで動画を作ってYouTubeにアップしたり、noteに書いたりすればいい。

そのハードルが高いのであれば、コメント欄に意見を書くにしても、堂々と「自分はこう思う」と書けばいい。

自分の主張に、あるいはそれを発する自分自身に自信がないからといって、ありもしない唯一解を持ち出すと、自尊心が満たされたり、あるいは「この人に勝った」と思えるかもしれないが、後から襲ってくる反動は大きく、さらに自尊心が傷つき自信も無くしてしまう。

よく誰かを批判するときに聞く「みんなも言ってるよ」とか「みんなもそう思ってるはずですよ」とかも同罪だ。

自分がそう思うなら、堂々と自分の意見としてそう言えばいい。

自分を主語にする覚悟を追わずに、ありもしない正解とか、存在しないみんなを持ち出して一般論を語っていても、人生の主導権をいつまでも握ることはできない。

簡単なことだ。主語を自分にする勇気を持とう。

ちょっと勇気がいるかもしれないけど、5秒もあれば誰でもできること。

その5秒の勇気が人生を変えていくんだと思います。

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