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『実力も運のうち』をテーマに哲学カフェを行ってみたら…

マイケル・サンデル教授の近著『実力も運のうち』をテーマに哲学カフェを行った。概略報告は下記にまとめた。

ここからは私の濃厚な主観的な感想と、ちょっとしたライフヒストリーである。下記のツイッターのスレッドの内容をリライト・編集した上で掲載する。

『実力も運のうち』を読んで思い出したのは、私の地元の富山県朝日町の町会議員選挙の風景だった。30年以上前のことになるが、公職選挙法も緩かったのか、飲めや食えやのどんちゃん騒ぎで、4年に1度行われる夏祭りのようだった。私の両親も有給休暇を取ってご近所の議員さんの選挙活動を手伝って、母に至っては「ウグイス嬢」(死語かもしれないが)を担当していた。

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8月に行われていて、私の子どもの頃の夏休みを彩る思い出だった。誰々のおじいちゃんが出ているというノリで、当時の定数は把握していないが、今の倍くらいあったような記憶がある。地域に一人議員が選ばれているような状況で、地域代表戦の趣があった。狭い街の交差点で選挙カーのニアミスなど度々で、バチバチのバトルの選挙戦で盛り上がっていた。子どもで何も分からないながらも「がんばれ~」と面白がって声をかけたものだ。

しかし、そこにいわゆる政策論争などは全く無く、パブコメなど気の利いた意識の高い政治参加をする人など誰もおらず、土人の祭りに過ぎないと揶揄する向きがあるのは百も承知だ。

その一方で、その後の公職選挙法の締め付けと議員定数削減は、人びとを政治から疎外する大きなきっかけになったように思う。人口減少が進んでいるとは言え、人口減少比よりも大きな定数が削減されたし、そもそも市町村合併が進んで自治体数が大きく削減されて、それに伴い議員数が激減した。

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(グラフは東京新聞の下記記事より)

「政治とカネ」の問題が取り沙汰されるようになり公職選挙法と議員定数削減が行われたが、それは能力主義と新自由主義の台頭と、軌を一にしているように思う。「政治とカネ」を強くPRしたニュースステーションが始まったのは1985年であり、プラザ合意による円高が始まった重要な年である。

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「政治とカネ」をPRすることによって、能力主義に基づく政治のテクノクラート化が始まり、議員定数削減と公職選挙法の締め付けが始まり、学歴のない者が政治から疎外されるようになったのだ。

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近年投票率の低下が喧伝されるが、それは理の当然で、地方在住の議員数が減らされて、学歴保持者による政治の専制(上掲書の原題は「能力による専制」である)が行われたからである。

かつての政治はお祭り騒ぎの延長に過ぎず、金がかかりすぎるなど様々な弊害があったのは間違いないが、それが人びとの紐帯を結んでおり、有識者による政治の専制を防いでいたのである。

マイケル・サンデルは上掲書で90年代以降の欧米での学歴保持者が政治を専政する事態をリアルに描いているが、それは私の子ども時代の経験と照らし合わせても、納得のゆく話なのである。

今の政治は本当に人びとを疎外しており、貴族制と能力主義と新自由主義の合併による人びとの分断という惨憺たる事態を招いている。分断に橋をかける必要があるのだが、「共通善」(common good)というサンデルのコンセプトの語感は少し弱いと思う。

日本語のせいかもしれないが、下記の記事で仲正昌樹氏が指摘しているように、〈Good〉の「暑苦しさ」という契機がもっと全面に出るといいと思う。

政治とは本来暑苦しい鬱陶しいものである。その暑苦しさに蓋をして、私たちはいともかんたんに「政局よりも政策」とスカしてきたのではないだろうか。それがエリートによる専制を招いたのである。

今更暑苦しいお祭り騒ぎを再来させるわけにもいかないだろうから、「政治はタブー」などと言わずに、一人ひとりが暑苦しく己の価値をぶつけ合うところから始まるのではないだろうか。

コロナ禍という環境下、対面で飛沫を飛ばして議論というのも困難だろうから、いわゆる「エコーチェンバー」にならないように、SNSで違う意見の人にフォローをして違和感を覚えるところから、この衆院選を迎えてみるというのもありかもしれない。

他者はみな薄皮一枚めくれば、暑苦しく違和感を覚える気持ち悪い存在である。自分の小さな「箱」から脱出する必要があるのではないかという自覚から政治が始まるのだと思う。

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