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ヘブライズムと超越論的世界観(5)

ヘブライズムと超越論的世界観についてお話を続けています。

1.素朴実在論の否定

2.人間の「主観性」の尊重

3.相対主義

という、ヘブライズムと超越論的世界観から生まれる3つの態度についてお話しており、2.人間の「主観性」の尊重について説明してきました。

今回からは3.相対主義について説明します。相対主義とは、一言で言うならば「それぞれが立つ位置によって見え方が異なる」ということです。

もちろんヘレニズムの思想の中にも、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という説のように相対主義の伝統はあります。しかし、ここではヘブライズムの超越論的世界観の文脈で相対主義を説明します。

前々回の記事ではカントの超越論的哲学を説明しました。そこでは、主観が認識内容を構成するというコペルニクス的転回が言われました。前回の記事では現象学の超越論的還元について説明しました。そこでは、フッサールが原初的な直接体験に回帰するためにエポケー(判断停止)が重視されました。

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その文脈で相対主義を説明する代表的なな哲学者はニーチェです。ニーチェは「遠近法」を提唱しました。つまり、すべての認識は遠近法でしかないと強調しました。彼が言った「神は死んだ」ということもそこから説明できます。

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カントの超越論的哲学や、時代的に後になりますが現象学の超越論的還元を極めると、ニーチェの言う遠近法にしかならないわけです。

つまり、カントの言うように主観によって世界が構成されるものであるとするならば、世界は主観の数だけあることになり絶対的な真理は存在しないことになります。もちろん、カントは物自体という仕掛けを設けて絶対的真理の救済を試みていますが、結局それは認識できないわけで、正義も善悪も個人の内面の中で決めることとなってしまいます。

現象学的還元にしても同様で、原始的な直接体験が重視されると、マッハの絵のように世界は個々の見え方でしかなくなるという言い分を認めざるを得なくなります。もちろん、フッサールは直接体験を諸科学の基礎づけとしようとはしていますが、個人の経験を出発点とする以上、ニーチェの言うように世界は遠近法によってしか見えなくなるということになります。

ニーチェによって暴かれた遠近法=相対主義=ニヒリズムの問題は、功罪ともに現代にもとても大きな影響を与えています。

次回はその点について触れて超越論的世界観についての説明をまとめます。

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