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千葉正也さん「横の展覧会」@シュウゴアーツ

部屋ごと90度横倒しにされたように、床から壁、天井に至るまでアーチの如く配置された作品群を眺めていても、平衡感覚を失うことはないけれど、撮ってきた写真を見返していると、その作品が空間のどこにあったのか、そして自分がどこからそれを撮ったのか何とも曖昧で、宙に浮かんでしまったみたいな、足元のおぼつかなさに驚いてしまう。それは、シュウゴアーツの、壁はもちろん床も天井も白く、四角いかまくらみたいな空間も作用していると思うけれど、作品が壁に、 “正位置” で掛けられているようについ補正してしまう認知の働き、その強さも感じさせる。
この感覚は、作品に仕込まれたQRコードを読み取り、スマホで映像を見る時とも通ずる気がする。ギャラリーの出入口から見て左手の壁に一番低く掛けられた作品 (それでも、絵を掛ける時の “一般的” な高さよりは高めではあったけれど) 、台に載った棒がクロスしていて、その交点や先端に球の付いた力学的な光景を描いた4つの小さなキャンバスが、パネルにV字に嵌め込まれ、その “V” の角の辺りに、柳の下にでも立っていそうな古風な幽霊が描かれたドローイングに付されたQRコードから (たしか) 見られた《sage sophy》や、二番目の部屋に床置きされた、“ハート” が3つ飛び出た作品に貼られた《物 #1》、《物 #2》が横向きの映像だった一方、その他の《光》、《6》は縦向きで、それらを見る時に何気なくスマホを立てたり倒したりして、大きく見やすい画面に調整していたけれど、その時の反射的な手の動きが、写真でこの空間を再度訪れた際に、頭の中でも起こっているようだ。

1葉の写真にしろ、スマホにしろ、手の中のイメージは容易に回転させることができて、それは何だか、横倒しの画面に佇む幽霊のごとく、上下の無い世界を自由に浮遊しているようだけれど、実際の空間、特にこの空間ではそうもいかなくて、床の作品をかがんで見ていると足は痺れ (そして、立ち上がると微かな立ちくらみ)、壁に掛けられた作品の前では上半身ごと首をかしげたり、天井の作品は腰と首を反らせて見上げたりして、身体の痛みを合図に止めるように、ひとつひとつの鑑賞に “抵抗” が設けられている (場所によって照明の当たり具合が変わるのも、その内に含まれるかも知れない)。
一方で、普段はあまり見られないキャンバスの上部を覗けたり、上下さかさまの状態を、少し回り込めば簡単に作ることができたりして、一様に並び、どの作品も同じように見ることができる “気楽な” 空間とは違った、この空間ならではの自由もあるものの、それにはやはり身体を使うことが求められる。

また、キャンバス作品とドローイングがペアになっていて、そのドローイングの中に、手のひらにふたつみっつも載りそうなほど小さなキャンバス (そしてそこには、片割れと似たモチーフが描かれている) が嵌め込まれていたり、先述のようにQRコードが付されていることは、“遠さ” も生み出している。特に天井の作品は、小さなキャンバスを視認することはできても、その細部まで見ることはできないし、QRコードがあっても読み取ることはできない。それはあくまで私の視力やスマホの性能によるものだけれど、作品によって近づけるものと、遠目に眺めるしかないものとがあって、その隔たり自体も、個々人によって変化していくことは、景色を眺めている時に、私ならあの木の辺りまでしか行けないと感じるところを、登山家の人なら、奥で霞む山の頂上まで行けると思うかも知れないこととも通じているようで、この横倒しの空間は、見ること、考えることを、頭から身体へと戻してくれる場だと思う (ちょうど、水準器を倒して、その気泡を上端から中央の目盛りへ移すように)。


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