死への恐怖
ただのアウトプット
息子の体調と自分の体調と向き合うここ1ヶ月
子の呼吸が苦しそうなのを見るとき、
自分の胸の辺りもぐっと苦しくなる
自分の呼吸も浅くなる
隣で眠りにくい、自分も寝不足になる悪循環
その不安な気持ち晴れない気持ちと向き合う
小さな不安感を突き詰めた先は
死ぬことへの恐怖
子が死んだらどうしようと言う恐怖
死んだらどうするの?
どうもできない。
どうにもならない。
何があった時どうしますか?
それでも自分の人生を生きられますか?
人生でどんなことが起ころうが、
何があろうが
自分のことを幸せにできる自信があるかどうか、そう言う覚悟はありますか?
今私にとって1番悲しくて恐いことは子どもが死ぬことなのだと思う
次に子供が小さいうちに自分が死ぬことかな
成長を見れないこと
自分の単体の死は怖く無い
私が死んだとしてもきっと夫は心配ない
自立した人
子も色々あるだろうけど、
助けてくれる人が近くにたくさん居るし
大変でもどうにかなるだろう
どんな苦しみが彼を襲おうと、
彼も彼で幸せになれるだろう
そして万が一があったとして
多分死は最大の苦しみでは無い
むしろこの世で生きることの方が本当は苦しみが多いのかもしれない
この世の苦しみから解放されるだけだ
どうせ苦しみの中にいるのならば
できるだけ楽に、楽しく生きられる道を探す方が良くないか?
どちらにせよ上手く行くし
どちらにせよ寿命の通りにしか生きられないし
だとしたら今の選択をどうする?
でもどちらにせよ生きるとしたら
そんなに恐れず
今できることをやればいいのでは?
死ねる寿命があると言うことの幸せよ
どちらにせよ幸せな場所に戻るのだから、
悲しみも苦しみも痛みも今だけなのだから
そして時間と共に癒えるのだからと
おじいちゃんの死が教えてくれた
そして母が死んだら生きていけないと思っていた私はもういないし
自分の死が怖かった自分ももういない
常に変化を続けるのだから、
どんな苦しみにも終わりがあるよ
苦しいというのは生きていると言うこと
終わりがあることの喜びよ
そしてその苦しみは本当は誰のもの?
苦しいと言うことは今生きていると言うこと
その苦しみの視点から、
ふっと目線を変えるだけで生きている実感に変えることができる
それが自分の自由な世界の受け取り方であり、それができるということ
嘆くも幸せを感じるも紙一重であり
自由であると言うこと
悲しみに浸るということはつまり
生に浸っていると言うことでもあるのだ
苦しみや痛みは感じやすい
苦しい記憶の方が残りやすい
それは命を守る手段として
自分を守る手段として、
長い戦いの中生存本能として恐怖心を働かせてきたから
それはそれで当たり前
だから幸せを感じるには少し努力が居る
幸せの方がずっと感じにくい
知恵と工夫がいる
でも必ずできる
その恐怖心をしっかりと見ること
そして安心できるように声をかけてあげること
そして少し見方を変えれば幸せというのは珍しい物ではなくコロコロそこら中にありとあらゆるところに転がっているものなのだ
ただ気づくだけなのだ
(息子も私も元気)