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どれもこれも愛である

【どれもこれも愛である】
人間関係のパターン

自分のモヤモヤなど感情の動きから、
自分の不快な人間関係パターンがはっきりと見えてきた

ここ一年くらいガッツリ向き合い、
自分のドツボにハマるパターンがわかってきた

登場人物はたくさんいる
でも、全て面白いくらいに同じパターンだ

そして、それらの元は全て愛である
優しさ、心配、思いやり、好意、善意
愛の形をしてやってくる

それらに乗ってくるエネルギーの違いがこれまではわからなかったが、
少しずつわかるようになってきた
"重さ"で判断する

自分の輪郭、重さが少しずつわかるようになってきた

今の私にとって
これは重たすぎる、
これくらいなら持てるかな
これは私の欲しい形と違うかな
これもいいけど今は違うかな
そうやって自分が潰れないように
今の自分に合ったものを判断していく

それが他人との境界線の引き方だ

境界線さえわかっていれば大きなトラブルになることは無い
それがわからなくて踏み込ませすぎた時に苦しみが生まれる

それらの愛に対して境界線を引くときに
【恐怖】はまだ少しだけ湧いてくる

相手の言うことを聞かないと
相手の正解に合わせないと
いい子でいないと
自分には価値がないのではないか
愛されないのではないかと言う恐怖

でも私にできることは
シンプルに自分に素直になること
自分がこうしたいと言う思いに
言動を一致させること
それ以上のことは自分にはできない

そこから先、
相手の反応はこちらもコントロールすることはできない
悲しまれても、怒られてもそれはその人の問題だし、今の私は私の内側から素直に感じる感情を無視することはできない

自分が自分の道を選ぶのに敵対する必要はない

相手へのコントロールも手放すことは
相手への信頼でもある
その人はその人で自分の感情と向き合うことができるし、
私は私と向き合うことしかできない

恐怖を超えて自分に素直に生きていく

手放すものは【罪悪感】
それから【被害者意識や加害者意識】

怒りも悲しみもネガティブなものも含めて
全てのものの大元は愛であるが
私のめざすところは
コントロールの無い、自由な愛

ずっと
愛されることと自由は両立しないと思い込んでいたことに気付いた

愛されるならば、引き換えに
自由を手放さなければならない
自分の行動や言動を制限しなければならない
なにかを犠牲にしなければならない

観念を見つけてあげたならば
自分で縛ったものだから自分で緩められる

自分の生きたい世界は自分で決める
"愛し愛され自由な世界で生きる"

それが欲しいならばまずは自分に与えること
そして他人にもそう接すること

無条件に自分の選択を許していく
相手に対しても、あなたがどんな選択をしてもそれを尊重するよ、という姿勢でいる

自由を与えられたとき、
深い信頼を感じる
自由と愛はイコールだったことに気付く
自分の深く握りしめていた観念は思い込みだったことに気付く

それは少し前の私なら"冷たい"とか、
"無関心"だと捉えていただろう

失敗も成功も無いのだから
自由にしたらいい
なんでも経験したらいい
道が一本しかないわけがないのだ
何もかも、実体験からしか学べないのだ

コントロールされるということは
自分の価値を外側に依存していたということ

つまり大元の原因は自分の中に在る

自分が認められたい、認めて欲しい
他人への依存心があったということ

誰かに認められないと価値がないとか、
わかって欲しいとか、
そう言う気持ちが強いと
相手の中の正解を探してしまう

相手と"違い"を見つけると拒絶されたような気持ちになる

承認欲求は自分で満たせる

誰かにわかって欲しい
認めて欲しい
理解して欲しい、
と言う気持ちがあったとき、
それを1番否定して認めていないのは自分だったりする

自分の話を自分でよく聞くことで、
外に求めなくてもよくなる

自分で自分を理解し認めてあげたとき、
自分の中に大きな安心感がうまれる

【どれも愛である】 

どれも愛だけれども
どれもそれぞれ良いけれども
私は選ぶことができる

コントロールの無い愛
無条件の愛をを目指したい

自由で且つ愛されている
ということが成り立つ世界に生きる

誰のせいにもせず
被害者にも加害者にもならずに生きる

#自分のための
#アウトプット
#記録
#日記

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