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国家が自国民の保護を放棄した時に、外国人に何ができるのか

今週、ショッキングな事件が発生しました。チッタゴン丘陵地帯において、4人のジュマ若手活動家が銃殺され、加えて3名が誘拐されているということです。

これはただの事件ではなく、様々なメッセージを持っていると考えます。

チッタゴン丘陵地帯国際委員会の声明によれば、襲撃したグループは軍を後ろ盾とした武装自警団であるとされています。本来、国民を保護する役割を持つ存在が、その意志に反した活動を行なっていることに政治性と恣意性を感じます。

チッタゴン丘陵地帯国際委員会が発行した声明は、ジュマ・ネットのWebサイトにて和訳しています。事件に関しても詳しく書かれておりますので、ご覧ください。

この一報を受けてから、複雑な気持ちが入り混じっています。そこで、今回はこれを記録に残す中で整理しようと思った次第です。(情報も明らかになっていないものも多く、現時点での整理となりますため、今後大きくこの内容に変更が及ぶこともあり得ることをご了承ください)


何が起こったのか

12月11日午後10時ごろ、チッタゴン丘陵地帯のカグラチャリ県で4人の若手活動家が銃殺されました。4人は少数民族政党の一派に属する若手であり、丘陵学生組織と呼ばれる政党の若者組織リーダーを務めていた者も含まれています。当時、4人は青年会議を主催しており、そのために民家に滞在していたといいます。事件を起こした自警団は、軍が後ろ盾となっていると指摘されています。
この事件に対し、15日にはインドのチャクマ・コミュニティ団体が4名の軍人の関与を主張する声明を発表し、国連及びアメリカに対して関与した軍人の国連平和維持活動への参加の禁止とビザの制裁を課すことを求めています。

この事件が持つメッセージ

1970年代中盤から低強度紛争へと突入し、1997年の和平協定以降も争いが絶えないこの地域では、こうした事件が少なくないことも事実です。ただ今回は、いくつかの点で特別なメッセージを発しているような感覚です。
それらを整理してみようと思います。

⑴ 政治行動に対する容赦ない姿勢

まず、事件を起こす動機を考えたときに頭に浮かぶのは、総選挙を目前に控えるタイミングであることです。今、政治的なモチベーションが高まる動きは抑えたいという意図が働いている可能性は考えられます。ただ一方で、必ずしも政権と軍の意図が一致しているとも限りません。

そうでないとした場合、他に考えられることはリーダー層、いわば次世代の政治活動家であったという点です。

⑵ 将来のリーダーシップの芽を摘む暴力的排除

私はちょうど今年の9月、バングラデシュの首都ダッカで同政党の若者リーダーたちと対話を行いました。彼らとの対話を通して、平和への希望は若者にあるかもしれない、という気持ちが芽生えていた矢先の出来事でした。
和平協定から25年が経ち、事態が極度に硬直化する中で、新たな価値観、そしてしなやかな交流関係を持っている若者たちは、政党を超えた結束の可能性が残っているのではと思ったからです。

一方で(今回、後援していたとされる)軍にとって、ジュマの団結は都合が悪い事柄です。そのため現地では、軍がジュマの分裂を促す工作をしていると囁かれています。それはイギリス植民地時代に行われた「分割統治」そのものです。
結果、1997年の和平協定以降、大きく5つにまで分裂しているジュマの勢力は、血を血で洗う争いとなっています。ジュマ内部で分裂と争いをしている限りは、勝手にジュマ社会が弱体化していきます。軍側は、この地域が不安定であればあるほど駐屯の正当性が高まり、軍の必要性は上がり、政治的影響力を確保することにつながります。

こうした文脈の中で、若手活動家が恣意的に標的にされた可能性が考えられます。彼らが暴力によって排除されることは、次なるリーダーが立ち上がる気力すらを失わせることになりかねません。立ち上がれば暴力で排除するというメッセージを見せつけたことになります。

視野狭窄にならないために

この一件は、私自身にとっても非常にショッキングな事態でした。もちろん世界を見渡せば、ウクライナやガザを始め、毎日のように争いと悲劇が報道されています。どれも等しく尊厳が失われる許されざる事態ではあることはもちろんなのですが、それでもこの一件は、私にとってどうもニュース以上の意味を持っていました。それはまるで、ニュースが息をしているようでした。感情で言えば、恐怖感かもしれません。

それは、私やジュマ・ネットが活動をすることで関わる若者たちにも同様のリスクが及ぶかもしれないという点にあります。もちろん私自身もリスクはゼロとは言わないまでも、圧倒的に現地の若者たちの方がハイリスクであることは確かです。
活動が不用意に現地のリスクを高めないための配慮はこれまでしてきたものの、より慎重な動きにならざるをえないという状況になっています。

ではどこでバランスを取ればいいのかという点に関して、統一した答えもありません。その都度のタイミングと内容によって、千差万別としか言いようがありません。

ただ、より重要な意味での別のバランスとして、加害をした者の理解に気持ちがどうしても向きにくいという自身の状態に向き合わなければと思います。それはどの主体に目を向けるかで異なりますが、心理的・政治的・経済的なさまざまな側面でそうさせた理由を冷静に見なければなりません。多数派の団結によって権利が存在していることもまた事実であり、権力が地域に存在することはたとえ都合が悪いにせよ、少数民族にとっても必要なものであるはずだからです。(権力が存在しなければ、そもそも変化を促す土壌すらがない不安定な状態を生み出しかねない、という点で)

人間の安全保障を恣意的に利用することは本来的な効果を阻むことになりかねないものの、国家が自国民を保護する意思を持たない時に、第三者には何ができるのかを改めて考えさせられます。

感情と思考が混じっている感覚が抜けないものの、一旦、今の気持ちをそのまま残すことにしました。


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