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小説『そのドアの向こうで、あの虹はどう見えるのか』

ひとり暮らしをする新米編集部員トーコ。ある日の深夜、疲弊して帰宅し玄関ドアを開けると、そこにいたのは見ず知らずの男だった。
お互いそこが自宅だと言い切るふたりには、そのドアを開けなければならない理由があった。


1、ドアの向こう


「あ、あっっ!」
 ぐわしゃ、と、無抵抗にヤられる音が終電後の駅前駐輪場に響いた。
 蛍光灯が切れかかった街灯の、チカッチカと不規則な点滅が足元の惨状を無機質に照らしてはあやふやにぼかす。見なかった事にしたい本心を表すかのように、その光と闇は交互に眼底に忍び込んだ。
「………そんなぁ…」
 粘度のある液体が溢れ出し、表通りのネオンがテラテラと映り込む。原型を留めず無残に砕け散った乳白色の一片を拾い上げると、トーコはガックリと肩を落とし、鼻と口の両方で息を吐いた。
 自転車のカゴからふいに脱落したプラスチックパック。昼間の激務で気力も体力もゼロのトーコは、迂闊にもその光景をスローモーションで傍観してしまったのだ。
 閉店5分前に滑り込んだスーパーで、辛うじて手に入れた10個の宝。朝食に食べたかったフレンチトースト用だった。
 こんな所で手放すなんて、ありえないのに。
「最悪。鈍臭いタマゴね、あなた達」
 パックの中に留まったまま瀕死の状態の5、6個を救命したトーコは、気を取り直して愛車のサドルに重い身体をあずける。
 日付の境界線を越えたのは、立ったまま沈んだ微睡みの中だった。都心の地下深くから辛くも逃げ出すように滑り出た最終電車は、朝のラッシュアワー並みの密度で無抵抗のトーコの体を押し潰した。だから、さっきの無残な光景もまるで他人事に感じない。
 今、トーコの殻は生卵のそれより脆い。

 駅前から放射線状に伸びる5本の道の中から、混沌とした意識に平手打ちして正解のひとつを選ぶ。閑静な住宅街は既にどの窓も灯りが落ちていた。あるワンルームマンションの一室から漏れるテレビのビカビカしたえげつない光線が、非常なまでに際立っている。
トーコはペダルをギシギシ操りながら、今日一日をボンヤリ俯瞰した。
 人間の適応能力に限界は無いというのがトーコの持論だ。過酷な環境とは要するに、相手から見たら自分がアウェーだと言う事なのだ。そう考えると、上手に反りを合わすことが出来ないのも無理はないと白旗を振ることが出来る。
 その最初の敗北宣言、ゼロからの始まりこそが、その後の活路を見出す入り口だと、思っている。
 思っている、のだけど。
 それにしても、この道は相変わらず長くて退屈だ。
 ひたすら真っ直ぐ漕いだ先の、代わり映えしない十字路を右に曲がった所にトーコのアパートメントは在る。そこに至るまでに、幾つもの紛らわしい似たような四つ辻がトラップのように敷かれているのだから気が抜けない。こんな意識の薄い夜は特に。
 唯一の目印は、電柱に貼り付けられた鬼とも般若ともつかない怒り顔を模した反射板で、土地の警察が防犯と追突事故防止の為に施していた。数ある中でも目当ての曲がり角に立つそれだけが、何故か、険しさと穏やかさの両方を持ち合わせているのだ。
 トーコはその、無愛想な、それでいてどこか懐深い面持ちが気に入っている。
 愛機の小さなヘッドライトを頼りに、今夜もまた、細やかな安らぎを目指して漕ぎ進んだ。

〈鷹峰アパルトメント〉。エントランスの傍に掲げられた小さな表札は達筆な手書きで、住人の自分でさえ通り過ぎる度に拝んでしまう。丁寧に白く厚塗りされたコンクリートの外壁が、築25年の建造物だという事を忘れさせた。地上3階建ての、決して大きくはない集合住宅。曲線を多用した少し風変わりな外観は、トーコのもろ、好みだった。
 管理事務所のカーテンも閉ざされ、蛍光灯のやや緑掛かった光に照らされているのは、もう梅雨も明けて久しいというのに冷んやりとした空気の流れのみ。集合郵便受けの中から自分の箱を確認すると手だけ突っ込み、中の物を鷲掴みにして適当にカバンに移した。
 最上階まで続く階段が、命辛々辿り着いたトーコの前に容赦無く立ち塞がった。3階建てのこの建物には、エレベーターが設置されていないのだ。
 スーパーでもらったビニール製のガサ袋が、トーコの足取りに合わせて重たいリズムを刻む。中の卵がどうなっているかなんて、もう正直どうでも良くなっていた。

 そうだ、カギ、鍵。

 玄関前に着いてからバタバタとあらゆるポケットを探してしまうそのいつもの流れを、今日ばかりはぜひ避けたかった。
 雪崩れ込む様に部屋に入ったら、そのまま寝てしまっても良いとまで思う。
 用意周到鍵を手にし、狂う手元を叱咤しつつ鍵穴へと差し向ける。愛しの我が城まであと10秒、いや、5秒の我慢。

 ガチャ。

 扉が開く音が、こんなに甘美な響きだとは。睡魔に全てを捧げたところで、トーコの今日という日はめでたく終わった。

 …はずだった。

「………い!おい!」
 一度は失われていたトーコの意識を、無粋に揺さぶり戻す知らない声がする。
 まつ毛が音を立てそうな勢いで目蓋を開くと、トーコは床に体を預け天井を仰いでいた。その眺めが見覚えのあるものと少し違う気がして胸騒ぎを覚え、先程の声の主を確かめようと視界をずらした。
「え…」
 トーコの傍に膝を着きこちらを覗き込む、ひとりの、男の、顔。
 怒ってる?いや、違う…何?この微妙な表情…。
 薄く垂れていた幕が瞬間的に引いて、トーコは腹筋のバネを目一杯使って飛び起きた。
「だ…っ、だれっ?」
 トーコは土間に尻もちをついて、そのまま玄関扉に後頭部をぶつける勢いで背中を預けた。
 やだ、あたし、まだ靴も脱いでないのに、こんなところで。
 しかし、このままこの場を逃げ出すには好都合だ。動転した頭の中の天地を修正しながら、トーコは男の顔を睨む様に捕らえて威嚇する。
 その者は、ただ目を見開いてこちらに釘付けだった。じきにパクパクと口を動かし何か言葉を発したそうな素振りを見せ、そしてこう言った。
「君こそ…誰?」

「誰…って…あんた、勝手にひとんチに上がり込んで、それはないんじゃない?」
「いや…勝手に入って来たのは、君の方だから」
「何言ってんの?あたしは鍵使ってココに入ったのよ!」
「それは…確かにそうだったけど、僕は合鍵を誰かに渡した記憶は無いんだよね」
「なっ…!」

 こいつ、絶対、オカシイ。

 恐らく、お互い同じ事を感じているであろう事は、口に出さずともひしひしと伝わってくる。
 ここはそれなりに古い物件だ。契約者が変わる度にオーナーが鍵を付け替えているかどうか、今更疑ってももう、遅い。
 トーコはそこで、あらためて男と、その後ろの景色に目を見張った。
 間取りは確かに自室のものだ。しかし、この違和感と言ったら半端ない。
 クロス張りのはずの壁は一面砂壁、フローリングの主室が畳の和室に、そこを仕切るドアは磨りガラスがはめられた引き戸になっている。
 手前のキッチンに目をやれば、シンクもガスコンロも旧式。見たことの無いゴツい給湯器が配管をむき出しにして幅を利かせていた。
 そしてそのどれもが、懐古趣味的な〈新品〉だったのだ。
 鷹峰アパルトマンは10年ほど前に大規模なリノベーションを行い、外観のレトロな雰囲気を残しつつ内装はそこそこ新しい設備に更新されたのだと、この春入居した時に聞かされていた。
 ところがむしろ、トーコが知る改装後の姿よりもずっとこの、ひと昔前のアイテム達の方が真新しい。

 違和感の正体は、そこにあった。

「ちょっ…、ちょっと1回、外…出てくる…」
 トーコは、ただでさえ脆い殻を纏った体がこの不可解な状況で粉々にならないように、自分で自分を抱きかかえる格好でゆらりと立ち上がるとドアノブに手をかけた。

 表札。表札よ。
 とにかく、それが合ってるかどうかだわ。

 もしかしたら、ぼやけてうっかり二階に来てしまったのかも。鍵だって、ちゃんと開けたかどうか、自信が無くなって来た。
 せーの、と心の中で呟くと、さっき聞いたものと同じとは思えない、無機質で当たり障りの無い音を立てたドアを慌ただしくすり抜け、後ろ手で閉めた。

 直ちに振り返り見上げるとそこには。

〈302 マナベ〉

 なんだ。あたしんチじゃん、やっぱり。

 表札には、トーコ自身が書いた字で、トーコ自身の名前が紛れもなく掲げられていた。小さく安堵の溜息を漏らすも、すぐまた別の問題に頭を抱え、その場にうずくまり唸った。

 どうする?このままここを離れて、管理人を起こす?警察に転がり込む?

 ドアの向こう側から、訝しげにトーコを窺う気配を感じる。再び部屋に戻る必要は、無いのだ。この身に及ぶ危険を考えれば、第三者に助けを乞うのが懸命だろう。
 しかしトーコは、外に出る自分をすんなり見送った見知らぬ男の強盗らしからぬ態度と、室内風景が放っていたゴリゴリの違和感に疑問を抱いていた。

 あ、しまった。
 卵、中に忘れたまま。

 不慮の墜落から救い出した生存者数名をみすみす手放しては、ここまでの苦労が報われない。せめて明朝の出勤まで頑張れば、給湯室でゆで卵ぐらいには化かす事が出来るのだから。
 夏の夜のじっとりとした熱が今更のように全身を駆け巡る。トーコは手に汗を握りしめ、ゴクリと喉を鳴らした。

 …よし。

 トーコはドアノブを掴んで目をつむる。
 サン、ニー、イチ。

 ガチャ。
「あっ、あのっ!やっぱりあたしが間違ってたみたい!ごっ、ごめんなさいっ!だから…その…これにて失礼っ!」
 トーコはドアが閉まらないように片足を隙間に挟み込んだまま、土間に放置されているガサ袋にぐい、と手を伸ばした。
「えっ…ちょ、ちょっと待って、君。間違えたって、どの部屋と?」
「あ…えーと、2…階…かな?」
「その部屋には、まだ誰も住んでいないはずだけど?」
「じ、じゃあ、その隣?いや、1階か…も…?」
 受け答えが次第にあやふやになって、いかにも怪しい。トーコは自分で自分にツッコミを入れたかった。
「君は確かに、閉まっていたそのドアを、鍵を使って開けて入って来たんだよ」
 男は眉を顰め、それでもどこかこの状況を楽しむような。絶妙に微妙な表情でトーコの背後を指差した。
「何処で手に入れたか知らないけど…この部屋の鍵を持ったままじゃ、このまま黙って見送る事は、出来ないな」
「はっ…!えっ…と、こっ、これは…!」
「これは?」
 返事に困り果て顔ごと目を伏せるトーコの視界に、近づいてきた男の足元が入る。

 ヤバイ、ヤバイヤバイ!
 疑われてるのは…あたしの方じゃん!
 やっぱあのまま、逃げれば良かった。
 にじり寄る気配にすっかり圧倒され、悔やんでも悔やみきれず唇を噛んだトーコの目の前に、男の手のひらが差し出された。
「とりあえず、鍵、返して?」
「…へっ?」
「で、今日はもう遅いから、警察行くのは明日にしてあげるよ。それまで、逃げないでね?」
「はぁ?」
「だって君、悪気は無さそうだし。1度外に出てまた戻って来るなんて…よっぽどその瀕死の卵が大事だったんだね」
「ちょっと!それは今どうでもいい事よ!それに、あ…あたし、強盗じゃないわ!」

 冗談じゃない。
 犯罪者の汚名を着せられて、このまま大人しく引き下がる事なんか、出来ない。
 しかもこの男、明日まで逃げるなって…一応女なんですけど、あたし!

 トーコは唇を噛んでいた歯を食いしばり直し、獣が唸るように男に喰ってかかった。
 しかしこんな状況だというのに、男の方は余裕綽々、さざ波のように穏やかな口調でトーコの敵意を全て飲み込んだ。
「じゃあ、証明して見せてよ。君がこの部屋に〈帰って来た〉っていう証拠は、あるの?」
「あ…あるわよ、証拠なら!」
 空回り寸前まで回転速度を上げた脳みそで、その問いに対する最良の答えを、持っていたカバンの中に探す。
 するとさっき、下の郵便受けから回収した様々な紙切れが目に止まった。
 トーコはそれらを再度鷲掴みにすると、その場に座り込んで床にバン、と叩きつけ、トランプを広げる要領で全ての内容が見えるように並べると、1枚のダイレクトメールを選んで摘み上げた。
「ほら!ほらほら!これ見て!ここの住所でしよ?…で、あたしはこれ、こういう者よ!名前、同じだからっ!」
 トーコはもう一度カバンを弄り、カードケースから名刺を取り出して男の目前にチラつかせた。
「…へ…っえ。間部…透子、月刊レインボウ…編集部」
「そうよ、あの、レインボウよ。知ってるでしょ?…どう?信じてくれた?」
「ん?んー、ああ」
 2枚の小さな紙切れとトーコを代わる代わる見比べた男は、ハの字の眉の間にシワを寄せ、ヘの字の口の下には梅干しを作っていた。

 あ、この人、こんな分かり易い顔も、やれば出来るんじゃない。

 トーコはそこで初めて、男の背が規格外にデカい事に気付いた。長身の宿命か、少し猫背気味にトーコと向き合う彼の様子に見惚れていた自分に気付いて、ぶん、ぶんと頭を振った。

「さ、これでわかったでしょ?警察沙汰なんか、御免だわ」
「わかったよ、わかった。通報はしないよ。…でも」
「でも?」
「それで今は、何処に住んでるの?」
「だーかーら!ココだっつーの!」
 腰に片手を掛け、もう片方で床を指差すと、トーコは渾身の力で地団駄を踏んだ。あれだけ眠たくて魂の抜けた体だったのに、すっかり頭に血が上ってしまって目もギンギンに冴えている。
「ねぇ、アンタも何か証拠を持って来なさいよっ!あたしばっかり色々曝け出して、卑怯だわ!」
「…そうだね、ゴメン。ちょっと、待ってて?」
 抗わない上、ご丁寧に謝罪までしてその場を離れた男の態度に、トーコは心底拍子抜けした。膝が折れそうになるのを堪え、主室に引っ込んで引き出しを開け閉めする男の丸まった背を眺める内に、眉間の皺も伸びてしまった。
 何かとトーコを見透かすようにあしらう物言いからして、自分よりも年は上のようだ。しかし、見た目は学生と偽ってもバレないぐらいアクが抜けており、飄々としている。
 警察に突き出す、なんて過激な発言をしておきながら、その気はさらさら無さそうな、まるでトーコの反応を楽しんでいるかのような。
 そんな男の態度にヒラヒラと翻弄されている自分が、悔しいような、恥ずかしいような。
 そうこうしている内に、男が目当ての物を見つけたらしくこちらに戻ってきた。途中、頭が鴨居にぶつかりそうになってトーコの方があっ、と小さく声を上げてしまったが、当の本人は慣れた身のこなしで首を傾げると難なくその障害をかわした。
「…あった、あったよほら、コレ。ここを契約した時の書類だよ。今年の春に引っ越して来たんだ。あと僕は、こういう者です」

 仕返しを決め込んだのか、男はトーコを模して自らの名刺を書類と共に差し出した。

〈私立吉井寺学園 高等部 教諭 相模斗真〉

「え…まってよ。契約書なんて…そんな簡単に他人に見せちゃっていいの?」
「だって、最初から切り札を出されないと納得しないタイプみたいだから、君」

 教師か…なるほど、どうりで諭すような口調な訳だ。

 相模というらしいその男の周到な対応にすっかり足元をすくわれたトーコは、渋々突き出されたものを斜め読みした。が、日付部分が目に入った所で瞳孔が開きそうになる程の衝撃を受けた。
「………なん…で…?」
「言っとくけど、誓って本物だよ、これは」
 僅かな苛立ちを乗せて相模がトーコに釘を刺す。
「わかってるわよ!わかってるけど…これ…」
 恐る恐る問題箇所をなぞる指が震えた。

〈1990年4月2日 入居〉

「ついでに言うと、僕はこの部屋に住んだ最初の人間、らしい」

 …えっ。

「えええええーーーっっっんがっ…」
 叫び声の言葉尻を、相模の手のひらが見事に遮った。一瞬の隙を突かれ、トーコは声だけでなく、呼吸する余裕すら失った。
「今何時か知ってる?それでなくても君、声量あるのに…これ以上騒ぐと、呼ばなくてもお巡りさんが来ちゃうよ?」
「~~~~~!」
「一体、何にそんなに驚く事があるんだか」
 トーコが落ち着くのを見計らって、相模は手を離した。大きく肩を上下させて失った酸素を取り戻し、ひとつ、息を飲んだトーコは、空中に彷徨わせるように震える言葉を吐き出した。
「あたし…1990年…生まれなの…」
「え?」
「ほら、これ」
 トーコはあらためてカバンの中を探り、運転免許証を手に取った。自分でも券面を確かめてから、相模に手渡す。彼はそれを一瞥すると、すぐに元の手の中に戻した。
 この春に越して来たという共通点はあるものの、ふたりの話は噛み合っていない部分が多過ぎる。この建物が自分と同じ年だとは認識していたけれど…一体、どういう事?
 トーコは虚ろな顔を両手で覆いがっくりと項垂れた。

「もう…訳わかんないわ」
「ねえ、トーコさん」
 茫然自失な上にいきなり名前で呼ばれて、トーコは目眩に近い精神の揺らぎを覚えた。
「顔、青いよ。今夜はもう、休んだら?そっちの部屋、内鍵がついてるから」
 そう言って、相模が主室の隣に目配せする。普段、トーコが寝室として使っている部屋だ。
「なんか…君、凄く疲れてるみたいだし。それ、冷蔵庫入れてあげるから貸して?」
 トーコが握りしめていたガサ袋の持ち手に、相模の身長に見合った大きな手が滑り込んだ。次の瞬間、大声を出しかけた自分に気づいたトーコは、深く吸った空気を小出しにしつつ、袋を胸に抱えて訴えた。
「そんな…突然何言ってんの?あたしにここに、泊まれってこと?」
「だってもう、夜中の二時だよ。女の子をひとりで路頭に迷わせる訳にはいかないだろう?警察行くなら、話は別だけど」
「い、いやっ、わかったっ!わかりましたっ!お、お世話になりますっ!なればいいんでしょっ?」
 とにかくひと晩、ひと晩だけ乗り切ろう。
タンカを切って腹をくくったトーコは、乱暴に卵の入った袋を相模に押し付けて鼻息をふん、とひと吹きした。抵抗無く受け取った相模は、口角を僅かに上げてふっ、と笑った。
「収納の中の服、良かったら使っていいよ。多分…いやきっと、君にもピッタリだ」
「服…って、誰か、一緒に住んでるの?」
 相模の表情がまた、意図を判別し難い形に動いた。
「ああ。でも処分しようと思ってたところ」
「それって………別れちゃったって事?」
 と聞いてから、しまった、とトーコは口を自ら塞いだ。いくら何でも、この非常識な時間に部屋を貸してくれようと(いや、ここは我が家であるという主張はまだ取り下げてないけれど)している人に向かって、今、追求すべき事ではなかった。
 やっぱり出て行け、なんて言われても仕方ないな。冷蔵庫を開ける相模の、次の台詞を待つトーコの心臓は波打った。

「うん。でも、ここには来ない」
「そっ、そーなんだ。あは…ごめん、変な事きいちゃった」
「いや、こっちこそ、気味悪い事言ってごめん。誰のかわからない服なんて、着れないよね」
「えっ、いや…その、あっ、あたしっ、明日も仕事なの!ここから出勤しなきゃならないし…貸してもらえるならとっても、ありがたいわ」
「そう?なら良かった。…さすがに風呂は使い辛いだろうから、明日、僕が居ない時にでもどうぞ」
「いない時…って?」
「鍵は君も持ってるんだから、問題ないでしょ?僕、朝早いんだ」
 冷蔵庫に収まった卵たちが冷気に包まれて平静さを取り戻したのと同時に、じっとり熱っぽかったトーコの喉元から、適温の風がそよぐように声が出た。
「ごめん」
「何が?」
「あたし、断じて怪しいヤツじゃないから」
 無礼千万なのは承知の上で、身の潔白だけは明らかにしておきたい。
 目が合った相模は一瞬驚いていたようだったが、すぐにぷっと吹き出してトーコの頭に広い手のひらを乗せた。
「怪しいヤツに泊まってけなんて言う程、僕は変わり者じゃあないよ」
 じゃあおやすみ、と言い残して、相模は主室へと消えた。
 十分、変わり者要素満載なんですけど。
 肩で笑いを逃していた相模の姿は、まるで悪戯が成功した時の子供のようだった。


2、朝の向こう


 いつもと同じ朝が来た、と思ったのは、目を開けた後の、ほんの数秒間だけだった。
 越して来て3ヶ月とはいえ、心許せる寝ぐらとして愛着を十分持てていた自室。そこにいる時と、全く同じ角度から差し込む朝陽。四方の壁、天井、床が囲むこの空間は、昨日と違わぬ距離感でトーコを包んでいるのに。
 微睡みを振り払う様に肌掛けを跳ね除けたトーコは、確かな違和感が其処此処に漂うその部屋から出ようと勢い良くドアノブを回したところで内鍵の存在を思い出した。後から付けたというその鍵は幾分物々しく、仰々しい。深呼吸をしたトーコはゆっくりと鍵を開け、ドアをずらして作った僅かな隙間から向こう側の世界を覗き見た。
 人の気配は無く、トーコは胸を撫で下ろした。ふと、壁にかかった時計を見上げる。8時32分。会社の定時は11時から18時。自転車で十分もあれば着く最寄りの鷹峰駅からは、快速に乗れば30分程の道のりだった。
 昨晩、あれだけ頑張ってひとつのヤマを越えたのだから、恐らく編集部に人が集まってくるのはその定時ギリギリだ。あ、でも、確かタカちゃんは早速今日から、次号に向けての取材に行くとか言っていた。タカちゃんこと高橋は編集部イチの変態染みた真面目君だ。きっとこんな校了開けの日もいつも通りの時間に、いつも通りひとり分のコーヒーを淹れ、いつも通りメガネをずり上げながら始業の時を迎えているのだろう。
 そんな事を考えているうちに、寝起きでぼやけていた感覚が正常値に戻ったトーコの鼻先にも、コーヒーの香りが漂っている事に気づいた。恐る恐るドアを擦り抜けて、キッチンの前に立つ。ワゴンに乗せられたコーヒーメーカーは保温状態のまま、サーバーにはふたり分のコーヒーが残されていた。その脇には、フードカバーがかけられた皿と、メモ書きが一枚。
〈朝ごはん、食べて下さい。ヒビが入っていた卵は早めに使った方が良いと思い、無断で拝借しました。あしからず。トーマ〉
 皿に乗っていたのは、黄金色のフレンチトーストだった。
 トーコは思わず、見なかったことにしようと手にしていたカバーを元に戻しかけた。それが、男性の手による作品とは思えない見事な出来栄えだったからだ。トーコが作るフレンチトーストは、強いて言えば卵焼きにパンが混ざっている、といったようなものだった。
 その時脳裏に浮かんだのは、この傑作を作った彼の、喜怒哀楽全てを混ぜたような微妙な表情だった。きっと、この食事が食べられないまま残されているのを彼が発見したら、またあの顔をするに違いない。
 それは嫌だな、と、トーコは率直に思った。
 振り返って主室に視線を送ると、引き戸は全開で部屋の中を容易にうかがう事が出来た。和室の中心に平机が据えられている以外に家具らしい家具は無かったが、目を引いたのは壁一面と言っても過言では無い本棚の存在だった。
 さっきまでトーコが使っていた部屋は毛足が短い絨毯敷きで、セミダブルのベッドと作り付けのクローゼット。中には彼が言った通り、ひと通りの女性物の服が掛かっていた。
 そうだ。まず、シャワーを浴びよう。下着の替えが無いのが気掛かりではあるが、とりあえずまあ、良い。後で昼休みにでも買い出しに行こう。冷や汗やら、脂汗やら、寝汗やら。思えば昨日は随分と汗をかいた気がする。
 水まわりの間取りも、トーコが知るそれと変わりは無かった。給湯器のタイプが違ったけれど、なんとなく使い方はわかったので不自由を感じなかった。ご丁寧にタオル類一式と、使い捨ての歯ブラシの袋が脱衣所に用意してあった事にも驚かされた。本当に、どこまで世話焼きなのだろう。見ず知らずの、怪しいヤツを相手に。
 肩より上までしかないトーコの髪は、タオルドライしただけで粗方乾いてしまう。少し癖っ毛だがそれがまた、特に手入れしなくてすむ理由だ。フェイスタオルをかぶったままガシガシと両手でかき混ぜ、そのまま頭に巻いた。
 クローゼットから選んだのは、シンプルなカッターシャツとスラックス。相模の目測通り、バストもウエストも股下の長さも驚く程ピッタリだ。
 食事を置けそうな場所が例の机しか見当たらないので、先程キッチンで見つけた朝食を主室に運んだトーコは腰を降ろして手を合わせた。
「いただきます」
 フレンチトーストの味が、見た目を裏切らないものであった事は言うまでもない。

 キッチン側からの死角には、一間分の押入れがあった。推測するに、彼はここに布団を敷いて寝起きしているようだ。隣の部屋にあんな立派なベッドがあるのに、何故使わないのだろう。まあ、あのクローゼットの中身にまつわる話からして、その理由は大体想像がついた。大雑把と周囲から揶揄されるトーコも、こう見えて結構そういうカンは鋭いのだ。
 今度は棚に並ぶ本に目を移す。
 教師という職業に見合った蔵書量は圧巻だ。でも、地震対策もしてないみたいだし、この脇で寝るのはちょっと怖い。
 タイトルをよく見ると、歴史物、時事考察、郷土史、神話、画集…楽譜まで。一見、趣味趣向がさっぱりわからないメンツが満遍なく揃っていた。
 本棚は持ち主の人となりを表すという。あの人らしい本棚だ。掴み所が無い。
 気づくと時計の針は九時半を過ぎていた。残りのコーヒーを一気に喉に滑らせ、トーコは食器を洗うためキッチンに向かった。
 いつも通り玄関のドアを開けて、いつも通り鍵を閉める。見上げれば、昨夜確認した時と同じ、自筆の表札。
 そのままの姿勢で惚けていたトーコの背後を、同じ階に住む見知った顔の大学生が怪訝な様子で通り過ぎ、階下へと消えた。
 あの子もいつも通り。そうよ、私も、いつも通りの出勤、だわ。
 そう言い聞かせたものの、今、再び鍵を開ける勇気までは持ち合わせていなかった。
 次にこの部屋を訪れたなら、あたしはあたしの、本当の〈いつも通り〉を、取り戻す事が、出来るのだろうか。
 いつも通り管理人に挨拶をし、いつも通り愛機を駐輪場から引っ張り出すと、いつもより少し重たいペダルを、トーコは力任せに踏み込んだ。
「おはよーございます」
 フロアの最奥まで他のセクションを掻き分けて進んだ先に、月刊レインボウ編集部は本陣を構える。
 正面にあるのが、うず高く積もった書類や書籍で押しつぶされそうな編集長の机。その手前には、編集部員六人分の机が二手に分かれ、それぞれが頭を付き合わせるように配置されている。
 トーコの席は、向かって右側の最後尾。編集長から一番、遠い。しかしながら、彼女が呼びつけるのはいつも、給湯室とコピー機に一番近い場所に座るトーコだった。
「遅いぞ、マナベ」
 向かいの席に座るタカちゃんが、読んでいた新聞から目を離さず言った。机の上には、コーヒーを飲み干した後のマグカップ。彼はいわゆる鉄ちゃんで、隙有らば職権さえも利用し、貪欲に電車移動を試みる。そのカップも、ディーゼル車輌を郊外で走らせる第三セクターが作ったレアグッツで、彼のコレクションのひとつであった。
 ずり落ちたメガネに指をかけ、カチっと鳴らして元に戻したタカちゃんがチラリ、とトーコに目だけで対峙した。
「言っただろ、今日は取材に出るって。先生には来るなら女を寄越せって言われてるんだから、お前が一緒じゃ無いとマズいんだよ」
「覚えてますってば。でも、先方との約束の時間は15時でしたよね?移動時間を考慮しても、さすがにまだ早いですよ。ご飯食べてからでも遅くはないです」
 タカちゃんは、2年前にこのチームに入ったライターだ。トーコがこの春に仲間入りするまでは、今、トーコの陣地になっているこの角の机が彼の持ち場だった。新人歓迎会の飲みの席で同い年だという事がわかったが、許してくれたのは〈タカちゃん〉とあだ名で呼んで良い、という事までで、決してタメ口は使わせてくれなかった。職場の先輩なのだから当然と言えば当然なのだが、事有る毎に何かとトーコを頼ってくる節があるので、いい加減こちらの立場を格上げしたいと思っている所だ。
「いや、折角あそこまで行くなら、乗りたいヤツがあるんでな。乗り換え検索かけたら昼前には出ないとアカン」
「もー、またですかぁ?どうせ、グッツ買い漁って写真撮る時間も入ってるんですよね?」
「そう言うなって。折角なんだから」
「マキタさんへの口止め料、弾んで下さいよ」
「メシはおごるからサ。よろしく」
 そんな風にトーコを軽くあしらい、出発は30分後と呟いて、タカちゃんは再び新聞に視線を落とした。
 細やかな抵抗の溜息をついて時計を確認すると、10時55分。あれ、今日は本当にみんなヤル気無しかしら。ふたり以外のメンバーが、集結する気配が無い。ホワイトボードのスケジュールに目を遣れば、軒並み午後出勤、となっている。まあ、致し方ない。昨晩は今朝イチバンの入稿最終便に間に合わせる為、編集部総出で終電ギリギリまで此処に居たのだ。もっと余裕有るスケジューリングをと進言した事もあったが、創刊25周年、トーコが生きてきたのと同じ年月の間に培われた体質が新人のひと声で変わる訳も無く。
 まあもし、このやり方が本当に間違いだとしたら、とっくにレインボウは廃刊になっているだろう。この方法でしか成し得ない何かがあるに違いないのだ。タカちゃんの職権乱用癖だって、一役買っているのかもしれない。
 月刊レインボウは、月刊〈虹〉と書く。
表紙を飾るタイトルロゴは、創刊当時から変わらない。分類は文芸誌に属しているが、内容は多岐に渡る。文学を入り口に、時事ネタも取り上げればアートシーンを追ったり、歴史にスポットを当てたり。作家  自身のプライベートを丸裸にしてしまう程、突っ込んだゴシップ紛いの記事も過去には掲載されたらしいが、時代の流れに良い意味で逆らわずにきたお陰で、今も一定数以上の読者がいる数少ない雑誌のひとつに数えられている。
 その、稀有な本を女手一つで育ててきたのがマキタさん、蒔田編集長だった。
 マキタさんは、トーコの恩人でもある。
だからと言って、トーコは縁故採用ではない。ちゃんと、正規の段階を経て、選ばれた上でここに居る。
 若い夫婦に手放され、施設に入った幼いトーコは、マキタさんが仲介してくれたお陰で新しい家族を得る事が出来たのだ。何でも、トーコがレインボウの掲載記事に関わりがあったらしい。しかし、里親から知らされたトーコの素性はそれ以上でも以下でもなかった。
 編集長と初めて会ったのは14の夏。それをきっかけとして編集部に入ることを目指し、念願の採用通知を半年前に手に入れた。かくしてトーコの、身を粉にするような激動の日々は始まったのであった。
 最初の1ヶ月は電話番。部にかかってくるあらゆる電話を一手に引き受け、付き合いがある取引先やその担当、作家、印刷所やデザイン事務所等、膨大な数の固有名詞を頭に叩き込んだ。
 次の1ヶ月は、ひたすら新刊本を読まされた。出勤すると机には必ず、数十冊の本が積まれていた。単行本、文庫、雑誌、ムック、絵本、育児書から終活本まで、ジャンル問わず。たった1ヶ月の間に出る本の数と、本に成り得る題材の幅広さがこれ程までとは。自分の中にあった壁のようなものを取り払う事が出来た気がしたのは、次の月に切り替わる頃だった。
 そして今月に入り、トーコはタカちゃんの付き人になった。タカちゃんは3日に1度は取材に出て、緻密な記事を書き上げる。その集中力と段取りの良さは、他のメンバーにも見習って欲しいと思う点だ。だがしかし、時に暴走、時に乱心するのが玉に傷で、書きたい事が多過ぎて〆切を見ない振りしたり、取材中に途中下車の旅に出てしまったりするのだ。トーコはそんなタカちゃんを、時にはカメラマン役も買って出たりしながらサポートする日々を送っていた。
 今日の分のあらゆる新聞社のものを集めた朝刊の束と、この時間までに掛かって来た電話の言付け、それから好物のかりんとうを編集長の机にいつも通り揃えた所で、タカちゃんから出撃命令が下った。
「マナベ、行くぞ」
「あいあいさー」
 今日はまた、外気は都心が抱え込む熱にだいぶ浮かされている。窓越しに見えるビルとビルの間から覗いた積乱雲は、まるで雪山のようにムクムクとそびえ立っていた。冷房対策で羽織っていたカーディガンを椅子の背に掛けると、トーコは用意していた一眼レフカメラに手を伸ばした。
「そういえば今日のマナベ、なんか雰囲気違うのな」
 2回目の乗り換えを済ませ、後は目的の駅で降りるのみとなった。タカちゃんが不意にそんな事を呟いたので、トーコは列車の揺れに抵抗できず掴んでいた吊革ごとクルリと裏返しになりかけた。
「そーですかぁ?」
「ん。いつもそんな風にこざっぱりしてたっけ?」
「あー、これ?」
 トーコはカッターシャツの襟を指した。普段の格好と比べたら違和感を覚えられても仕方が無い。身軽なTシャツとデニムパンツを戦闘服とするトーコが、珍しく襟付きシャツなんか着ているのだから。しかも、クローゼットに入りっぱなしだった割りにパリッと折り目も整えられている。袖を通した時にはふんわり糊の効いた香りがした。
「たっ、たまにはいいじゃないですかー。それに、今日お会いする瑞樹先生って、女の子大好きなんですよね?綺麗な格好して行けば間違いないと思って」
「まぁな。俺からすれば孫にもナントカで着られてる感満載だけど」
 余計なお世話ですよ、と拗ねて居直ったトーコの耳に、目的駅への到着を告げる車内アナウンスが飛び込んだ。
たどり着いたその土地は、景色の中に占める緑色の割合が明らかに都心とは異なっていた。それでも、地方自治体の境界を越えてはいない。編集部から見えていたビル群の隙間に挟まり肩身の狭そうだった積乱雲は、ここでは我が物顔で青空を突き上げ荘厳さを湛えている。
「さて、まずはメシでも食うか。それからちょっと、ほら、俺、あの売店に寄るから」
 タカちゃんが指差した先には、駅舎に併設する観光センターがあった。入り口に立つのぼりにはご当地キャラらしきものが描かれており、施設内にはグッツの販売コーナーが設けられていた。
「あれを買うんですか?」
「そうさ」
「よく、恥ずかしくないですねぇ」
「恥じる理由がどこにあるかアホウ」
「いや、大の男がキャラグッツ買い漁るのって、どうかなぁ、なんて」
「じゃあ、あれがアイドルか何かだったら男として合格だってのか?人の趣味をそういうモノサシで査定すんな」
 すんません、と謝ると、わかったならよし、とすんなり和解の声がする。タカちゃんの良い所は、良くも悪くも引きずらないこの性格だ。つまりは、真面目なのだ。

 立ち食いそば屋でお昼をおごってもらった後、タカちゃんとの待ち合わせ時間を決めたトーコは駅前の商店街へと繰り出した。先方との約束までに、例の買い物を済まさねばならなかった。そう、次に自分の〈本来の〉家に帰るまでの、ツナギの諸々を。
 ディスカウントストアで手っ取り早く物色を済ませたトーコは、会計目的で近づいたレジ前の防災グッズコーナーで足を止めた。
「おう、お待たせ…って、お前、何ガチで買い物楽しんでんだよ?」
 待ち合わせ場所にタカちゃんの姿が無かったので、トーコは観光センターの前で出待ちをしていた。趣味の世界をたっぷり堪能して肌ツヤ良いタカちゃんの眉間に、一瞬でシワを寄せさせたのは、トーコが抱えているディスカウントストアのロゴが入ったド派手なデザインの大袋だった。
「わ…わかってますよ!タカちゃんが来たら、そこのコインロッカーに入れてこようと思って…」
「あ、そ。じゃあついでに俺のも入れといて、な。ワレモノ入ってるから、気ぃつけろよ」
「はいはーい」
 我ながら、アホな買い物をしてしまったと思う。ついでとは言え何もこんな所まで来て、使うかどうかもわからない代物に手を出してしまうとは。
 トーコはロッカーの扉を閉じるのと同時に、気持ちを切り替えるべく大きめの深呼吸をした。

 その後、瑞樹邸にて無事取材を済ませたふたりが編集部に戻ったのは、夏の陽もとっぷりと暮れた19時を回る頃だった。先方との話が思いのほか弾み、プラットホームでタカちゃんが撮り鉄と化し、加えて夕刻の帰宅ラッシュに飲まれてしまった為、あいにくの結果となったのだった。
 到着した編集部には人気が無く、今日は他の誰にも会えなかったなと、ホワイトボードの自分とタカちゃんの欄を書き直しながら考える。
「今日はお前のお陰で先生もご機嫌だったな」
「そっ、そうでしたかぁー?」
「あの風貌で書く作品がゴリゴリのメルヘンファンタジーってのがな…人間、見た目じゃないって実感したワ」
「確かに!」
 瑞樹雅美は、翻訳ものに負けない世界観の壮大なファンタジー作品を得意とする中堅世代の作家で、れっきとした男性だ。
 今回の取材の趣旨は、その幻想の泉がどのような場所から湧き出てくるのか、元々こだわって新築したという仕事場兼自宅を訪問する形で迫るというもの。建築メインの話だから、作家の近影は掲載しない、というのが先方が出した取材許可の条件であり、本人を目の前にしてその理由を身を持って知ったふたりは、今日は特にお互い戦友のように称え合いたい気分だった。
「まさか、あの瑞樹先生がコワモテの筋肉オタクだとは思いませんでした。しかも、女好き!」
「作家なんて、みんな変わり者だからな。でも、その筋肉オタクってのは、ちょっと的を得てないんじゃないか?」
「えー?だって、立派なスポーツジム並みの設備がありましたよ?撮影許可、さすがに出なかったですけど。ご本人、ボディビルダーみたいにムッキムキでしたし」
「だから、その、オタクって表現な!それが誤解を招くって言ってんの」
「あれは十分オタクの域ですよー」
「好きな物にまっしぐらで、何が悪い」
「悪い、なんて言ってませんてば」
 タカちゃんはオタクという単語に厳しい。自分が鉄ちゃん、鉄道オタクである事を、本当に誇りに思っているらしい。
「お前にだって何かしら、誰より愛が深いと思う物が、ひとつはあるだろ?」
「愛が、深い、ねぇ」
 そうだなぁ。何だろう。
 そう言われてしまうと、即答出来ない。
 その〈何かひとつ〉を持つオタクの人が急に眩しく見えて、反射的にタカちゃんから視線を外した。
「ま、そんなの、ヨソから押し付けられるもんじゃねぇし、な。よぉ、今日、飲んでくか?」
 くいっとお猪口を飲み干す仕草が妙におっさん臭くて、トーコはまた別の意味でタカちゃんを視界の端に寄せるとやんわり誘いを断った。
「ごめんなさい、今日は…ちょっと…そう、コレ、実家に届けないといけなくて」
 トーコは出先で手に入れた、あのド派手な大袋を指差す。
「そっか、んじゃまた今度。ところで一体それ、何買ったんだ?」
「えーと、御守り、みたいなもんです」
 訳わかんねー、と言い残し、タカちゃんはタイムカードを押すと、机の海を向こう側へとかき分けて行ってしまった。


3、雨の向こう


 無尽蔵な街の灯りのせいで眠りの浅い西の空に、悪寒そのもののような雲が蔓延る。

 あの雲、絶対、この後あたしの上でひと泣きするに決まってる。

 タカちゃんが帰った後、日報を10分程かけて書き終えたトーコは、編集部が入るビルのエントランスを1歩出た所で空を仰いだ。
 今日はあいにく傘を持ち合わせていない上に、この荷物である。何があったかしらないけど、理不尽なゲリラをかまされる筋合いは、無い。
 大袋を脇に抱えたトーコは、最寄りの地下鉄駅へ小走りで向かった。

 通勤に利用している地下鉄線は、地上の在来線と連携を取り直通運転を行っている。地下の人工的な闇から解放された合図はいつも、微睡みの中でぼやけた視界の代わりにアンテナを張る、トーコの聴覚がキャッチした。20分程続くトンネルを抜ける瞬間、車両を取り巻いていた轟音はそのテリトリーを越えてまでトーコを追っては来ないのだ。そして列車は、それまでのがむしゃらな態度を一変させ、規則的にレールの継ぎ目が立てる振動を丁寧に拾いながら次の駅を目指す。

 トーコの心中は、言うまでも無く複雑だった。
 今朝、あの部屋を出てから今この瞬間まで、いつもと変わらない時間が過ぎた。
 敢えてイレギュラーだった点を挙げるなら、タカちゃんが今日のトーコの服装にツッコミを入れた事ぐらいだ。
 普段通りならこの後は、最寄り駅で下車して、スーパーに寄って晩の分と明日の朝ご飯を調達。駐輪場に愛機を迎えに行き、住宅街を抜け、例の電柱で右に曲がって家にたどり着く。階段を登って、鍵をひねり、ドアを…。
 手にした荷物に目を落とす。
 この、とある街の片隅でディスカウントされていた品物は、自分の為の買物でありながら、そうとも言い切れない。
 整理不可能な矛盾をガッチリ懐に抱えたトーコは、アナウンスが告げる聞き馴染んだ駅名に反応して腰を上げた。

 ペダルを漕ぐトーコの背後から、雨の匂いが触手を伸ばすかのように迫ってくるのがわかった。まとわりつく湿気を掻き分け〈我が家〉へと急ぐ。

 ひとり暮らしをする部屋が、何者かに、乗っ取られた。
 しかも、そこはインチキとは言い難い極めて現実的な過去に満ち満ちている。
 こんな問題を飲み込んだまま、あの部屋の他に行く当てなどトーコには無かった。あるとすればただひとつ、マキタさんが築いたあの〈虹〉と言う名の城だけだ。
 これまでにも何度か、与えられたノルマが終わらずに編集部で朝を迎えることはあった。だからと言って、非日常への入口と化した自宅への扉がいつ元に戻るのかわからない今、そう簡単に宿泊施設代わりにする訳にはいかない。

 とにかく帰ろう。帰ろう。…帰ろう。

 言い聞かせながら徐々に落ちて行く車輪の回転速度。そしてとうとうトーコの背を大きな雨粒が叩き始めた。
 危うく目印の電柱を通り過ぎそうになりながら、トーコはずぶ濡れ寸前で最後の角を曲がった。幸い、本降りになる前だったようだ。トーコがアパルトマンの駐輪場の軒下に入ったとたん、銃撃を浴びているかような轟音を薄い鋼板の屋根が立て始めた。

 夜は21時まで詰めている管理人は、持ち込んである小さなテレビで20時から始まるクイズ番組を楽しんでいた。こんばんはー、と声をかけるのと、んあー惜しいっ、と彼が膝を打って悔しがるタイミングが見事にシンクロしてしまったせいで、トーコは唯一「おかえり」を言ってくれる相手を失ってしまった。

 建物の外では、止む気配の無い銃撃戦が一方的な戦況で繰り広げられている。この奇襲に撃ち返す術を知る者は地上にはいない。比較的軽傷だったトーコは、重い足取りながらも自力で階段を上り始めた。
 近づいてくる、我が家。我が部屋。
 特別な荷物で塞がる左手はそのままに、空いた右手で肩に掛けたカバンの中の、鍵の在りかを探った。

 玄関扉の前まで来て、トーコは暫くの間立ち尽くした。キッチン側の磨りガラス窓を伺っても、部屋の中で灯りがついている気配は無かった。鍵を刺す前に、呼び鈴を鳴らしてみようか。そうこう悩んでいる内に、同じ階の住人が階段を上り切ってこちらに向かって歩いてきた。ああ、今朝も会った、あの大学生だ。
「こんばんはー」
 苦し紛れに鍵を探す振りをして、トーコは慣れない愛想を言う。彼女の方と言えば、軽く会釈だけして通り過ぎてしまった。乾いたヒールの音がカツカツとコンクリートの廊下に反響して依然弱まらない雨音を牽制する。
 もう時間が稼げなくなったトーコは、彼女が5軒先の自室の前にたどり着く前に、手にしていた湿った鍵を鍵穴にねじ込んだ。
「おかえり」
 今夜はもう、誰からも言ってもらえないはずだったそのひと言を、トーコは確かに耳にした。背中に感じたままの扉を後ろ手で閉めたが、ドアノブから手が離せない。
「やっぱり、居たのね。まだ」
「まだ、って言われてもね。僕の家だから、仕方が無い」
「それはこっちの台詞よ。ここがあたしの家だから、仕方無く…帰ってきたのよ」
「だから、おかえり、って」
「そっ、そんなすんなりこの状況を受け入れて、ただいまなんて、言えないわよっ!」
「まぁまぁ。君、雨に振られたの?濡れてるじゃないか」
「何のんきな事言って…!この鉄砲みたいな雨の音が聞こえないの?」
 そこまでタンカを切ってから、先程までの凄まじいまでの雨音が嘘のように収まっている事に気づいた。
「実は僕も今、帰ってきた所なんだ。今夜は街灯要らずの星月夜だったよ。こんなそこそこの街中で月や星が綺麗に見えると、ちょっと、嬉しいよね」
 教師らしくこの夏場でもかっちり締めたネクタイを緩めながら、団扇を片手に身を屈めて鴨居を避け、相模が主室へと消えた。その後、玄関からの死角で押入れを開ける音がしたかと思うとワイシャツやらスラックスやらが投げ出され始めたので、トーコは思わず背を向けて玄関扉に向かって抗議した。
「ちょっと!ここに妙齢の女子がいるんですけど!」
「ああ、ごめん、ごめん。君がそこにいる内にと思って。ちょっと、待っててね」
「いや、待て、って言われても…」
「君、ここ以外に行く所、ないんでしょ?」
「そりゃあ、そうよ!ここは、あたしの家だもの」

 そう言って勢い良く振り返ると、ラフな格好に着替えた相模がTシャツの裾を下ろしながらちょうど部屋から出てきて、眉間のしわに溜まった雨粒ごと正面から見据えられてしまった。

「とにかく、その濡れたのどうにかしないとね」

 軽く溜息をついて、とりあえずタオル持ってくるから、と、洗面所へと向かった相模は大判のバスタオルを持って再び現れた。

「はい。早く拭かないと、風邪引くよ?シャワー先に使いたいなら、僕、コンビニにでも行ってこようか?」
「えっ、っと…でも、アンタだって今、帰ってきたばかりなんでしょ?」
「そうなんだけど、冷蔵庫の食べ物が出払ってる事に帰って来てから気づいたんだよね。夕飯、まだなのに」
「あのっ!」

 トーコは例のド派手な大袋とは別の、手にしていたガサ袋をえい、と相模に差し出した。

「スーパーで、お惣菜買ってきたの。….と言っても、売れ残りの寄せ集めだけど」
「でも、君の分でしょ?」
「見切りの値下げシールが貼ってあったから、つい多く買い過ぎたのよ。好きなの選んで」

 ほら、とスーパーの袋を押し付け、トーコは靴を脱ぎ始めた。

「いいわよ、別に。部屋に居て。実際ここは、あんたの家でもあるみたいだし。それに職業柄わいせつ行為なんかしたら、アンタ人生捨てる事になるでしょ?しかも、あたしはこれでもマスコミ人の端くれよ。いくらだって話に尾ひれをつける事が出来るの。これだけ負の条件が揃ってるのに危険を犯してまで襲いたくなる程、あんたが欲求不満だって言うなら話は別だけど」

 トーコは、普段より少し斜め上の態度で精一杯の牽制球を投げた。そうさっき、部屋の外で大学生の彼女がしたように、ツンとして踵を鳴らすような、そんなイメージで。
 足を土間から引き上げるタイミングで相模を一瞥すると、狐につままれたような顔でボーッと突っ立っているので、粗方水分を吸収させたタオルをバフっと投げつけてやった。
「オススメ通り、先、シャワー行くわ。勝手に選んで食べてね。あたしは残りで十分だから。あ、幾つか明日の朝食用に取っておいてね」
 トーコは早口で一気に要件だけ伝えると、寝室へ一度引っ込んだ。
 ドアを閉め、内鍵をかける。
 長ゼリフで使い果たした酸素を補給する為に深い深呼吸をひとつ。
 やはり状況は変わっていなかった。ここは確かにトーコの家だが、玄関扉のこちら側の景色は確実に相模のものだ。
 雨に濡れた身体にへばりつく服に目をやったトーコは、それらが借り物である事をあらためて認識した。余りにも心地よく着て過ごせたので、すっかり忘れていた。収納からめぼしい着替えを慌ただしく物色すると、そそくさと風呂へと向かった。
「あ、ビールは冷蔵庫に入れておいたよ」
 シャワーを浴びて洗面所から出てきたトーコに、相模が声を掛けた。
 ガシガシと無造作に髪をタオルでかき混ぜながら、ありがと、と小さく述べる。
 スーパーで買ってきたのは、筑前煮、フライドポテト、唐揚げ、マカロニサラダ、かんぴょう巻きと鉄火巻き、食パン一斤に、レトルトのコーンスープ、牛乳、フルーツの入ったヨーグルト。それから、350ml缶ビールを半ダース。以上。
 冷蔵庫からビールを二本取り出す。
 失礼、と主室に入り相模が座る向きと直角になるように陣取ると、机の上に置いた。
「あげる。夕食も含めて、朝のお礼よ」
「ああ、卵、勝手に使っちゃってごめんね」
「別に、構わないわ。どうせ使うつもりで買ったんだし」
 しかも、食べたかったメニューに見事に化けて目の前に現れたのだから文句のひとつも思いつかない。
「そういえばあの卵、派手にヒビ割れてたけど、どうしたの?」
「知らないわよ。勝手に籠から落ちたのよ、駐輪場で」
「そっか」
 そう言った相模は、笑いを噛み殺して肩を震わせているのがバレバレだ。
「何よ。仕方ないでしょ」
「いや、ごめん。現場の惨状を想像したら、つい」
「他人事ね」
「まぁでも、ちゃんと救出してあげる所が、また、ね」
 何のフォローにもなってないっつーの。
 トーコは相模より先にプルタブに指を掛け、プシュ、と音を立ててその話を終わらせた。
「ご飯先に、いただきました。ご馳走様。ビールは、シャワー浴びてからにするよ」
「ああ…ごめんあたし、自分の事しか考えてなかったわ」
 不思議な程素直に謝罪の言葉が出たのは、トーコが既に2、3口、喉を潤し終わっていたせいかもしれない。
 相模はビールを再び冷蔵庫にしまい、そのまま風呂場へ直行した。
 机の上を見渡すと、巻き物と筑前煮のプラスチックトレイが開封されている。取り皿が用意されており、トレイの中身はそれぞれ、相模が食べた分だけ減っていた。トーコはそこに唐揚げとポテトを追加して、ビールの続きを呷って独りごちた。
「あー、あたし、何すっかり馴染んでるんだろ?」
 この極めて異様な、日常に。
 その答えは、どう考えあぐねいても出なかった。
 ふと、持ち帰ってきた大袋の中身を思い出す。勢いで買って来たものの、後悔が無いと言ったら嘘だ。そびえ立つ本の壁を上目遣いで見ながら鉄火巻きに手を伸ばし、トーコは頬杖をついた。
「やっぱり、怖いわよねぇ」
 そして、やはり頭にタオルをかぶったままの相模が風呂から戻ってきた。
「あ、やっぱり、揚げ物はツマミ要員だったか」
「そうよー。まぁ、どうぞ」
 トーコは努めてしれっとした態度で勧めた。
 ガシガシとタオルで髪をかき混ぜる相模の仕草に何処と無く既視感を覚えつつ、トーコは唐揚げとポテトのトレイを相模の席の前に移動させた。冷蔵庫を開けた相模が先程の缶を手に取り再び席につく。
「見たことない種類だね。コレ」
「そう?結構ベストセラーのはずだけど」
 そこまで言って、急に重要な案件を思い出したトーコは口に含んだひと口を無理矢理喉に追いやって、でも勢い良くやり過ぎたせいでゴホゴホとむせてしまった。
「平気?」
「全然。ていうかさ、もう一度聞くけど。今一体、西暦何年なのよ」
「ああ、だから…1990年だって」
「その缶、開ける前にひっくり返してごらん」
 缶?ひっくり返す?
 相模は訝しげに手にしていたビールを左の手首ごと返すと、底に目を止めた。そこに印字されているであろう消味期限を相模に読ませるのが、トーコの意図するところだった。
「何て書いてある?」
「賞味期限 2015・10」
「それ、2015年のスーパーで買い物してきたって事!惣菜に付いてる賞味期限だって、2015年の日付ばかりよ」

 相模は静かに唸ると右手の親指と人差し指をフレミングの法則の形に構え、探偵が推理をするような面持ちでそれを自らの頤に咬ませた。
 が、次の瞬間、缶を元に戻すと同時にプルタブを引いたので、ガスが抜ける音と悲鳴が同時に響く事になった。
「うわっ!」
「あっ…バカっ!そんな振った後すぐ開けるから…!炭酸飲んだ事ないの?アンタ!」
 相模の手はみるみるうちに発泡する白い生き物のようなビールまみれになり、トーコはすかさず頭に巻いていたタオルを解きその惨事を覆い隠した。
「はは…ごめん、ごめん」
「まったく…世話焼きのクセに世話焼かれキャラなの?アンタ、ほんっとーに掴み所が無い」
「ねぇ、その〈アンタ〉って言うの、やめない?」
 トーコはハッとして相模の顔を見上げた。
 無理もない、この人一応教師だし。年上っぼいのは聞かなくてもわかる。目上の人をあんた呼ばわりするじゃじゃ馬は見過ごせない、か。
「そうね…悪かったわ。じゃあ、何て呼べばいい?」
「トーマ」
「へっ?」
 トーコの頭のてっぺんからすっとんきょうな変な声が出た。
「いっ、いきなりファーストネーム?」
「いいよ。その方が君も気兼ね無いだろ?」
「せめてトーマ…さん、とか」
「いや、いい」
 トーマ、ね。トーコとトーマ。
 語呂は悪くない。
 いや、それはあんまり重要ではない。
「じゃあ、トーマ。あたしの存在、不思議じゃないの?可笑しいでしょ?どう考えても。2015年って言えば、あなたからしてみれば、かっきり25年後よ」
「そうだね」
「さっき天気の話が噛み合わなかったのも、部屋の内と外で世界が違うから…じゃないかしら」
「そうかもね」
「あの玄関扉がふたつの時代の接続点になっていて…さしずめ、どこでもドアとタイムマシンが合体したって感じ?」
「うんうん」
 トーマは相づちを打つ度にビール缶を口へと運び、ちびりちびりとやっている。ビールを日本酒のように飲む人間を、トーコは初めて見た。
「あたし、適応能力は高い方だって自負してたけど、さすがに今回ばかりは参ったわ」
「どこでもドアは25年後も健在なんだね」
「当たり前よ」
 なかなか話の核心に迫れないのは、酒が入ったせいではないと思いたい。
「トーマがこの部屋を出ても、25年後の世界に迷い込む訳ではないのよね?」
「ああ…うん。何も、変わったことは起こらないよ」
「そうかぁ」
 トーコは首筋を伸ばしてビールを呷り、最後の一滴まで飲み干すと音を立てて机に缶を置いた。そして腕組みをし、あぐらをかいて目をつぶる。
「ぷっ」
 片目を開けて見やると、トーマが笑いを噛み殺し切れずに口から空気が漏れた音だった。
「ちょっと!人が真面目に考え事してるっていうのに」
「だって、妙齢の女の子にしては余りにも堂に入った仕草だったから」
「はぁ?ほっといてよっ!」
 プイと口を尖らせ、トーコはトーマを視界から外した。それと引き換えにフレームインしてきたのは、壁一面の本棚。
「ねぇ、この本棚、全部トーマのコレクション?」
「そう。一応これでも、人にモノを教える職業だからね。知識だけは溢れさせておかないと」
「いつもこの本棚の麓で寝起きしてるんでしょ?怖くないの?」
「何が?」
「寝てる間にひと揺れしたとして、この素晴らしい蔵書の下敷きになって息絶えても悔いは無い?」
「はは…それもいいかも、ね。本望だよ」
「このおバカ。ちょっと、待ってて」
 トーコは中座すると隣の部屋に向かい、出番を迎えたド派手な大袋を手にして元の場所に腰を下ろした。袋の中から取り出したのは、家具転倒防止用のつっぱり棒だった。
「知ってる?コレ、天井と本棚の間に突っ張らせて、簡単に倒れないようにするの。あと、あの重たそうなぶっとい本とかはもっと下の段に入れなよ」
「へえ、未来から来た〈ひみつ道具〉だね」
「黙って部屋で使う分にはこれぐらい構わないでしょ。もし、ここが本当に25年前の世界だとしたら、あたしが勝手に色々持ち込んだら大変な事になるかと…気にはなったんだけど」
 トーコは防災グッツをトーマに袋ごと渡すと、唐揚げを放り込むために大きく口を開けた。
「ありがとう。使わせてもらうよ」
「是非とも。こんな立派な本棚が倒れてくるかと思うと、見てるこっちが怖いもの」
「お礼代わりと言っちゃ何だけど、読みたいのがあれば、ご自由にどうぞ」
「それ、そのひと声を待ってたわ。本を見てると、疼くのよねー、脳みそが」
 と言いながら何故か指をポキポキ鳴らすトーコを見て、トーマが再度吹き出したのは言うまでもなかった。
 結局トーコは一缶で飽き足らず、2缶目を空けた時には唐揚げが完売していた。
 酒が入って饒舌になったトーコの話に終始笑顔で頷きながら聞いていたトーマだったが、夜も22時を過ぎる頃、明日の授業の準備があるからとトーコに退出を促した。
「明日が休日だったら良かったんだけどね。許して」
「許すも何も、あたしも明日は出勤だし。つい、いつものクセが出ちゃった。付き合わせて悪かったわ。…大変ねぇ、教師も。気が抜けないって言うか…四六時中ピシッとしてなきゃいけなさそうで」
「…そうだね」
「同じ人間なんだからだらしない所があったって、失敗したって、可笑しくはないのに」
「僕は正に、そういうだらしない教師かも、しれない」
 トーコにすらギリギリ聞こえるか否かの絞り切った音量で、どこかをみつめたまま猫背のトーマが呟いた。トーコはそんな彼の顔色に酒のせいではない不調を感じて、机の上を片付ける手を休めずに話題をすり替えた。
「そういえば、トーマの専門は何なの?これだけ満遍なく本が揃ってると、推測も難しいんだけど」
「国語だよ」
「えー、意外に普通。もっと、小難しい理数系かと思った」
「その普通を教えるのが難しいんだよ」
「センセイが行き詰まったら生徒も行き詰まるわよ。精々、頑張ってね」
 ゴミをまとめ、残った食べ物は蓋を戻して冷蔵庫行き。台布巾で机上を整える。そして棚に並ぶ本の中で目についた、昼間会ったあの筋肉オタク瑞樹雅美のデビュー作をトーマに取ってもらった。近著は取材準備の為何冊か読んだが、初期の作品はタイトルは既知でも内容はまだ未開拓だった。
 何しろ規格外の背丈を持つ彼が使う、それ相応の大きさの本棚だ。トーコが背伸びをしても指先すら触れない最上段から、彼はいとも簡単に目当ての本を引き抜いた。
 トーコはありがと、と感謝の言葉を忘れない内に口にした。
「明日も先に行っちゃうんでしょ?朝食は自分でやるから、お構い無く。それと…申し訳ないけど、あなたが居ない間に洗濯機も借りるわ。この辺、コインランドリーが遠くて」
「構わないよ」
「光熱費、ちゃんと入れるから」
「そういう事はまぁ、追い追い」
 おつかれ。おやすみ。
 昼間、諸々と共に調達しておいた歯ブラシを取りに寝室に向かい、洗面所に行く為に前を通り掛かった時にはもう、主室の引き戸は固く、閉ざされていた。

 目蓋を透かす陽の光によって呼び覚まされた感覚が、指先に触れる本の存在を確認した。辛うじて手元の灯りが付けっ放しではなかった事に胸を撫で下ろす。どうやら借りた本を読み終えてすぐ、力尽きてしまったようだ。

 時計を見遣ると、七時半。昨日よりは早く起きる事ができた。
 トーコはとりあえず部屋の外を窺おうと、ドアまで這うように移動して内鍵に手を掛けた。
 ドアの隙間から顔だけ覗かせる。トーマの気配は既に無く、それを確認したとたん溜息を吐いた口を両手で覆い、そんな自分にトーコは目を見開いた。初対面の夜、あれだけ警戒してムキになっていた自分を思い出して自嘲する。気を取り直すと再び、身支度の為にドアを閉ざした。

 着替えを済ませ、部屋を出たトーコは琥珀色を思い起こさせる香りで振り向いた。コーヒーメーカーの電源が昨日の朝と同じく入っていて、サーバーにはやはりふたり分のコーヒーが淹れてある。
 お構い無く、って言ったのに。
 トーコは昨晩借りた瑞樹の処女作を胸に抱き、主室の敷居を跨いだ。朝陽が斜めに差し込む和室のまだ新しい畳は青々として日焼けの跡は見当たらない。
 トーマが取ってくれたこの本が戻るべき場所はトーコの指先上3センチ。返却は机の上に置いて済まし、まだ時間に余裕があるので次に借りる本を探させて貰う事にした。
 本当に、呆れる程統一感の無いコレクションね。
見上げると、本棚の天板と天井との間で突っ張り棒が2本、良い仕事をしているのが見えた。早速、使ってくれたようだ。
 トーコは自分の手が届く範囲に限定して、タイトルや背表紙を端からなぞるように見た。
 最下段の一番左、雑誌類が集まるエリアで一際目立っていたのは、見慣れたロゴが入った文芸誌であった。
「うっわ、あった…〈虹〉!」
 トーマが所持する月刊レインボウは現在の体裁と違って大判で薄手だった。一桁しかない若すぎる通し番号にむず痒さすら感じる。まだ色褪せも折り目破れも無い姿を目の当たりにし、トーコのテンションは天へと駆け上がった。
 そしてその背に人差し指を掛けて引き抜こうとした時。ひとつの気がかりが急に頭をもたげ、トーコの動きを止めた。頭の中で再生される、編集長の声。
〈あなたの人生は、虹を越えて始まった。今はまだ、これしか言えないわ〉

 マキタさんに初めて会いに行ったのは、中学2年の夏休みだった。
 育ての親は、自分達が本当の両親ではないと段階的に明かしてくれていたので、トーコはその事実に誤った疑念や絶望を感じること無く分別の付く年齢に成長していた。

 それは、長期休暇の宿題を済ませる為に義父の書斎から辞書を借りようとした折だった。
 普段は閉ざされている扉付きの本棚が、珍しく全開になっていたのだ。たまに義父が義母に向けて書斎の換気を頼んでいる場面には出会っていたので、恐らくこれもその一環だろうと不思議には思わなかった。だが、何気無く覗いた棚の中の、〈虹〉のロゴと目が合った。読み込んだ形跡が残る数冊分の古びたそれらは、ひっそりと息を潜めて棚に収まっていた。

 もっと新しい、ごく最近の号はリビングに置いてある。義父もトーコも本を読むのが好きで、レインボウの書評を回し読みしてはあれこれ語り合う。それが、思春期の娘にしては男親と仲が良いと自覚する理由のひとつでもあった。
 埃除けの扉の中で大切に保管されていたのは、ちょうどトーマの蔵書と同じ時期のものだったはずだ。あの日も今と同じように、愛読誌の若い姿に興奮冷めやらぬ自分が〈虹〉の前に居た。

 そしてその背に人差し指を掛けて引き抜こうとした時。
 やはりトーコは、躊躇した。
 トーコがこの家にやってきたのはレインボウ編集長の計らいだったと、義父から聞かされていた。レインボウの記事に、何らかの関係があった、と。
 この時点でトーコには、その関係を白日の下に晒す動機が無かった。義父も義母も大好きだし、暮らしている家に何の不満も無い。わざわざ蓋をして遠ざけられていた真相に、敢えて貪り付かなくても良いのではないか。
 磁石の同極が触れ合うのを避けるように、トーコは静かにその場を立ち去った。

 ところが、それからと言うものトーコの頭の中は〈虹〉の一件でいっぱいになってしまった。確実に蓋は、開いてしまったのだ。
 仕方なくトーコは、両親に話を切り出した。元来隠し事が苦手な性分だ。悩んでいる様子はふたりにいつも筒抜けで、それでいていつも彼らは、トーコから話があるのを待っていてくれる。その間合いが心地良い。だからこそ、壊したくない。
「でも、やっぱりあたし、知らない事実がどこかで眠っているのなら、耳打ちでそっと起こして、その声を聞いてみたい」

 義父が編集長に会う事を提案してきた時、トーコの中で、それまで見えていなかった景色が先へと広がって行くのがわかった。

「あなたの人生は、虹を越えて始まった。今はまだ、これしか言えないわ」
 ひとりで訪れたレインボウ編集部の応接室で、ガチガチに緊張したトーコに向かい、編集長が言い切った。
「どういう意味ですか?何なんですか、それ。暗号ですか?」
 子供相手だと思って、軽くあしらわれているのだったら心外だ。トーコはトーコの意思でここに来たのだから。
「いいえ、そうではなくて…ごめんなさい、気を害したかしら」
「いえ、まあ、ちょっと、ムカつきましたけど」
「ふふ…あなた、面白いわね」
 ひとつの雑誌を女手ひとつで育て上げた敏腕編集長として、マキタさんは既に時の人だった。トーコの想像を裏切らない容姿で、凛とした空気が彼女の一挙手一投足の全てと共にある。
「今はまだ、というのはね…あなたまだ、本気で誰かを好きになった事が無いでしょう?」
「はい?」
 まだ5分と話してもいないのになんでわかるんですか、と続けようとしてでも、そんな自分の幼さ故の強さを彼女の前でひけらかすのが嫌でやめた。
「誰か、じゃなくてもいいわ。何かを本気で好きになって、その事で道を見失いかける。そんな気持ちを身をもって知る事が出来たなら、どんな事実が明らかになっても己を見失わずにいられるでしょう。それまでは、お勧めできないわね」

 真実を、知る事を。

 その時トーコは、いずれレインボウ編集部に入ると心に誓ったのだった。
 10年後の採用面接で彼女と再会した際にも、実は同じ質問をされた。自分を見失う程の気持ちを持てたかと。しかしトーコはまた、横に首を振るしかなかった。むしろ、見つからないそれをここで見つけたい、そう思ってきたのだから。
 不採用になるかもしれないとビクビクしていたが、1週間後に届いたのは採用通知だった。
〈お前にだって何かしら、誰より愛が深いと思う物が、ひとつはあるだろ?〉
 昨日取材の帰り道で、タカちゃんに言われた言葉が反芻される。その時もやはり、トーコは即答出来ず終いだった。
 だから、多分まだ、この本には触れてはいけない。
 いけないのだ。

 トーコは指を掛けたままだったレインボウからゆるりと離れ、仄かな畳の香りを後にした。


4、本の向こう


 その日、出勤したトーコに割り当てられたある仕事が、折角の決意を根底から揺るがすものになろうとは、思いもよらなかった。
「バックナンバーの、データ化…ですか?」
 タカちゃんから指示を受けたトーコは、とりあえず聞いた事をそのまま繰り返す。
「アホ。そこ、オウム返しでどうする」
「だって、余りに漠然としてて…」
「読んで字のごとく、だよ。今年、レインボウは創刊25周年だろ。四半世紀記念に、今まで放置だったバックナンバーを根気良くスキャンして、データに落とす。それが、これから暫くの間お前の仕事って訳だ」
「なるほど…って、一体何冊分あると思ってるんですか!専門業者に頼んだらどうです?」
「そこは、ほら、いつもの経費節減って奴。その分、本誌の企画に予算が割けるだろ?俺も、他の皆も手が空いた時は手伝うからさ」
 ま、気長に頑張れ、とタカちゃんがトーコの肩を叩く。
 他のデスクを見渡すと、皆口々にファイトーなどと適当なエールを送っている。

 編集長席に一番近い席にいるのが、うだつの上がらない副編集長、ヤギフクこと八木。小柄でフットワークが軽いのだけが取り柄のオジサンだ。
 その隣で年季の入ったワープロを叩くメインライターの橋本、はしもっちゃん。
 冷房の入った部屋でも汗を拭き拭き誰かと電話しているのは、白石、こちらはそのままシライシ。ちなみに声がデカい。
 向こうの共有パソコンで画像を処理している、背筋の通った彼は有賀。影で働きアリなんて呼ばれてるけど本人は気にしていない。
 以上、全員中年、もとい、中堅の男性である。もちろん、トーコが実際にお呼びだてする際は皆苗字にさん付けだ。

 そして、タカちゃんと、あたし。
 単純計算したって300冊はあるバックナンバーを、この6人で手分けして地道にスキャンするのだ。その気があるなら何故今まで放置してきた、と、拳を震わせかけたが後の祭りである。25周年の記念に、とは取ってつけた理由だろう。要するに、今までは適任者不在だったのだ。
「見習いのあたしにピッタリの仕事をありがとうございますっ」
 たっぷりの皮肉を表情と声色に込めて、トーコは胸を張って右の親指を立てた。これを機に、レインボウの歴史を頭に叩き込んでやるわ。
 この時はまだ、バックナンバーをなぞる事で必然的に訪れる瞬間についてあまり深く考えてはいなかった。

「でね、早速創刊号から始めて数冊スキャンをしたんだけど、これがまためんどくさくって…何か策を練らないと、今年いっぱいかかるかも」
 その夜、アパルトマンに帰宅したトーコは、ビールを片手に昼間の一件についてトーマに向かってボヤき始めた。
「でも、便利な方法だね、それ。たくさんの紙面を、場所を取らずに半永久的に保存できるなんて。」
「そうかしらねぇ。あたしは、本は紙を手でめくる動作あってのものだと思ってるけど。味気ないわよ、画面上の文字って」
 くいっ、とひと口呷ると、そうだ、と思い出した態でトーコは、本棚の左下辺りを指差しながらトーマに話を振った。
「トーマもレインボウの読者なのね。そう言えばあたしが名刺出した時、知っていたものね」
「ん…ああ、そう、だよ」
 明らかに歯切れの悪い返事をしながら、トーマは笑っている。あの、初めて会った夜。トーコが保身の為に突き出した名刺を見たトーマの顔には、ハの字とへの字と、おまけの梅干しまで出来ていた事をトーコは良く覚えていた。

 この当時の紙面については噂には聞いていたが、今日、実際に目の当たりにして納得した。誇張的な雰囲気が全面に出ており、どちらかと言うと下世話なのだ。今と比べて世間の目も幾分緩かったのかもしれないし、出した者勝ちな風潮も、あったかもしれない。
 インターネットでひとつの噂が数秒で世界に広まる現代に於いては、情報の一人歩きを危惧して出版社も及び腰な所があるのは否めない。ひと度人権侵害などと声をあげられてしまったら、そこから先の諸々が面倒極まりないからだ。

 もしかしたら、トーマは当時のレインボウを、現代的な目で批判的に見ているひとりなのかもしれないと、トーコは直感した。トーマのスタンスならば、同調出来ない本すらも知識の泉とするのだろう。
「どう?一読者の目から見た、レインボウは」
 スルーするのも不自然なので、トーコはけなされるのを覚悟の上で敢えて突っ込んだ質問をした。中の人としては、気になって当然の事だ。
「どう…って」
「あたし、今日初めてまともに創刊当時の号を読んだけど、ちょっと、内容がカゲキだなぁ、と、思ったの」

 あ、また出た。
 ハの字とへの字。プラス、梅干し。

「例えば…有名作家の赤裸々な恋愛遍歴、とか。本人が語ってるのかどうかも怪しかったし」
 握ったままのビールの缶にトーマは指を食い込ませ、そのままいつもより少し豪快に呷った。
「ナントカっていう児童文学賞を獲った教師なんか、実は教え子に手を出して左遷されてた!とかスッパ抜かれてて」

 ダンッ!
 トーコは始め、何の音かわからなかった。
 机の上に視線を落とすと、トーマが握るビール缶から白い生き物のような泡が次々に這い出てきて、辺りにぶわっと流れ出ている。
「なっ!ちょっ…ちょっと!トーマ?」
 トーコは風呂上がりから頭に巻いていたタオルを素早く解くと、その惨状を覆い隠した。
 さっきの音は、トーマが顎を上げて高く振り被った缶の底を勢い良く机に打ち落とした音だったのだと、その時になってようやく気付いた。
 トーマは広がる泡を見つめたまま、ひと言も発しない。
「トーマ?ど…したの?」
「………ん、いや。ごめん。」
 それだけ言うと、トーコの手からタオルを譲り受け、無言のまま自ら後始末を始めた。
 トーコはその様子を、ただ見守る事しか出来なかった。トーマからはただ、無の境地とも言える程の空虚しか感じられなかった。

「…おい!マナベ!聞いてんのかっ?」

 タカちゃんの声がいきなり耳のそばで聞こえて、昨夜から引きずっていたトーマの虚しさからトーコは強制的に弾き出された。
「なっ!声!声大きいよタカちゃん!」
 思わずタメ口になって、二重にドヤされた。
「これ。こっからここまで、スキャンのサイズ間違っとるぞ。ただでさえめんどい作業なのに、やり直しとか、有り得んから!」
「ええっ!うわっ…ご、ごめんな…さい」
「単純作業なんだから、集中力切らすぐらいなら小まめに自主的な休憩を挟むこと!以上!」
「はいっ!」
 軍人張りの敬礼でタカちゃんに敬礼すると、トーコは言われた通り一旦席を外した。そして、編集部専用の小さな冷蔵庫からマナベと記名したペットボトルを取り出してから、屋上の休憩スペースへと向かう。

 昨夜はあの後、授業の準備があるからと言いかけたトーマを置いて、主室から逃げるように引き上げた。
 一見穏やかな彼をあそこまで狼狽させたのは、やはり自分なのだろう。トーコは懸命に、その原因たる己の言葉を思い返した。

 そして、その結果が、これだ。

〈期待の新人児童文学作家、その愛憎の果て〉

 小さく折りたたんだコピー用紙をヒップポケットから引っ張り出し、丁寧に広げる。いかにも妖しい単語と文字が相乗効果を上げ、紙面を所狭しと賑わせていた。昨日スキャンした分の中のあるページを、出力テストにかこつけて一部プリントアウトしてきたものだった。

〈第12回○○記念児童文学賞にて最優秀賞を受賞したA氏の普段の顔は、都内某私立高等学校で国語科の教鞭を執る教師だ。忙しい日々の合間を縫って紬ぎ上げた珠玉の作品は、審査員陣の満場一致で最優秀賞に選ばれた〉

 編集部が入るビルは、周囲の建物に比べ低層だ。だから、屋上に出ても尚、空が狭いと感じざるを得ない。そのお陰で夏の直射日光を避ける事が出来ているのだが、ビル風だけは一丁前に吹き荒ぶので、トーコは手にしている儚い紙1枚が飛ばされないよう、しっかりと両端を掴んでたたみジワを伸ばした。

〈職場でも優秀な人材であるだろうと取材を試みていくうちに、記者はA氏に深く関わりのあるひとりの女生徒の存在に行き着いたのである〉

 そこから先を、トーコは何度も何度も読み返した。紙に穴が空く程の眼力で、鋭い視線を浴びせまくった。

〈受賞直前まで系列の別の学校に勤務していたA氏は、事もあろうに教え子の女生徒と肉体関係を持ったのである。結果少女は妊娠、自主退学に追いやられたが、A氏は学校側の慰留を受ける形で処分は転属に留まった〉

 何故だろう。少女が退学処分なら、男も懲戒免職ぐらい食らっても良いものを。

 その時、脇から手元を覗いてきた影に驚いてトーコは危うく紙切れを手放しそうになった。
「わわっ!」
「おいっ!飛んじまうぞ!」
「なんだ、タカちゃん!ビックリさせないで下さいよー!」
 トーコの代わりに記事のコピーを捕まえたタカちゃんが、そのシワを伸ばして読み始めた。
 今更それを止める権利も動機も無いトーコは、彼が黙読を続ける間にペットボトルの蓋をカラカラと回し、不自然に乾いた喉へお茶を流し込んだ。
「こいつ、職場の犬だな。」
「犬…って、なんで?むしろ、こんな後ろめたい事してるのに自分だけ学校に残るなんてずる賢くない?結局、女の子だけが辛い思いをして、男の方はただの遊びだったからもう忘れます、ぐらいの感覚なんでしょ」

 トーコは無意識に声高になっていた。しかも、タメ口で。
 それでもタカちゃんは今度はそこには触れずに、まあ落ち着け、とトーコをなだめた。
「ふたり一緒に放っぽり出せば、そりゃ手っ取り早いかもしれないが…この場合、下手に外で幸せになられると学校としてはそれを幇助したと世間に思われる可能性がある。ふたりの間を確実に引き裂いて、且つ男の行動を以降も監視する為には、有無を言わさず系列内で転属させるのがベストなんじゃないか」

 確かに、タカちゃんの読みはもっともだ。
 しかしこのふたりがもし、事が発覚した後も惹かれ合っていたとしたら、その処罰は最悪の結果としか言いようがない。
「問題なのは…この記事が出回った事によって一度は収められたはずの一件が、蒸し返されてしまったという事だろうな。この号が出た後、男は再び何かしら学校からイビリを受けたんじゃないか?」
「え…!」
「まあ、こうやって伏せ字やらで本名や団体名が特定されていない上に、賞の方はペンネームで獲ったみたいだから….案外無難に乗り切ったかもな。ネットが普及していない当時なら、こんなアングラな少部数発行の新創刊誌が書いた記事なんて、下手すりゃ遠吠えで終わってた可能性もあるし」

 ガタンガタン、と音がする方を見遣ると、ビルの狭間から高架上を走る電車の姿が見えた。
 あ、電車だ、とトーコが声を掛ける前に、タカちゃんはもうそっちの方を見ていて、なんだかうっとりしているようだった。


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