見出し画像

短編小説『ひとり』

もう戻ることはないと思っていた死んだ祖父が遺した山間の空き地。災害に遭い十数年ぶりに帰省した新畑薫之介は、そこで孤独に満ちた記憶をなぞる。

 打ち薫る野花が薄い土埃をまとってチカチカ煌めいていた。ハルジオン、ヒメジョオン、カラスノエンドウ、ホトケノザ、タンポポ、シロツメクサ、ムラサキツメクサ、ナズナ、スミレ、カタバミ…。それぞれの顔を確認しながら、口ずさむようにに点呼する。小ぶりの家が一軒建てば終わる程の小さな空き地は下生えの明るい緑で隅々まで埋め尽くされており、白や黄やらの小花が無尽蔵にちりばめられ、さながら天に瞬く数多の星。

 その場所は、僕を僕たらしめる唯一の証だった。

「新畑!おおい、新畑、って…!」
 聞こえとんのかい、と苛立ちのにじんだ語尾がようやく僕の内耳に爪を立てた。振り返ると、幼馴染の国本が車1台入れない細い未舗装の道をまっすぐこちらに向かって駆けてくる。背後に捲き上る派手な砂煙が、彼の身体の重量を物語っていた。地元で代々続く不動産屋を若くして継いだ彼は、この辺り一帯の土地の管理を一手に請け負っている。
「おお、国本。待ってたぞ」
「何ぁにが待っとったじゃ!それはこっちの台詞だコラ」
 息を弾ませた国本は空き地の前まで辿り着くと、スラックスのポケットから取り出した青海波紋の手拭いで額に浮く玉の汗を片っ端からやっつけた。
「幾ら待っても現れんから、嫌気がさして帰りかけてもうたわ」
 暫くぶつぶつと悪態をついていた国本だったが、ひと通り吐き出してネタがなくなると、ひとつ、大きなため息をついて僕の肩に肘を置いた。
「ほんとに、ここだけなのか」
「…ああ、ここだけ、これだけだ」
 そおかぁ。と、尻すぼみな応答がはらり、足元に落ちた。
「で、どうすんだ?いっそ、ひと思いに売っちまうか?ご先祖様もこればっかりは仕方ねえって許してくれんじゃねぇか?」
「………」
「だってお前、着の身着のままなんだろ?無一文で、身寄りもなくて、どうやって生きてくんだよ。こんな田舎で」
 三十路を迎えた僕らの世代の殆どは、日本の屋台骨に程近いこの地から遠く離れて暮らしている。そういう土地柄、紛れもない過疎化地帯だ。多分に漏れず、この僕もその内のひとりだった。つい、先週までは。
 更に別の声がふたりの真ん中に飛び込んできたのはその時だった。
「新畑君…!」
 反射的に顔を上げるとそこでひとりの女性が立ち尽くしており、くりくりと丸くて黒目勝ちな瞳と正面からかち合った。
「無事だったのね、新畑君!見たよ、ニュースで…」
 勢いで話しかけてみたものの、どこまで話題を切り開いて良いものか思案しているといった様子でその人の声はくぐもっていく。
「…もしかして、渡瀬?」
 僕は不意に脳裏に浮かんだその名で不用意に答え合わせを試みた。するとうつむき加減だった彼女の頰が、晩春の白い光を浴びて透けるように輝いた。
「そう!わぁ、嬉しい覚えててくれたの」
 渡瀬和泉。フルネームでその名をなぞって確信した。国本と同じく、昔の同級生だ。しかし僕の記憶が正しければ、高校を卒業するかしないかで単身町を出たはずだった。
「どうしてここに?」
 渡瀬は当時の面影が残る癖の強い髪を明るい茶色に染め、そのはっきりした顔立ちも相まってどこか日本人離れした風貌の女性に成長していた。
「え?う、うん…ちょっと、ね」
 考えてみれば、自分と同い年の彼女は今年31になるはずだ。それにしては若作りではないか。などと、久々に会って話す内容ではない事をぼんやり考えていると、言い淀む渡瀬に国本がハッパをかけた。
「どうしても着いて行くって言うから乗せてやったんだ。こいつもつい最近こっちに帰ってきてよ…ま、新畑の身の上に比べたら、超情けない理由なんだが」「ちょっと!」
 デニムのショートパンツから伸びる長い脚を惜しげも無く晒し、渡瀬は国本の領域に一歩踏み込んで牽制した。
「私の事なんか、どうでもいい」
 凄みすら感じる物言いに大人しくなった国本は、2、3歩たじろいで薄い作り笑いを浮かべた。
「まっ、まぁまぁ、そうピリピリすんなって。立ち話もなんだからよ、俺んとこの事務所来ねぇか?車、向こうにつけてるからよ」
 そう言って再び手拭いを広げた国本は、さっき自分が駆けてきた方向をいささか大げさに指差した。

 山道を下る間の過激なハンドルさばきに僕らふたりがすっかり辟易し尽くした頃、国本が操る紺色のセダンは町一番の大通りに差し掛かった。その昔地域一番の商店街だったこの道も、今では酒と煙草と米しか手に入らない。
「あまりにも人がいねぇからよ、人類は滅亡寸前なんじゃねえかって、錯覚すらするわ」
 絶望する国本が深く息をつく。
 助手席で腕組みをしていた僕は、こっそり背筋を伸ばしてバックミラー越しに後部座席を窺った。脚を組み、開け放った窓から吹き込む薫風にその豊かな巻き毛を委ねている、渡瀬和泉。
 こうして僕が彼女の事を盗み見るのはこれが初めてではない。もはや無彩色のサイレント映画みたいに熟成した記憶の中から、彼女と思しき姿が映るシーンを引っ張り出しては脳裏で上映してみる。教室の片隅。下校中の坂道。夏祭りの日、賑わう神社の境内。焦点より若干外れ気味に収まる渡瀬はどれもこれも、ぼう、と灯るようにそこだけがほんのり卵色に光っていた。
 僕は多分、渡瀬の事が気に入っていたのだ、と、思う。
 車体を左右に揺らして砂利敷きの駐車場に入るや否や、鼻先がまだあさっての方向を向いているにも関わらずギアをパーキングに入れた国本は、そこでためらいなくエンジンを止めた。

 事務所の応接スペースに並ぶ2匹の巨大カブトムシみたいな黒光りのソファーへ僕らを通すと、国本は冷蔵庫から同じ銘柄の缶コーヒーを3本取り出し、そのうち2本をガラス机の天板に並べた。
「月並みな言葉しか思いつかねぇけど大変だったな新畑」
 国本は手元に残った1本のプルタブに指を引っ掛け、こちらを見ずにひと息でそう言った。特に同情するでもなく、無駄な気遣いも混ざらない。
「まあ、うん」
「今朝はどうやってウチにかけてきたんだ?携帯も持ってねぇんだろ?」
「避難所の小学校が電話貸してくれた」
「なるほど」
「ひとりで留守番中に何かあったら大家に連絡しろって、昔じいちゃんに教え込まれたんだよ。おかげで唯一思い出せたのがここの番号だった」
 5日前、10余年棲んだ土地が水の底に沈んだ。
 長雨による河川の水量増加、堤防の決壊。テレビの中でしか見たことの無い現実味のない景色が眼の前にあった。僕の根城は切れた堤防のすぐ脇にあり、オンラインゲームを夜中やらかした事がたたって寝込んでいた僕は突然の惨事になす術もなく、窓を割って流れ込んできたどす黒い濁流に木の葉の如く翻弄された。
 ひとり身で親族もいない僕がこのまま果てまで流されたとて、誰も探したり、悲しんだりはしないだろう。そうやって腹をくくり再び目を閉じた時、僕の身体は奇跡的に名も無き立ち木の枝に引っかかり、一瞬も気絶すらできないまま奇跡的に生還を果たしたのだった。
「しかし、なぁ…行方不明者の中にお前の名前があるって知った時は、テレビ画面を何度見したかわからねえぞ」
「そんなに大々的にやってたのか」
「ああもう、N市の〈新畑薫之介さん(31)〉ってぜってーお前の事だろ?疑いようがねえっつーの」
 ぐび、とコーヒーを呷った国本は、口元を拭いながら興奮気味に話を続けた。
「案の定連絡つかねえし、発見のニュースは一向にやらねーしで、もうダメかと思った頃に!」
「ちょっと、もう少し落ち着いてくれる?コーヒー、こぼすとこだったじゃない」
 国本の隣に座っていた渡瀬は、いちいち体を弾ませて喋る彼が揺らすソファーの座面から立ち上がった。おもむろにセンターテーブルを回り込んで僕の傍まで移動すると、空いていた席に音も無く舞い降りた。
「これが落ち着いていられるかっての!いきなり『今ヒッチハイクでそっちに向かってるから、例の空き地に迎えに来い』だぜ⁈もうダメかと諦めてた奴からよ!」
「諦めてたのか…」
「あったり前だろが!あれじゃどう考えても助からんわ!」
 国本は側に置きっ放しだったリモコンを雑に取り上げ、ロッカーの上の古いテレビをつけて適当にチャンネルを変えた。
《K川氾濫 続報・行方不明者依然捜索中》
 物々しいテロップと共に決壊した堤防付近の映像が流れている。
「あ、あの辺、住んでたところ」
 僕は良く知る建物の断片を見留めて指差した。
「えっ!えっ!ホント?どれどれ?」
「あの、青い屋根の…」
 身を寄せてきた渡瀬の肩が僕に触れる。
 暫く腕組みで画面を睨んでいた国本が、肩を落として嘆いた。
「ほらな、こんな様子じゃ一縷の望みも捨てなあかん」
「国本の薄情者。な、新畑君」
「えっ、あ…ああ」
「何を言うかどアホ。これだから出戻りは…」「わー!わー!わー!」
 国本の暴言を掻き消すように渡瀬が声を上げると、洪水のニュースはあっけなく別の話題に切り替わった。

 僕、新畑薫之介はかつて場所がの祖父と二人でこの山あいの町に暮らしていた。
 母親は正にこの古い町を脱出していった若者の類であり、よそで産んだ僕を連れて帰省したあくる朝、ひとり忽然と姿を消した。僕には両親の記憶が無い。
 林業を営んでいた祖父は、より山深いあの空き地の場所にあった小屋と、商店街から程近い借家の自宅とを定期的に行き来していた。一度山にこもると、作業に没頭して20日ほどは戻って来ない。その間僕は自宅に残り、自炊をして、学校に通った。
 僕が17歳だった年の春、祖父が山に入ってから気づけば1ヶ月が経っていた。それまでの最長滞在記録は25日。警察に届け出たものの、捜索隊がたどり着いた時には小屋はもぬけの殻。熊にでも襲われたか、沢に滑落したか。警察の捜索は程なく打ち切られ、主を失った小屋は犯罪防止の為と半ば強制的に自治体が取り壊しの方針を決め、先祖代々受け継がれてきたあの土地はきれいさっぱり更地となった。

 祖父が生きていようといまいと、僕がひとりである事におそろしく変わりはなく、ただ、暫くして生活費が尽きた時になりやっと、自身の行く末に一抹の不安を感じた。
 僕は生き延びる為にこの町を後にした。

 国本の計らいで、事務所のすぐ側にある二階建てアパートの一階の一室を僕の当面の住処とする事になった。
「上の部屋には渡瀬がおるけん、もしうるさかったら、遠慮なく文句つけたれ」
「え…」
 事務所からアパートまでの道すがら、体格の良い国本の陰にすっと隠れた渡瀬がバツが悪そうな目だけでこちらをうかがった。
「渡瀬、実家は?花屋、だったっけ」
 僕はさっき車で走り過ぎた大通りの景色を思い返した。ほとんどの店がシャッターを閉じたまま、寝たふりでもしているかのように閑かに息を潜めていた。花屋が営業していたら、気がつかないはずがない。
「………帰ってきたら、誰もおらんかった」
「は?」
「しょうがないんだって!もう、親子の縁はとっくに切れとるし…」
 口ごもる渡瀬を尻目に国本が呆れ顔で付け加えた。
「覚えてるか?こいつ、あと一ヶ月で高校卒業って時にいきなり町を出ただろ。あれ〈駆け落ち〉だったんだと。最近その旦那と派手にケンカして『実家に帰らせていただきます』なんてベタなタンカ切って飛び出してきたら、実家そのものが無かったっていうオチ」
「もう!それぐらいにしといて!恥ずかし!」
「で、花屋のシャッターの前で捨て犬みたいになってたのを、俺が拾った」
「あんたまじでムカつく」
 国本の背を渡瀬が思い切り良くはたいた。
「………って事でさ、行き場がない同士、助け合ってくれよ。あ、一応鍵は預けとくけど、電気も水もガスも繋がってないぞ。トイレは、ウチのを使ってくれて構わないから」
 こっちも余裕がある訳じゃないんでな、と、国本は僕に一本の鍵を手渡した。
「…あの土地の売却、俺は悪い話じゃないと思う。残念ながらいい値段にはならねえけど、お前の未来には先立つものが必要だ」
 そう言って僕の肩をひとつ叩いた国本は、踵を返して黄昏時の路地に消えた。
(未来、か…)
 あるのか?この僕に。
 辺りの宵闇をそこに集めたかのように、手の中の鍵が黒光りする。
「………、っくしゅ」
 背後の空気が小さく震えた。振り返ると、薄着の渡瀬が肩を丸めていた。
「あ、まだ、いたんだ」
「いたんだ。じゃあ、ないやろ!」
 ふん、とそっぽを向いたまま、アパートの階段に向かってズカズカと歩いていく渡瀬は、古い記憶の中の卵色に光る渡瀬とは少し印象が違っていた。当たり前か。もう、そんな目で見ても良い相手ではないと知ってしまったのだから。
「渡瀬」
 思わず呼び止めてしまった時、彼女はすでに鉄製の階段をあと2段で2階という所まで来ていた。
「なぁに」
「えっ…と…、おやすみ…」
 一瞬、泣き出すのかと思う程に渡瀬の眉がハの字になって、僕は訳もなく後悔した。
「……………おやすみなさい」
 蚊の鳴くような声がした後、パタン、と扉の閉まる音がする。忙しく明滅する常夜灯の黄緑掛かった光だけが、辛うじて足元の地面の在りかを示していた。

 早朝。気づくと僕は、夢遊病患者のように浮かされてあの空き地までの道のりを急いでいた。
 夢枕に祖父が立った。
 これまでに何度となく見てきた彼の夢だったが、今朝の夢見の悪さと言ったら他と比べ物にならなかった。疲れているのか。当然だろう。僕はつい先日、一度死にかけたのだから。きっと、この身体のどこかにまだ、咲きかけた死に花の香りが残っているからに違いない。僕はなるべく無心を心がけ山道を這い上がった。
「………おうい」
 遥か遠く、下界の方から声がする。
「ねえ、ちょっと!待って、なあ!」
 ひどい息切れでぶつ切りになった声が、確実に僕との距離を詰めてくる。
「新畑、君!」
 まるでつけていたヘッドフォンを無理やり剥ぎ取られた時みたいに、その声は唐突に世界の中へと流れ込んできた。
「あ、渡…瀬?」
「さっきから呼んでるのに!聞こえんの?」
 近づいた勢いのまま僕の行く手の数歩先まで進むなり、渡瀬はそこに立ちはだかった。赤い自転車にまたがって肩で息をする渡瀬が、ウェーブヘアの根元に指を差し入れ大げさに毛先を振り払う。
「下で大きな音がしたから降りてみたら、ドアも開けたまま新畑君いなくなってて…国本を叩き起こしたら、多分こっちだろうって。…あいつ、ほんっと薄情者やわ。自転車貸すから様子見にいったれー、って」
 信じられん、とボヤきながら、平手で自らを扇ぐ。
「…ごめん、早くに起こして」
「全くやわ!…いや、ウソ、全然。もう先に起きとったし。ていうか、眠れんかった」
 追いついた僕の歩調に合わせて、渡瀬も自転車を押して歩き始めた。
「ついていっても、いい?」
「ダメと言った所で、聞く耳持たないくせに」
 僕は両肩がやけに軽くなるのを自覚した。取り憑いていた死神が、渡瀬の明るさに当てられたのだろうか。青く磨かれた石版のような山並みを遠く見据えて、僕はあらためて次の一歩を踏み出した。

 30分程歩き続けて、僕たちはあの空き地にたどり着いた。まだ温まりきらない朝の空気が、爪の先からどんどん熱を奪っていく。相変わらず不釣り合いな薄着を通す渡瀬が、鼻をすすりながら自転車にストッパーをかけた。
「なぁ、ここ、何があったん?」
 空っぽの土地を前にして渡瀬が無邪気に尋ねてくる。当時の祖父の件を知る者は大家だった国本家の人間くらいだ。
「………」
「あっ、ごめん。嫌なら答えんでええよ」
 張り巡らされた錆びた鎖は、さながら結界が張られているかのように見える。朝露を湛えた野花の蕾が、斜めから注がれる暁光の熱を受けて薄いヴェールを紡ぎ出していた。
「新畑君?」
 呼び止められているとわかっていながら、僕は返事をしなかった。膝丈程の高さで前方を横切る華奢な鎖を跨ぎ、一歩、また一歩と踏み分ける。朝露を引きずったジャージはみるみるうちに裾から湿気り、くるぶしに触れる度悪寒が走る。
「新畑君!」
 身体に合わないジャージと共に避難所の配給で貰ったキツめのデッキシューズもまた、重たく冷えて煩わしい。いっそ、この場で脱ぎ捨ててしまおうか。
「しんはたくんーーー」
 良く通る渡瀬のハイトーンボイスは遠く離れていても彼女のものだとすぐ判る。でもその声はいつしかただの澄んだ音になり、僕は、僕という輪郭を自らほどいてひたすら土の匂いを貪りたくなった。泥のような、水のようなものが皮膚の在りかを無視してあらゆる触覚を支配する。
「ーーーーー………」
 つむった覚えのない目蓋の裏に現れる無数の点。星なのか、花なのか、はたまた塵なのか。点と点は互いに仲間を探すような奇妙な動きを見せ、やがて壮大な点描画となり、無敵の静寂が脳天を打ったはずみで僕は僕を取り戻した。


ここから先は

6,267字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?