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短編小説『いつの間にか こんなにも白く』

 いつからかなぁ、冷たい雨が、柔らかな雪に変わったのは。
 いつの間にか、こんなにも白く。


 ガコン。
 駅前アーケードから僅かに外れた路地裏で、自販機から放たれた眩い光が私の全部を照らし出す。目蓋を半分閉じたまま、取り出し口に素手を突っ込みまさぐると、攻撃的に酷く冷たいものが指先に触れ、痛みを感じた時のように私は少し、大げさなリアクションを取った。
「つっ……べた」
 コレジャナイ感でいっぱいになった頭でなんとか現実世界をなぞり、今、自分が押したばかりのボタンの上の、商品サンプルに目を凝らす。さっき居酒屋でワンデーコンタクトを剥ぎ取ったばかりの両眼は、慣れてないアルコールの力も手伝ってか、笑ってしまう程焦点が合わない。
「あー……やっちゃった」
 私が押したのは〈あったか~い〉コーンポタージュとよく似た色をした〈つめた~い〉レモンスカッシュだった。
 早朝からヘアメイクと着付けに忙殺され、式典では長時間の拘束に遭い、私は身も心もくたくただった。随分と前から振袖の準備をしてくれていた実家の母は、兄3人の下で姫のように育てられた私の、見た目だけは確かにしとやかな晴れ着姿に嗚咽する程涙した。
 成人式は、親が自分の人生カネをどれだけ娘に懸けてきたかを競い合う場でもある。
 そんな通過儀礼を難無くパスした私は、中学の同窓会を兼ねた人生初の飲み会に参加している。いや、していた。さっきまで。

 自販機は、月極駐車場の敷地内に置かれていた。黒光りするアスファルトには大小幾つもの水たまりが散在していて、そのどれもが折り重なる水紋をたたえ、街灯を映す水面は絶えず揺らいでいる。
 そう、雨。
 昼間に降られなくてほんと良かったよねー、なんていう定型文的会話がさっきまで居た宴の席でも無意味なほど繰り返し飛び交っていた。中学卒業から丸5年。どの顔にもまだ見覚えがあったし、何人かとは普通に挨拶を交わした。
 もう5年。でも、まだ5年。
 私は仕方なく、冷え切った手で冷え切った缶を掴み、冷え切った身体を冷え切った雨にさらしてアーケードへと踵を返した。
「今野」
 前方から呼び止められて、私は伏せていた目蓋を仕方なく押し上げた。そこにはただでさえ着こなせていないスーツを制服みたいに着崩した、元クラスメイトの男が立っていた。
「何やってんだよお前。傘もささないで」
 あんただって丸腰じゃん。私は「別に」とだけ声にして、後の事は喉の奥へとレモンスカッシュで流し込み、男の脇を大股ですり抜けた。
「うっわ、このクッソ寒ぃのに、それ選ぶか普通」
「………悪い?」
 思わず立ち止まって応戦した。こいつ、相変わらずイラっとする。すると、
「お前、相変わらずイラっとすんな」
 私は手元の缶をひと思いに呷った。
 ああ、意外に美味しい。ビールなんかよりもよっぽど。
「なあ、まさか、俺の事、忘れてないよな?」
「あたし早くあそこまで戻りたいんだけど」
 私はあと20歩程でたどり着く、幾何学模様のタイルが敷かれたアーケードの真下を指差した。一応コートは羽織ってきたものの、慌ただしかった今朝「どうせ振袖に着替えるから」と、適当に選んだ服はもう24時を回った外気には薄着過ぎるのだ。雨に濡れるのは、最小限にとどめたい。
「んだよ、ったく」
 この小さな舌打ちには聞き馴染みがある。渋々着いてくる足音の、かかとを擦る度に混じる独特なノイズも。

 アーケード下に並ぶ店は既にほとんどが営業時間を終え、昼間の賑わいはすっかり影を潜めていた。緑がかった常夜灯が、たまに通る通行人の影を短く幾重にも重ねてタイルの上に落とす。じきに見えて来たパン屋のシャッターには、リアルなトーストの絵が描かれていて、その二階に入っている居酒屋が、このイラっとする元クラスメイト金子カネコの叔父の店だ。店長の計らいで今夜は朝まで貸し切りとなっていた。見上げると、暖かそうな明かりが微かに聞こえる歓声と共に窓から漏れていた。
 雨がしのげる場所で歩速を緩めると、すかさずツッコミが入った。
「なんだよ、早く戻ろうぜ」
「………」
「まだ女子も結構残ってるし」
「あたし、もう帰る」
「はぁ?今から?」
「………」
「あっ、門限?お前んち、相変わらず厳しそうだもんな」
「違うよ。あたし、とっくに家出てるし」
「えっ、マジで?いつから?」
 それ、あんたに言わなきゃなんない事?とバッサリ切ってしまえば良かったのだけど、お酒のせいかそれすらも面倒臭くなって、私は手にしている缶を傾けてシラを切った。
「そんなら尚更急いで帰る必要ねぇじゃん。もう電車もバスも終わったぞ」
「歩けない距離じゃないから」
「お疲れ様」と〈大人〉の挨拶を言い置いてその場を離れようとしたら、「待てよ」と想定した通りの応えが返ってきた。
「じゃ、俺も帰る」
「………」
 残念ながら、美味しかったレモンスカッシュをこのタイミングで飲み干してしまった。
「あんたんち、確か西口の方だったよね」
「あ?ああ」
「あたし、反対側だから」
「いや、ちょい待て…誰が、送ってやるって言った?」
「…………………はぁ?」
「………ぷっ」
 こみ上げる笑いを堪え震える肩を思い切り平手で打ってやった。
「イッテ!」
「バカは5年経っても所詮バカね」
「ああそうだよ。5年経とうが10年経とうが俺は、俺だ」
 しれっと当たり前な事を言う。そういうところも変わっていない。
「つまりは、俺の事、憶えてたって事だよな」
「うーん………、なんとなく?」
「お前、ほんっと、相変わらずだな」
 ムカつく、という聞えるか聞こえないかの声が、凍えた息と共に宙に溶けた。
「戻りたくないなら戻らなくていいけどさ…その…まだ、帰んなよ。折角だし」
 折角だし、か。
『みんな集まったから折角だし飲もうよ』
『ほら、今野さんも、折角だし』
 居酒屋に着いてから察したけれど、今日は参加人数が多い程飲み代の一人頭分が安くなるというシステムだったらしい。金子を中心としたグループの子たちが、当日適当に声を掛けて回っていたのだ。一瞬でも、その「折角だし」に期待を持ってしまった自分に腹が立つ。
「折角だから、仲の良い人たちで朝までとことん楽しめばいいじゃない。もうお金は払ったんだから、文句無いでしょ」
「いや、その…あいつらはもう、この際関係ねぇよ」
 ガシガシと頭を掻いて言葉を選ぶ姿が視界の端に映る。
「じゃあ何?ひょっとしてまだ気にしてんの?」
 5年前の事。
 私はそこまで言ってしまってから、手の中の缶の軽さに気づいて急にきまりが悪くなった。
「とにかくあたし、明日も仕事なの。こんなに遅くなるつもりなかったのに」
 元はと言えば、式典が終わったらすぐに帰る予定だった。振袖は母の気を済ませる為に仕方なく着ただけであって、名実共に大人になった今日からは、その類の呪いからも解放されるはずなのだ。
「へぇ!働いてんの?いつから?」
「………去年の、春」
「マジで!すげぇな!もう自立してるって事だろ?俺なんか専門卒業すんのがやっとだぜ」
 専門か。どこの学校だろう。
 湧いた疑問をそのまま口に出しかけて、私は思いとどまった。が、その僅かな隙にさえ否応なく質問が滑り込んでくる。
「で、何やってんの?今」
「…あんた、とうとうストーカーに成り下がったの?」
「バカ言うなよ、ただの」「ただの社交辞令、でしょ?あたしほんっとにもう帰るから」
「今野!」
 アーケードの天井までもがビリビリと鳴り響くようだった。
 不躾に掴まれた上腕の辺りから鈍い痛みを感じたので、痛い、とだけ短く訴えると、すぐにその拘束はほどかれた。
「ごめん」
「………」
「俺さ、俺…あれからずっと考えてて。あの時、どうしていたら良かったのかなぁー、って」
 とつとつと繰り出される言葉はそのどれもが重たい雨垂れのようで、私はそれらが自分だけに降り注いで染みてゆくのをただじっと受け入れていた。
「後悔、してたんだと思う。ずっと。結果的にお前を見捨ててしまった事を。俺がもっとしっかりしていれば…」
「あんたは間違ってなかったよ」
 空になって益々冷え切った空き缶を握りしめ、私はお腹の底から喉を震わせた。
「現に今、あんたの周りにはちゃんと人が集まってくるでしょう?そういう未来を15やそこらで選択できたあんたは、全然間違ってない」

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