見出し画像

映画「リトル・ガール」――映画論考と合わせて成立するドキュメンタリー映画

この映画を観終わった時、わたしは「サシャ、良かったね!」と思った。
しかし、終映後に購入した映画パンフレットを読んだ時、わたしは、サシャは、この映画に出演して良かったのだろうか、とも思った。

現在公開中の映画「リトル・ガール」シネ・リーブル梅田で鑑賞した。
「リトル・ガール」は、自分のセクシュアリティを生きられない主人公・サシャが、サシャが女の子として生きて行けるよう、母・カリーヌを先頭に社会(特に学校やバレエ教室)と闘っていく姿を描いた、フランスのドキュメンタリー映画である。



映画の冒頭、カリーヌは追い詰められた声で、サシャの現状を訴えた。
自分自身の妊娠によって、サシャが性別違和に苦しんでいるという嘆き。
そして周囲の無理解……。
サシャも、バレエ教室では、バレエ衣装を着せてもらえず、練習にも身が入らない。
サシャが小児精神科医との面談の時、悩みやつらいことがない、と気丈に振舞っていたが、小児精神科医と話していくうちに、涙があふれ、学校での辛さを物語っていた。
そして、カリーヌを先頭にサシャの家族が団結して、学校と交渉した結果、サシャは「女の子の姿」で学校に通うことを許可された。




「女の子として生きたい」というサシャの純真無垢な姿に何度も惹きこまれた。
しかし学校を筆頭にした「大人たちによる組織」は、サシャを女の子の姿で生きることを絶対に許さない。
特にバレエ教室では、新しく入ったロシア人コーチが、サシャを力づくで追い出した。
そのロシア人コーチは、サシャを追い出した後、満悦の笑顔をしていたという。

子どもが自分自身のセクシュアリティで生きることを許さない、全世界を支配する「男女二元論」は、子どもの自由や人権を奪っていることを、この映画では、サシャやカリーヌの姿を通じて見せつけられた。

しかし最終的には、サシャが勝利した。
自分が求めるセクシュアリティの姿で学校に通う権利を勝ち取った。
サシャは、女の子としてこれから生きていくのだろう、とわたしは思った。

ところが―――。

映画パンフレットには、映画を美談で終わってはいけない論考が待っていた。
サシャとその家族に感情移入したわたしに、客観的事実を突きつけた。

映画執筆家の児玉美月さんは、こう述べている。

「この映画がサシャの自己実現や家族の尊厳に寄与すると信じるリフシッツ(セバスチャン・リフシッツ監督)の志は尊重したい一方で、それでも映画の啓蒙的側面がサシャという一人の人生と引き換えにもたらされていることを顧みずにはおれない」
(パンフレット11頁)


映画「リトル・ガール」で、フランスに住むサシャという子どもが、映画を通じて全世界に「カミングアウト」されたという現実にハッとさせられた。
このことは、映画公開直前のイベント「イシヅカユウ×鈴木みのり×haru. トークイベント 映画『リトル・ガール』公開記念」(アーカイブ視聴終了)でも、カミングアウトされた後の状況が心配、と出演者が言及していた。
サシャの映画出演の意思で一番大きな決定権があったのは、サシャではなく、リフシッツ監督や母親のカリーヌ(+父親)だったと、わたしは推測する。
もちろん、リフシッツ監督やサシャの両親は、サシャにとって「良かれ」と思い、ドキュメンタリー映画を制作した。
ただ、世界規模の上映となると、まだ未成年のサシャへの注目度は、とてつもないものになる。
もし、「男女二元論」絶対を掲げる国へサシャとサシャの家族が観光にいったならば、入国できない、もしくは、迫害に遭う可能性もある。
リフシッツ監督は、そこまでの想像力は持てたのだろうか、という疑念が残った。

明治大学准教授の佐々木掌子さんは、子どもの性別違和・性別移行について、下記のように述べている。

「ここで重要なのは、今、目の前にいる子どもがどうなるかわからないという点です。大人になって性別移行をしない8割なのかもしれないし、性別移行をする2割なのかもしれない。それは予測不能です」
(パンフレット12頁)


つまり、幼少期の子どもには「性別の流動性」があることを佐々木さんはパンフレットで指摘している。
わたしがこの論考を読んで感じたのは、幼少期の子どもの意思を受けて「あなたは『女の子になりたい』と言ったから、今後ずっと治療を受けなさい」という親の意思によって、子どもの性別の流動性を無視して、性別移行治療を受けさせられる危険性があることだ。

0歳から18歳までの子どもは、一貫して成長をし続ける。成長の過程で、思春期のように自我の揺れに悩み苦しみながら確立していくように、性別も「女性かも、いや、男性かも」と揺れがある。
わたしも幼少期から振り返ると、多少そのようなことがあったかもしれない、と思った。

佐々木さんの論考に、わたしの視界が開けた。
子どものセクシュアリティの流動性に、大人が、そして社会が寛容になることではないか、と。

「今日のわたしは、ボーイッシュに決めたい」「今日の僕は、フェミニンな衣装でいきたい」というセクシュアリティの意思の自由、寛容性が、これからの社会に必要ではないか、と感じた。

話が逸れるが、わたしが今まで目にしてきた映画パンフレットで主観的に感じたのは、賛辞的な評論や分析を多く目にしてきた(もちろん、それが映画パンフの魅力でもある)が、客観的・批判的な視点の評論や分析のパンフレットを見たのは、「リトル・ガール」のパンフレットが初めてである。
児玉さんや佐々木さんの論考は、一読の価値が高い。

「リトル・ガール」感想は、いつもの映画感想とは違う「批判的」視点で書いてきた。
それでも、多くの人に「リトル・ガール」の鑑賞を薦めたい。
その際、映画パンフレット購入は「必須」でお願いしたい。
映画を観て、パンフレットを読んで、初めて成り立つドキュメンタリー映画。
それが「リトル・ガール」である。


この映画で総合的に感じたことを締めの言葉とする。

子どもは、大人が管理する「物」ではない。
子どもは、一人の人格であり、自由を享受し、意思を選択する権利がある人間である。