手を伸ばして 逃げて 生きて
二十代の初めから半ば辺りまで、5年間くらい
私は半分死んでいた。
日本国憲法第二十五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いてある。
私は、あの時、不健康で、息をすること程度のことに必死で
生きているけど、死んでいた。
*
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴り、鍵を開けて、ドアをー 開かない。
全体重をかけてもドアが開かない。
「今日もまたか」と息が苦しくなる。
しばらくするとドアは勢いよく開く。
必死で開けようと押していた私は勢いよく倒れ込む。
「なんで開けてくれないの!一生懸命働いてきたのに!」と恋人が怖い顔で言い、倒れ込んだ私の背を殴って部屋に入っていく。
(違う。私は開けようとした。必死に開けようとした。でも開かなかった)
(あなたが、向こうからドアを押さえつけていたから)
毎日、こんなことが繰り返された。
なんでそうなったのか、どんな話をされたとか
日々の細かいことは覚えていないけど
痛かった、悲しかった、憎かった、それらの行為だけは覚えている。
あの頃、毎日のように、恋人から暴力を振るわれていた。
*
暴力を振るわれるようになる前、私は流産をした。
思いがけない妊娠だった。
それでも彼は「順番が逆になっちゃったね」と結婚の意思があるような言葉を言っていたのを覚えている。
ところが、流産してしまった。
それから、私たちの歯車は本当に少しずつ軋み、歪んで噛み合わなくなったように思う。
私は非常勤で働いていたが任期満了で退職となり、その後から彼の暴力がエスカレートし、再就職も許されず家政婦のようになった。
*
顔面だけは殴られないように気を付けていたのに、タイミングがずれて顔面を殴られ、ボクサーのように眉の上を切ったことがあった。
「そんな顔見たくないから病院に行ってこい」と家から出されてタクシーを拾って病院に行った。
ひと針縫った。
自分の顔を見ないで家を出たから、処置が終わって病院のトイレで顔を見た時は愕然とした。
顔面が血だらけだった。
もちろん抵抗したこともあった。
抵抗したら右腕を捻りあげられて、変な音がした。
痛む腕を抱えて歩いて一番近い整形外科に向かった。。
あまり腫れていなかったので、症状から優先して診察されるということもなく、脂汗をかきながら待合室で待った。
レントゲンを撮ると右肘のすぐ上あたりの骨が2本に裂けていた。
人生初の骨折だった。
医者からどうしてこうなったのかと聞かれ、ここで本当のことを言えば助かるかもしれないと思った。
「恋人と喧嘩して・・・」と言ったと思う。
「喧嘩」という言い方が悪かったのか特別取り合ってもらうこともなく「腕って案外簡単に折れるんだよ」というような説明をされ、帰宅することになった。
暴力が振るわれるのは決まって夕方以降だった。
夜、彼が寝てから家を抜け出した。
同じ空気を吸っていたくなかった。
毎晩、毎晩抜け出しては彼が起きる前に家に帰る。
家を抜け出せるんだから、そのまま戻らないという選択もできたはずだ。
でも、私は、暴力を振るう恋人のいる家に戻っていた。
「私が悪いから」
「私がいないといけないから」
「親に心配かけられないから」
あの頃の私には自分の心はもうなくて
本当に
私はほとんど死んでいた。
正常な判断などできる状態ではなかった。
何度も何度も
逃げては戻り、逃げては戻りを繰り返した。
*
ある日、何だったか私が言いつけを破ったらしく「歩けないようにしてやる」と工具のようなもので両方の太ももを殴られた。
太ももがパンパンに腫れあがった。色が変わり、象の脚のようだった。
その日の夜中、自分の脚を見てそれまでのたくさんの怪我とは比べ物にならない恐怖を感じ家を抜け出した。
始めは歩いて病院に行こうと思ったが、とても長く歩けるような状態ではなくタクシーを呼んだ。
最初に行った病院の詳細は覚えていないが「うちでは診れない。専門外来に行った方がいい」と言われたのは覚えている。
この時点で私はかなり朦朧としていて記憶はさらにあやふやになっている。
「血管外科」という専門外来を勧められたが、自分で行けるわけもなくこの病院が救急車を手配してくれ「血管外科」がある病院へ搬送されることになった。
気づいた時は酸素マスクをしていた。
ICUだった。
そばには、顔を覆って泣く母がいた。
ICUを出た後は脚の状態が落ち着くまで寝たきりの入院生活となった。
定期的に脚に太い針を刺され、滲出液を確かめるような検査を繰り返した。
この時、あの恋人には自分はその病院にいることは伝えなかった。
自分に連絡手段がなかったということもあるが、このままなかったことにしたいと思っていた。
そこまで追ってこないだろうと思っていた。
しばらくして、実家のそばの病院に転院することになった。
私はこの怪我をする直前、彼に内緒で面接を受けた会社があった。
試験採用期間中だったので、その会社に連絡をした。
病院名を聞かれ伝えてしまったのが間違いだった。
ある日、彼が病院に現れた。
いるはずのない人がそこにいた。
どうしてわかったのか、彼は私が面接を受けた会社を知り、その会社に連絡をし病院を聞いたと言っていた。
当時は今ほどに個人情報にうるさくなかったから、適当なことを言って聞き出したのだろう。
甘い言葉で一緒に帰ろうというようなことを言っていたが、流石に病院から私を連れ出すことはできなかった。
*
退院し実家での生活が始まった。
彼は私の実家を知っていたから不安でたまらなかったし、彼との家にペット(リクガメ。今も一緒に暮らしている)も置いてきてしまっていたのが心残りだった。
両親は私の異変に気づいていた。きっとDVだろうと思っていたはずだ。
でも、言えなかった。
この状況でもなお私はDVにあっていたと言えなかった。
のらりくらりと適当なことを言っていたが、両親は深く聞かず私を実家においてくれていた。
私は痩せ細っていた。
あの頃、自分が食事をどの程度摂っていたか覚えていないが、退院後に実家で体重を測ったら155cmで34kgしかなかった。
髪を切ることもなかったので、髪は腰ほどに伸びていた。
顔は浅黒く、凹凸がなく異常だった。
鏡に映る自分をちゃんと見たのは何年振りだっただろうか。
自分の変わり果てた姿に愕然とした。
このままではダメだ。
またあそこに戻ったら私は死んでしまう。
私が死なないとしても、私は人として一線を超えてしまうかもしれない。
そう思ったとき、助けを求めるしかないと心を決めた。
それでも、すぐに両親に言えず
古い年賀状を引っ張り出して、ある人に連絡をした。
過去、お付き合いをしていたが私が振った相手だった。
メールアドレスが書かれていたので、母からパソコンを借りてメールをした。返事はすぐに返ってきた。
そして、翌日には自宅のそばで会う約束をした。
彼に全てを打ち明けた。
彼は、私にまず両親にきちんと話をするようにと説得してきた。
それでも私は両親に打ち明ける勇気が出なかった。
怒られる。心配をかける。母がまた泣いてしまう。
たくさんの思いで震えて、話すことができない。
それを聞いた彼は、同席して一緒に両親に話をしてくれた。
両親とは初対面だったにも関わらず、私が言えないことを全て話し、この後にすべきことの段取りさえも考えてくれた。
彼のサポートのおかげで私は暗い暗い地の底から救いあげられた。
DVを受けていた家にペット(今も一緒に暮らしているリクガメ)を置いてきてしまっていたので、どうしてもそれだけ取り返したかった。
両親と彼についてきてもらって、あの家に向かった。
カメを抱えて家を出る私に、かつての恋人がすがった。
何を言われたのかもう覚えていないが私が「そういうのがだめなの!」と泣きながら叫び、ついてきてくれた彼が「希さんが泣いてるじゃないか!」と怒鳴ったことだけは記憶している。
私の繰り返しの生活はこれが最後になった。
この彼とはこの再会がきっかけで再婚した。
再婚したが、結局また別れてしまった。
助けてもらったのに・・・と思うが、助けてもらったからということで結婚生活を続けることは互いにとって重い枷になっていた。
自分の命を取り戻した
しばらくはPTSDで、電車にも乗れなかったし、1人で外も歩けなかった。
殴られる、蹴られる、追いかけられる夢を毎日のように見て泣き喚く自分の声で起きる日々を過ごした。
自分の命を、自分の手に取り戻して20年くらい経った。
今は、もうほとんど自分の泣き喚く声で起きることもない。
*
今、隣にはいつも優しい夫がいる。
夫は私のこの経験も、当然前夫のことも知っている。
前夫のことを私の命の恩人だと言ってくれている。
私もそう思っている。
夫と結婚する前の話。
有名な神社の境内でお守りの指輪を売っている露店があり、その店主が手相も見てくれるということを雑誌で知った。
占いとかそういう類いのものはあまり信じないけど、どうしても行きたいと思い夫と一緒に行ってきた。
手相を見てもらうと「あなたは、この彼と一緒にいれば、ずっと女の子でいられるから」と言われた。
嬉しかった。
とにかく嬉しかった。
全くの他人に、恋人との関係を肯定されたことが嬉しかった。
心の底から安心した。
*
世の中には、かつての私のような生活を強いられている人はたくさんいる。
今、これを読んでくれている人の中にも、もしかしたらいるかもしれない。
もし、あなたが今かつての私と同じように暗い暗い世界にいるのだとしたら
どうかその手を伸ばして欲しい。
あなたが手を伸ばせば必ず掴んでくれる人がいる。
あなたは、何も悪くない。
逃げることは悪いことじゃない。
すごく辛くて、踏み出すのは本当に大変なことだけど
あなたが一歩を踏み出せば、助けてくれる人は必ずいる。
*
女子トイレには「DVに悩んでいませんか」というカードやポスターが置かれていることがある。
今すぐに電話をしよう。
当然、DVは男性から女性とは限らない。その逆もある。
(男子トイレにはカードやポスターはあるんだろうか)
今の時代は、このような機関もある。
助けてくれる場所はあるんだ。
あとは、あなたの勇気だけ。
何度でも伝えたい。
暴力は間違っている。
あなたは悪くない。
あなたは救われるべきだ。
これを書くことはとても悩みました。
なんの誰のためになるのか。
あえて痛い経験を文字に起こす必要があるのだろうかと。
私は「かわいそうだったね」とか「大変だったね」と慰めて欲しいわけではありません。
今の私はもう当時のことをサラッと話せるくらいには心身ともに健康です。
当事者だった私が経験を語ることで、今悩んでいる人の背を押すことができるのではないかと考えました。
当時の私も「私もそうだったよ、でも助かったよ」と言ってくれる人がいたら「今の状態は異常なんだよ 逃げなきゃいけないよ」と言ってくれる人がいたら。
正直、当事者になってみるとその立場になったことがない人からの言葉は、なんというか〝薄い〟気がしてしまうものです。
結局「なってみないとわからないよ」と心がひねてしまう。
もちろん、その立場を脱した人の言葉も「あなたはね」と言われてしまえばそれまでなんですが。
それでも
どうか一人でも多く、悩める人が救われますように。
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