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『光る君へ』を歩いてみた~一条大路コース

京都歴史マニアックツアー、午後は一条大路コースです。
 ▶午前の二条大路コースはこちら

これが一条大路コースの私家版地図。地下鉄今出川駅からスタートします。今出川通りにある⑥京都市考古資料館にも立ち寄りたいと思います。では、出発!

灰色は平安京の大路。薄紫色は現在の‘通り’とその名称。一部のみ記した。■は石碑などの場所

①一条大路へ

①とらやの角を曲がって、西に進みます。現在は京都御苑で途切れていますが、東の方、京都御苑の中にも一条大路は続いていました。

平安時代、賀茂祭が近づくと人々はウキウキしました。斎院の行列が通る日には、一条大路に、たくさんの見物の人々、物見車が並び、桟敷も準備されました。

『源氏物語』では、賀茂の河原に御禊に向かう斎院の行列を見物にでかけた六条御息所が、一条大路で葵の上との車争いに巻き込まれてしまいましたね。

これは、現代の葵祭。京都御苑の観覧席から見物しました(2023年5月16日)

②藤原道綱母子 一条邸跡

『光る君へ』では、道綱母が大活躍しました。今でも、道綱が画面に登場すると、〈道綱、道綱〉と母親とセットで思いだされます。

③内裏の鬼門(北東)を守る安倍晴明の邸

堀川通りを渡ったところで、一条大路を少しはずれて、晴明神社に立ち寄りました。

『光る君へ』の晴明にも、だいぶ慣れてきました。”すご腕のコンサル”というイメージ、意外でおもしろい。

でも、私の晴明のイメージは、こっち↓↓↓。

④左手に、一条院の建物(妄想)

一条通りにもどって、平安時代の大内裏にむかって歩いています。

民家の壁にこんな看板が。

⑤一条院

記録によると、一条天皇の時代に3度*内裏が焼失。内裏が再建される間は一条院が里内裏となりました。紫式部が彰子さまの女房となって働いていたのも、一条院です。

*内裏が焼失した日は、999年6月14日、1001年11月18日、1005年11月15日。帝のご心痛はいかばかりかと、お察しいたします。ああ、おいたわしや。
ちなみに『光る君へ』第17回で、道隆が逝去しましたが、これは995年のことです。

⑥京都市考古資料館 特別展示「紫式部の平安京」

大宮通りを北に上り、今出川通りにある京都市考古資料館へ。

火災で焼けた痕が残る内裏跡の石など、1000年以上前の遺物を直に見ることができます。なんてすばらしいの。

京都市考古資料館>平安京散策マップ

①とらやの角を入ってすぐの、とらや茶寮で一休みしたけれど、京都市考古資料館をでたところで、堀川今出川の交差点にある鶴屋吉信のカフェでまたまた一休み。歩き疲れると甘い物が欲しくなるの。白峯神宮にちょっと立ち寄り、今出川口から京都御苑に入りました。

⑦土御門殿

源雅信さまの邸でしたが、死後、倫子さまの婿である道長が受け継ぎました。彰子さまが皇子を出産したのも、この土御門邸です。

土御門殿は、大内裏の上東門に通じる土御門大路に面して建っていました。彰子さまが上東門院と呼ばれるのも、土御門殿を里邸にしていたからでしよう。

⑧法成寺

藤原道長が出家後に建立した寺で、晩年をここで過ごしました。

歩くとわかる平安京の広さと位置関係。京都歴史マニアックツアーは(たぶん)つづく。


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